[#表紙(表紙2.jpg)] 落語百選 夏 麻生芳伸編 目 次   まえがき  出来心  道灌《どうかん》  狸賽《たぬさい》  笠碁《かさご》  金明竹《きんめいちく》  鹿政談  しわい屋  百川《ももかわ》  青菜《あおな》  一眼国《いちがんこく》  素人鰻《しろうとうなぎ》  二十四孝  売り声  船徳《ふなとく》  お化け長屋  たが屋  夏の医者  佃祭《つくだまつり》  あくび指南  水屋の富  紙入れ  千両みかん  麻のれん  三年目  唐茄子屋《とうなすや》 [#改ページ]   まえがき 「落語」を聴いて、ただゲラゲラ笑っているうちに、ふとそこに、生きている歓びや、自分とよく似かよった性癖、心情を見出し、もうひとつの人生の機微に浸り、溶けこんでいることに気づく。  大衆の娯楽である「落語」は、そうした人びとの感情を、つねに惹きつけ、汲みこみ、与え……繰り返し繰り返し語り伝えられていくうちに、選《え》りすぐられた知恵と洗い練られた語感が、人びとを飽きさせないのである。  大衆の——などというと、最近は、大量集団《マス・コミユニケーション》の、万事、大げさなことのように受けとられがちだが、私の言う、このばあいの大衆とは——身近な、手の触れる、親しいものの意味で、「落語」もまた、ほんらいそういうものであり、いわば生活のなかの必需品であり、実用品なのではないか。 「蒸す寄席に一夜の遊び梅雨に入る」(石塚友二)  夕闇とともに、ふらっと、寄席の吊り提灯の灯《あかり》にさそわれるように立ち寄って、一席の「落語《おとしばなし》」に耳の垢《あか》を落とす……。人を寄せるから寄席[#「寄席」に傍点]——現在では、演芸場、ホールなどと呼び名が変わったが、人びとの想いにそれぞれの差異こそあれ、面白くもない現実をちょっとの間忘れて、噺家の舌先三寸の話芸につりこまれて、その情景、出来事をさまざまに思い描いて、笑いや、あるときは涙とともに、一日の労働の疲れと、胸中にちり積った憂さをはき出してしまう。それが、噺の上の、他人《ひと》事ならばなおさら、聴く側は心おきなく、充分に感情を移入することができ、娯しむことができたのではないか。——人は、現実の、自分自身の身に起こったことでは、安易に笑ったり泣いたりすることができないから。  したがって、「落語」には、自《おのず》から大衆を対手《あいて》とする、自由闊達な、旺盛な活力《ヴアイタリテイ》と、人びとの心を把握しようとする拡がりが生まれてくる。 「落語」の身上をひと言でいえば、人間が生きていく、日常的なありのままの生態が、直截的《ストレート》で、かつ客観的に描写されている……のだが、それが、江戸時代という、一都会の町内|周辺《サイド》(例外としていくつか地方《ローカル》もあるが)を題材とし、背景にしているにしろ、それは大衆の、われわれが感覚像《イメージ》のなかで創《つく》り上げたものであり、大衆の、われわれ自身の分身が寄り集まって、登場人物を構成しているようなものである。  今日、こうした「落語」にふれあうことで、依然として、人間だれしもが抱く——今日、流行《はやり》の〈原点〉などというとわかりがいいが——まぎれもない懐しく愛《いと》おしい人間の普遍性・共通性がたしかめられる。そして、生きている歓びにふと触れて、心が浄化され、慰められる。  大衆の伝統というものは、結局のところ、過去がどうあったとか、未来へどう伝えるか……ということはさておき、何よりも今日を生きていることをわかちあえる、というところにあるらしい。  してみると、「落語」は、われわれの面白くもない現実、生活のなかで忘れているものでなく、われわれの面白くもない現実、生活のなかからよりよいものを創り出そうとしたものとも言えるだろう。——これが、人間の、ほんとうの文化と呼べるものではないか。  これから、われわれの分身である、八っつぁん、熊さん、隠居、若旦那、与太郎、泥棒……が次々に登場します。 [#地付き]編者 [#改ページ]   出来心  落語のほうに出てくる泥棒は、あまり後世に名を残すような立派[#「立派」に傍点]な泥棒はいない。もっとも泥棒で成功して功なり名を遂げたなんていうのは、あまり、おだやかではない。やはり、これをやりそこなうところが噺のネタになるようで……。 「どうもてめえには、あきれけえってものが言えねえ。なにをしても満足なことは一つとしてできゃあしねえんだからなあ……。ええ? 仲間が言ってるぜ、もうとても見込みがねえ、いまのうちに足を洗わして、堅気にしたほうがいいってえが、おめえ、どうするんだ」 「いえ、せっかくまあ、縁あって親分子分の盃をいただいたんですから、あたしもこれからは、心を入れかえて、一所懸命悪事にはげみますから、どうかいままでどおり置いてください」 「そうか。おまえが真心に立ちかえって、泥棒の修行にはげむと言うなら、置いてやらねえこともねえ。けど、少しは人にほめられるような仕事をしてみろい」 「へえ、どうも考えてみると、人にばかり教わっていたんじゃあだめだと、このあいだ、自分でおもいきって一つやっつけてみようとおもってね」 「そいつは感心だ、なにをやった?」 「土蔵破りをやりました」 「たいへんなことやりやがったな、でっけえ土蔵か?」 「へえ、一町半ばかりもあったかな」 「一町半? たいへんなもんだな。どこか河岸かなにかの土蔵か?」 「へえ、屋敷の土蔵で……」 「ふーん、うまくいったか?」 「雨が宵の口から降っていやした。道具でぶちこわして身体の入《へえ》れるだけ穴をあけましてね」 「それは豪儀だ」 「中へ入《へえ》ってみると、いっぺえ草が生えてますんで……」 「蔵ン中がか?」 「石ころなんかごろごろしてまして……」 「おかしいじゃねえか」 「そのうちに雨がやんだんで、上を見ると、星が見える」 「変じゃねえか、土蔵のなかで……」 「あたしもおかしいなとおもって、よくよくみたら親分の前ですが、こいつが大笑い……」 「なんだ?」 「土蔵じゃなくて、お寺の土塀を破って、墓場へしのびこんだんで……」 「ばかっ、土蔵か、土塀だかわかりそうなもんじゃねえか」 「それが、どうも、あいにく暗くってわからなかったんで……」 「なんか盗んだか?」 「いや、隅のほうの墓石を持ってこうとおもったが、重くって重くって持ちあがらねえから、よした」 「まぬけな野郎だ。……土蔵破りなんてそんな仕事でなく、おめえには、とてもまともな盗みはできそうもねえから、空巣《あきす》でもやってみろ」 「空巣ってなんです?」 「なんだ、泥棒のくせに空巣を知らねえのか」 「自慢じゃありませんが……」 「そんなことが自慢になるか……空巣というのはな、人のいねえ留守をねらって家へ入《へえ》ることだ」 「そいつはたち[#「たち」に傍点]がよくねえ」 「ばかっ……たち[#「たち」に傍点]のいい泥棒がいるか……なあ、早え話が、夫婦っきりかなんかで、亭主は稼ぎに出ている。夕方、かみさんのほうは夕飯の支度をしようって、ちょいと小買物《こがいもの》に出かけらあ、すぐ帰ってくるからいいだろうってんで、締まりをしねえで出るやつだなあ。ここをつけこんで入るんだ」 「はあはあ、なるほど。でも、表からここの家は留守だか留守でねえか、わかりませんねえ」 「うん、はじめはわからねえ。表から当たりをつけろ」 「提灯を持ってって?」 「なにを言ってやがる。灯りをつけるんじゃあねえ、当たりをつける。閉まっている家があったら、当たってみるんだ。新道とか抜け裏で戸が閉まってる家があったら、『ごめんください』と二、三度声をかけて、中で返事がなければ、門口を開《あ》けて中へ入《へえ》って、また声をかける、いいか。でも返事がねえからって、安心しちゃあいけねえ。厠《はばかり》へ入《へえ》ってねえともかぎらねえ、いいな。あわてるんじゃあねえ、落ち着かなくちゃいけねえよ、といってあまり落ち着いてもいられねえ、すぐ帰ってくるんだから、逃げ道から調べて、表口から帰ってきたら、裏口を開けて、裏口から帰ってきたら表口へ逃げるということにするんだ……おめえみてえなドジな野郎はつかまらないともかぎらねえ」 「そういうときはどうします?」 「盗みをしているところを見つかったんだからしかたがねえな。そんなときには、むやみに逃げまわったりしねえであやまっちまうんだ」 「ごめんなさい、このつぎは見つからないように盗みますからって……」 「そんなことを言うやつがあるか……そういうときは泣き落としという手をつかうんだ……盗んだものはみんなそこへ出して『まことに申しわけありません。じつは職人のことで、親一人子一人、おふくろが三年越しわずらっておりまして、このごろどうも様子が悪うございますから、もしも留守にまちがいでもあってはならねえと、仕事を休み、きょうは少しいいとおもって出かけましても、なにぶん病人のことが気になって仕事が手につきません。半日で帰るというようなわけで、間を欠いたところから、親方をしくじってしまい、仕事をしねえで家にいれば、だんだん食いこむばかり、病人に薬をのませることもできません。あ、これを質にでもおいて、おふくろに薬をのませたり、うまいものの一つも食べさせられるとおもいまして、ほんのつい出来心でございます』と、涙の一つもこぼしてみれば、『それはかわいそうに、ああ、出来心じゃあしかたがねえ』と勘弁してくれらあ。うまくいきゃあ小遣いの少しもくれて、逃がしてくれようてえ寸法だ。どうだ、わかったか」 「くれねえときは、親分がくれますか?」 「ずうずうしいことを言うなよ……おれのいま言ったことがわかったかてんだ?」 「ええ……つまりですね……ごめんくださいと言葉をかけて、返事がなかったら留守だから仕事をする、返事があればいるんだから、どうも申しわけありません。出来心で……」 「おいおい、まだ盗まねえうちから名乗りをあげるやつがあるものか。もし返事があったら、そこはしらばっくれてものをたずねるんだ」 「近ごろの世の中をどうおもうかなんか……」 「いきなりそんなことを聞けば、相手はびっくりすらあ……そんなことでなく『この近所になに屋なに兵衛さんてえ人はいませんか?』とか『なに町のなん番地はどのへんでしょうか?』とか聞いてみろ、相手が知ってても、知らなくてもいいから『ああそうですか、ありがとうございます』と、礼を言って出てくればいいんだ」 「ああ、なるほど、そうすれば泥棒とわからないわけだ……では、さっそく出かけますから、風呂敷を貸してください」 「どうするんだ?」 「盗んだものを包んできます」 「どうせ盗みに行くんだから、向こうの風呂敷で包んでくればいいじゃねえか」 「でも、返しに行くのが面倒だから」 「ばかっ、返さなくてもいいんだ」 「それでは義理が悪い」 「なにを行ってるんだ、まぬけめ、早く行けっ」 「では親分、空巣ねらいに出かけます」 「大きな声を出すんじゃねえ。そっと出かけろ」 「では、行ってきます……えー、少々うかがいます」 「おーい、となりからやるんじゃねえ。町内をはなれろ」 「あははは……さすがの親分も、となりは気がさすとみえるな、町内をはなれろと言ったな……では、はなれたところで……このへんはどうかな?……えー、ごめんください、こんにちは」 「おーい」 「へい、へい」 「そこは、空家《あきや》だよ」 「空家ですか……なるほど、造作つき貸家と紙が貼ってあらあ」 「貸家捜しか?」 「いいえ、留守捜しで……」 「留守捜し?……変な野郎だな」 「そう見えますか」 「あやしい野郎だ」 「ごもっともさまで……」 「なんだと、この野郎?」 「さようなら……空家はまずかったなあ……人が住んでいねえんじゃ盗みようがありゃあしねえや……この家はどうかな?……えー、ごめんください」 「はい」 「さようなら」 「おい、気をつけなさいよ。おかしいのがうろついてるから……下駄でもなくならないかい」 「やれ、やれ……下駄泥棒なんかとまちがわれちゃあしかたがねえや……あわてたからいけなかったんだな。ごめんください、はい、さようならって言えば、だれだってあやしむよ……こんどはぐっと落ち着いて、向こうの様子をうかがわなくちゃいけねえや。どうしようかな……ごめーんくださーい、しょーしょーものーをうかがいますとゆっくりきいてやろう……では、この家でやってみようかな」 「ごめんくださーい」 「はい、なんのご用ですか?」 「おや、そこにおいでになりましたか」 「ええ、さっきからここに座っておりました」 「それはあいにくでした。いつごろお留守になります」 「留守にはしません」 「それは用心のいいことで……では、またお留守のころにうかがいます。さようなら」 「なんだい、あの人は……」 「いけねえ、いけねえ。目の前に座っていたとは気がつかなかったな。なかなかうまくいかねえもんだ……えー、ごめんください」 「へえ、おいでなさい」 「おや、おりますね」 「いるから返事をするんだ」 「なるほど」 「なんだ、おまえは?」 「えー、少々ものをうかがいますが……」 「なんだ」 「えー、お宅には裏がありますか?」 「なんだ、裏はあるよ……言うことがわからないな」 「いいえ、あの……なに屋なに兵衛さんはご近所で?……」 「なんだと?」 「いえ……その……なに町のなん番地てえのはどのへんでございましょうか? ……いえ、よろしいんです。もうわかりましたから……」 「なにがわかったんだ。この野郎、おかしなことばっかり言いやがる」 「いえ、あの……なんでございます。このご近所に、なんです……さ、さ、さいご兵衛さんてえ方をご存知ないでしょうか?」 「さいごべえ? そんないたち[#「いたち」に傍点]みてえな人は知らないね」 「あたしも知らない」 「なにをッ」 「さよなら……わー、おどろいた、おどろいた。なにをッてまっ赤ンなって怒りやがった……でも、さいご兵衛はよかったね、そんなまぬけな名前のやつはいないもんなあ。そうだ、これからみんなこれでいこう……やっ、この家は少し開《あ》いてるじゃねえか。ごめんくださーい、少々うかがいまーす……お留守でしょうか?……泥棒が入りかかってますよ、……ぶっそうですよ……戸締まりはしっかりしなくてはいけませんね……厠《はばかり》から出てきて、バァなんてのはいけませんよ……しめ、しめ……いないんだ、ほんとに……こうなればこっちのもんだ。上がっちまおう……あれ、いい道具が揃ってるじゃあねえか。あっははは、いい長火鉢だ。欅《けやき》だなあ、落としもいい、銅壺《どうこ》もいいなあ。湯が沸いてらあ、いい鉄瓶だ、いい形だ、南部かなあ……お、煙草《たばこ》入れがあらあ、いっぷくさしてもらおうかな……親分が落ち着かなくちゃいけねえてえから、ぐっと落ち着こう。泡食って出世したのは鯔《ぼら》ばかりてえから、落ち着きが肝心だ……ああ、いい煙草だ、口がおごってやんなあ。ははは……こう落ち着いてしまえばこっちのもんだ、これより落ち着くのにはこの家に泊まっちまわなくちゃならねえ、へへ、なあ……菓子盆があらあ、ふふふ、ああ、羊羹《ようかん》だよ……ずいぶん薄く切りやがったな、けちな野郎だ。これで数をよけいにみせようってんだ。よし、敵がそういう手をもちいるならば、こちらは計略のウラをかいて、三切《みき》れいっぺんに食うという手をもちいて……あー、はは、うーん、うまい羊羹だ、こいつはいいや……」 「おーい、下へだれか来ているのか?」 「ううっ、くーっ……すみません。ちょっと背中をたたいてください……苦しいッ」 「こうか……どうだ……」 「……羊羹が胸へつかえて……」 「なんだ、おめえさんは?」 「あっ、直りました。どうもご親切さまにありがとうございました」 「なんだ、見なれない人だね?」 「へえ、……二階においでになったんですか?」 「あたしゃ上で片づけものをしていたんだが、あんただれだ?」 「あの、ちょっと、ものをうかがいたいんですが……」 「冗談じゃない。ものを聞く人間が、人の家へ上がりこんで、羊羹を食うって話がどこにある」 「いえ、あの、落ち着きました」 「落ち着く? いったいなにを聞きてえんだ?」 「この近くにおいでになりますまいなあ」 「だれが?」 「いえ、たしかにいないんです」 「たしかにいねえ……だれがいないんだ?」 「へえ、あの……さ、さいご兵衛さんてえ方をご存知ないでしょうか?」 「そんならそうと早く言えばいいじゃないか。さいご兵衛はわたしだ」 「ええっ、あなたが? そんなことはないでしょ」 「なにを言ってるんだ。わたしがさいご兵衛だ」 「いいえ、いえ、あなたでないさいご兵衛さんなんで……もっといい男のほうのさいご兵衛さん」 「なにを?」 「よろしく申しました」 「だれが?」 「あたしが……」 「なんだ、ふざけるな」 「さよなら……いやあ、おどろいたね、どうも……世の中にはまぬけな名前のやつもいるもんだ、あっは……二階があるのを気がつかなかったよ。こんど二階を気をつけなくっちゃあいけねえ、ああ、おどろいた……でもまあいいや、羊羹を食って煙草をのんだだけでももうけもんだ……あっ、いけねえ、買いたての下駄ぬいできちまった。羊羹と煙草ぐらいじゃあわねえや、どこで損するかわかりゃあしねえ……ここまで逃げてくりゃ、もう大丈夫だ……おや、なんだい……ずいぶんまあうす汚《ぎたね》え長屋へまよいこんじゃった……あれ? ここの家は少し戸が開《あ》いてるぞ……ごめんください、ごめんください……いねえな、ごめんくだ……ああ、敷居が腐ってやがる……ああ、開いた開いた……なかに障子もなんにもねえ、こら、空家か? いや、人が住んでるらしいな……あんなところへ越中|褌《ふんどし》を干したりして、汚え家だな。さてと、外から帰ってきたときにしょうがねえから逃げ道を先へ考えておかなくちゃあいけねえ……おやこりゃだめだ、地境《じざかい》が裏の蔵の土塀で出られねえ。たいへんな家へ入《へえ》っちゃったぞ、こりゃ……畳もぼろぼろで、畳というほどのもんじゃあねえ、たた[#「たた」に傍点]がなくってみ[#「み」に傍点]ばかりだ。目ぼしいものは一つもねえ。弱ったなあ。あッ、あんなところに七輪が鉢巻きして、今戸焼の土鍋がかかってらあ。……きょうは縁起だからなんか持って行きてえなあ、せっかく入ったんだから……でも、こんなものしょうがねえなあ、百にもならねえや、これでも盗みゃあ泥棒の罪はおなじだ。ばかばかしいな……土鍋のなかになにか煮てやがる……あ、おじやだ……あああ、しけてやがるな、こんなものをくらってるんだからろくなものはねえ……ちょうど腹がへってんだから、このおじやをいただこうじゃねえか……それとこの褌を盗まねえよりはいいから、懐中《ふところ》へ……と、うん、この茶碗に……と、うん、腹がへってるときにまずいものなしってえが、こいつはうめえや……ずずずずずっ、ずずずずず……いい商売だなあ、泥棒なんて元手がいらねえんだから……ああ、うめえ、うめえ」  と、泥棒がおじやを食べていると、表で声がした。さあ、たいへんと裏から逃げ出そうとしたが裏は行きどまり。とっさに開《あ》いている根太《ねだ》板をあげて縁の下へ隠れた。 「しょうがねえな、だれか来やあがって開けっぱなしにしやがって……あれっ、大きな足跡があるぜ。ははあ、泥棒が入《へえ》りやがったな、さあたい……たいへんでもなんでもねえや、こりゃなんにもとられるものはねえんだからな、こういうときは貧乏人は安心だあ……おやおやおや、冗談じゃあねえや、おれのおじやを食っちゃったじゃねえか、どうもおどろいたねえ……あれ、おれの越中褌を持ってっちまった。けちな泥棒じゃあねえか。世の中はしけ[#「しけ」に傍点]だなあ、おれの家にまで泥棒が入《へえ》るようじゃなあ……だけど待てよ。ええ? 差配《さはい》から店賃の催促をされているんだが、これでもって、言いわけになるなあ。ありがてえことになったなあ、差配のところへ持っていこうとしていた店賃を盗まれたと言えば、まさかそれでもよこせとは言うまい。そうだ、そうだ。差配を呼んでこう……差配さーん、差配さーん、早く来てくださいよう、たいへんですよう、泥棒ですよう、泥棒が入《へえ》ったんで、差配さーん、泥棒ですよう、差配さん、泥棒差配……」 「なんだ、なにが泥棒差配だ」 「いえ、いま、差配さん、泥棒が入りましたと言おうとしたら、入りましたをぬかしたんで泥棒差配……」 「この野郎、あたしを呼ぶのに泥棒というやつがあるか」 「へえ、すいません、いまうちへ帰ると泥棒が入ってたもんですから……」 「なにか置いてったか?」 「まさか……泥棒ですから、持って行きました」 「おめえの家でも、なにか持って行かれるようなものがあったか」 「へえ、みんな盗《と》られちまったんで、それに差配さんのところへ持ってくつもりの店賃も盗られちまったんで……どうか店賃のところは、ひとつ待っておくんなせえ」 「うーむ、それじゃ店賃どころじゃあなかろう」 「へえ、店賃なんかどうでもかまわねえんで……」 「かまわないということはないが、そりゃ盗まれたならしかたがねえ、待ってやるから……」 「しめた」 「なに?」 「いえ、こっちのことで……では、もう結構ですから、お帰りください」 「なに言ってるんだ。どんなものを盗られたかは知らねえが、お上《かみ》へ早く届けなければいけねえよ」 「なに、ようがす、届けねえでも……」 「よかあねえ。届けておけば品触れといって、お上から諸方へ触れるから品物が出ることがある。またお上へ届けておかないとこっちの手落ちになるからな」 「へえ、品物が出るんですか?」 「ああ、出ることもあるよ」 「そりゃありがてえ、よそで盗られたものでも出たらくれますか?」 「よそのものまでくれるか。おまえの盗られたものだけだ、なにを盗られたんだ?」 「えッへへへ……もう、そっくり持ってかれちゃったんで……」 「そっくりとは書けねえ。品物を一々な、ひと品ずつ、ここに書いてやるから言ってみろ」 「いいえ、ようがす」 「ようがすって、おまえ、言ってみなよ」 「ああ、そうですか?……じゃ、すいません、越中褌が一本とねがいます」 「褌? そんなものがここへ書き出せるか?」 「へえ、差配さんの前ですけれども、泥棒なんてえ者は、いったいどういうものを持って行くもんでしょうね」 「どういうものを持ってくったって、わたしは泥棒じゃあなし、わからねえが、まずおもに目につけるのは着類《きるい》だな」 「あ、そうそう、きるいきるい、四分板《しぶいた》、六分板、松丸太……」 「そのきるいじゃあない。材木じゃあないよ、身体へつける着物だ」 「そう、着物」 「どんな着物だ?」 「だから、越中褌」 「そんなくだらないことはどうでもいいって言っただろう。もっと重々しいものはないか」 「ああ、そうですか、へえ……じゃ、沢庵石が三つ」 「その重いんじゃあないよ。もっと金目のものだ」 「へえへえ、金目なもの」 「どんなものだ?」 「金の茶釜」 「そんなものがあったのか?」 「ねえから盗られねえ」 「盗られねえものはいいんだ」 「それなら、夜具布団なんかを……」 「ずいぶん大きなものを持ってったな……きっと二人組か三人組だな……で、どんな布団だ?」 「いえ、おかまいなく……」 「おかまいなくじゃねえ……いったいどんな布団だ?」 「へえ、綿の入《へえ》ってる布団」 「綿の入らねえ布団があるかい、厚い、薄いはあってもみんな綿が入ってるもんだ」 「へえ、いい布団で……」 「いい布団じゃあわからない。表はなんだ?」 「表はにぎやかですねえ」 「表通りのことをきいてるんじゃねえ、布団の表だ」 「あの、差配さんとこでよく干してあるやつとおんなじなんで……」 「ありゃあ唐草だ。べつに上等じゃねえ。唐草模様だな」 「ええ、あっしンところも唐草模様で……たいした布団じゃあねえ」 「真似をしなくてもいい……裏はなんだ?」 「裏は行きどまり」 「この路地のをきいてるんじゃねえ。布団の裏だよ」 「差配さんとこのは?」 「うちのは、丈夫であったかで、寝冷えをしねえように、花色木綿《はないろもめん》だ」 「ええ、あっしンとこも、丈夫であったかで寝冷えをしねえとこで花色木綿」 「なんだ、じゃおなじじゃねえか」 「ええ、うらみっこのねえように」 「なん組だ?」 「五十組」 「五十組? そんなにこの家に入《へえ》るかい?」 「あっしのところにゃあねえけれど、宿屋に……」 「ふざけるな、おまえの盗られたのはなん組だ?」 「なん組にもなんにもあっしが寝るだけなんで……」 「じゃあ一組じゃねえか……それからあとは……そうだな、絹布《やわらか》ものかなんかなかったか?」 「へえ、せっかくつくっておいたおれのおじやを食われた」 「おいおい、そのやわらかものじゃあねえや、まあ絹物だ、たとえば羽二重《はぶたえ》とか……」 「へえ、羽二重羽二重、黒羽二重……」 「お、黒羽二重、そんなものを染めたのか?」 「へえ、染めたんで」 「小袖《こそで》か?」 「大袖《おおそで》」 「袖の大きい小さいをいうんじゃねえ、綿の入ってる絹布《やわらか》ものを俗に小袖というんだ」 「綿入の小袖」 「わからないやつだな、紋はなんだ?」 「唐草」 「唐草という紋があるか、おまえのところの定紋があるだろう」 「そんなモンはねえ、文なしで……」 「定紋がない? 紋があれば品物がみつかったときのいい目印になる」 「ああ、おもいだした、うちの紋は、うわばみ」 「うわばみ? そんなものはない。どんな形をしている」 「お尻《けつ》のようなものが三つついてる」 「お尻のようなものが三つ?」 「差配さん、うちの先祖はおわい屋ですかねえ?」 「そんなことを知るもんか……うん、それはかたばみだ。うわばみってえやつがあるか。この紋は三所紋《みところもん》だな?」 「いえ、六所紋《むところもん》」 「なんだ、紋が多いなあ、いったいそりゃどこへつけるんだ?」 「えー、お尻について、こう紋[#「こう紋」に傍点]てんで……」 「なにをばかなことを言っている」 「裏は花色木綿」 「おいおい、羽二重の裏へ花色木綿てえのはおかしいな……あとは?」 「あとは、はだかの帯」 「なんだ、そのはだかの帯てのは? 博多か? ほう、いいものを持ってたなあ、博多の帯だな? どんなんだ?」 「ええ、表が唐草模様で、裏が花色木綿」 「なんだと……唐草の帯なんてあるか、帯に裏なんかあるもんか。帯芯にでも使ったんだろう」 「そうなんで……芯は花色木綿」 「あと帯は?」 「岩田帯」 「おいおい、だれか子供でも出来たのか?」 「熊公ンところの牝犬が……」 「犬が岩田帯をしめるか、あとはなんだ?」 「ええ、唐桟《とうざん》の半纏《はんてん》……裏が花色木綿」 「そうか。おめえはなんでも花色木綿だ……冬物ばかりで夏物なんかなかったか?」 「夏物は、うちわに蚊取線香」 「そんな夏物じゃねえ。単衣《ひとえ》とか帷子《かたびら》とか」 「うん、帷子」 「どんな帷子だ」 「経《きよう》帷子」 「経帷子を持ってるやつがあるかい」 「差配さんがよそへ行くときよく着て行きますね、あれは?」 「あれは上布《じようふ》だ」 「あっしも上布なんで……」 「そうか、たいしたものを持ってるな、で、上布は縞《しま》か絣《かすり》か?」 「橙《だいだい》かあ」 「なにを言ってるんだ。どっちなんだ?」 「縞」 「どんな縞だ?」 「佃島」 「そんな縞があるか」 「ええ、縦の縞が細《こま》けえんで」 「おう、じゃあ大名だ」 「えへ、大名までいかねえで、旗本です」 「なにを言ってやがる。縦の縞の細けえのを大名てんだなあ」 「表は唐草で、裏は花色木綿」 「帷子に裏をつけるやつがあるか」 「丈夫であったかだから……」 「なにを言ってる、暑いから着るんだ、おい、変なことを言ってちゃしょうがねえ、ええ? あとは?」 「あとは蚊帳《かや》が一枚」 「蚊帳は一張《ひとはり》というもんだ。大きさは?」 「一人前」 「一人前てえやつがあるか、食物《くいもの》でも誂えているようだな……まあ、五六か六七だろ」 「一六だい」 「そんな細長え蚊帳があるかい……ま、五六ぐらいにしておこう」 「裏が花色木綿」 「おい、蚊帳に裏をつけてどうする」 「えへへ、丈夫であったかで寝冷えをしねえ」 「冗談じゃねえ、むれちゃうよ」 「あとは宝物《ほうもつ》」 「大げさなことを言うな、なんだ宝物というのは?」 「先祖代々伝わっている刀が一張《ひとはり》」 「おまえに先祖代々なんてあるか……刀は一張ではなく、一振だ、または一本でもいい」 「刀が一本」 「長剣か短剣か?」 「じゃんけん」 「じゃんけんなんてえのはない。長いか短いか?」 「いいかげん」 「いいかげん? 道中差しとでもしておくか。飾《かざ》りはなんだ?」 「表は唐草模様、裏は花色木綿」 「なにをばかなことを言ってやがる。あとはなんだ?」 「ええー、あとは、箪笥《たんす》です」 「箪笥なんか持ってったのか……ふーん、こりゃあやっぱり二人組とか三人組とかいうやつだな。で、箪笥はなにか、前桐か三方桐か、それとも総桐か?」 「ざんぎりだい」 「ざんぎりなんてえのはあるかい」 「山桐」 「下駄じゃあねえ、ばかなことを言って……三方桐とでもしておくか」 「裏が花色木綿」 「くだらないことを言うと腹を立てるよ。ばかばかしい、ほんとうのことを言え」 「ほんとうのことと言えば、あとは紙幣《さつ》にしようか、銀貨にしようか……」 「なに? 紙幣《さつ》、どのくらい?」 「へえ、畳二帖敷ぐらいの……」 「敷物じゃあるまいし、そんな大きな紙幣があるか?」 「裏は花色木綿」 「やいっ、こん畜生ッ、なにを言いやがる。さあ、勘弁できねえ、この泥棒めッ、さっきから聞いていれば、ばかばかしいったらありゃあしねえ。なんでも裏が花色木綿だってやがら……あははは笑わせるない」 「なんだ? だれだ? おかしな野郎が縁の下から出てきたじゃねえか……いったい何者だ、おめえは? 泥棒か?」 「あはははは……冗談言っちゃあいけねえ、泥棒だっておれはなんにも盗《と》りゃあしねえ。この野郎は差配つかまえて、でけえことばかり言いやがって、この家に盗っていくもんなんぞなに一つありゃあしねえじゃねえか……黒羽二重も先祖代々の刀もねえもんだ、腐った半纏一枚ねえじゃねえか」 「ああっ、痛え、痛えっ……咽喉《のど》をしめやがって……ばかにしてやがる。おれが泥棒だ? てめえのほうが泥棒じゃねえか。泥棒のくせにこの野郎ッ」 「まあ待ちなよ。らんぼうするな。なにも盗らなくったって縁の下から出てきたおまえさんは泥棒だろう。黙ってひとの家へ入《へえ》りゃあ、それだけで盗っ人だ。この野郎は、そうだろう」 「へえ、さようで……」 「なにがさようだ……逃げるといけねえ、差配さん、ふんづかまえましょう」 「あっ、いけねえ……どうも、まことに申しわけありません。じつは職人のことで、親一人子一人、おふくろが三年越しわずらっておりまして……ほんの、つい出来心でございまして……と涙の一つもこぼし……」 「なんだ素人の泥棒だな、まあ、出来心というのならゆるしてやってもいいが……わたしもこの長屋からべつに縄つきを出したくはない、勘弁してやる。それにしてもどうも、おかしいとおもったんだ。八公の野郎、まるっきり形のねえことを言いやがって、盗んだやつ……じゃあねえ盗まなかったやつがここで謝ってるじゃねえか……おいッ、八公……どこへ行ったんだ、はあッ、この野郎、おまえが縁の下へ入ってどうするんだ、なにしてる……こっちへこいっ」 「へッ……どうもかわりあいまして……」 「なんだ……噺家《はなしか》みたいなことを言って……おい、八公、てめえはなんにも盗られてねえじゃあねえか。なんだっておれにこんな嘘を書かせやがったんだ?」 「へえ、これもほんの出来心……」 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 歌舞伎、講談では盗賊の登場するものを白浪物といっている。「長《なげ》え浮世に短い命……」江戸末期の厭世、頽廃《たいはい》、不安感を反映した社会現象である、と学者・研究者はいう。だが、落語においては、そのような現象[#「現象」に傍点]はこれっぽっちもない。逆に泥棒に親しみ、笑えるというのは、平和の証拠ともいえるだろう。事実、長屋には戸締まりなど必要なかったにちがいない。そこで「〆込み」[#「「〆込み」」はゴシック体]「夏どろ」(別名「置どろ」)「だくだく」のような泥棒が、長屋裏になま暖かい風のように入ってくることになる。泥棒が最初に上がり込んだ家の長火鉢、煙草入れ、羊羹等の描写から表通りのしもた[#「しもた」に傍点]屋、また長屋の差配が盗難品を一々追及していく、その品々にも当時の生活が伝わっている。花色木綿がクスグリに多く使われるので別名「花色木綿」。サゲも、差配から「どこから入った」と聞かれ「裏から入りました」「どこの裏だ」「ええ、裏は花色木綿」というのもある。 [#地付き](*ゴシックの演目は本「百選」シリーズ、「特選」シリーズに収録) [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   道灌《どうかん》 「ご隠居さん、こんちは」 「どうした、八っつぁん。しばらくだったなあ」 「どうもすっかりごぶさたしちゃってねえ」 「たまには遊びにきておくれよ、おまえはお職人衆、あたしは隠居の身の上で、気が合うというのはふしぎだなあ、合縁奇縁というのかねえ。おまえの顔を一日見ないと、なんとなくもの足りなくていけない」 「どうもありがとうござんす。そう言ってもらうとうれしいねえ。合縁奇縁てんですかねえ、あっしもご隠居さんの顔を一日見ねえと、なんとなく通じがなくてねえ」 「おい変なことを言うんじゃないよ。あたしの顔で通じをつけるってそんなのがあるかい。あいかわらず変わったことを言う……今日はなにか用でもあって来たのかい?」 「いいえ、用がありゃあ来やしねえ」 「おかしいね。用があるから来たというのはわかるけど、用がないから来たというのはどういうわけだい?」 「用がありゃあその用をしてるもの、用がなくって退屈だから来たんだ」 「はははっ、正直でいいな。きょうは、やすみかい?」 「へえ、朝っから、変てこな天気になりやしたからね、しかたがねえ、やすみにしちゃった。隣でがき[#「がき」に傍点]が座便《いびたれ》をして灸《きゆう》をすえられて、ぎゃあーぎゃあー泣いてるのを聞いてるのもあまりおもしろくもねえから、ぶらっと出て来たんだが、ご隠居さん忙しいですか?」 「いやあ、わしも徒然《とぜん》で相手のほしいところだ、まあ、ゆっくりしてゆきなさい」 「ゆっくりしてってもいいですか?」 「ああ、いいとも」 「じゃあ、こっちへ引っ越してきましょうか。家にいたひにゃあ畳建具は汚《きたね》えし、ごみだらけの庭とにらめっこしていたところではじまらねえ。ご隠居さんのところは庭はよし、家はきれいだし、陽あたりはよし、飲み物でも食《く》い物《もの》でもまずいものはねえでしょう。みんないいものずくめだから……とこうおもって来たんで、まあ、お茶でもいれちゃあどうです?」 「おまえに催促されないったって、茶ぐらいいれるよ」 「お茶ぐらいったって、ご隠居さんとこのお茶は手数がかかるもの、沸かした湯を新規にさましてさ。茶の葉っぱいれたり、ああ手数かけちゃあ悪いよ、冷やでもようがすよ、酒のほうが……」 「そりゃいいだろうが、ここに、さいわいよそから甘いものをもらったから……」 「おやおや、甘《あめ》えもんかい」 「はてね、おまえ、甘いものは、いけないかい?」 「ええ、甘《あめ》えもんとくると、まるっきり意気地がねえんでね、羊羹など、五本も食おうもんなら、げんなりしちまうんで……」 「あきれたねえ、おまえってえ人は……だれだって、そんなに食べれば、げんなりするよ。失礼ながら、きょうのお菓子は上等なものだよ。というわけが、到来物だ」 「ああ、葬式《とむれえ》の菓子かい?」 「そうじゃあないよ。もらいものだ」 「そうだろねえ。もらいものでもなくちゃあ、上等の菓子なんかあるわけねえからねえ」 「あいかわらず口が悪いな……そんなことはどうでもいい。さあ、到来物の菓子でもおあがり」 「へえ、羊羹、こりゃごちそうさまだが、いったい、この羊羹てえやつはうすっぺらだと歯ごたえがねえ。こればっかりは厚く切らねえとうまくねえ」 「文句を言わずに食べたらよかろう」 「へえ、五つ切ればかりこみ[#「こみ」に傍点]に食ってようがすかね」 「そう欲ばるもんじゃあないよ。なんでも人間というものは、食うことと住むことと着ることは一生ついてまわってるもんだ」 「ところがこちとらはついてまわらねえことおびただしいや。店賃もたまっている。催促はされてんだが、おれは図太くかまえて動かねえんだ。着る物は着たっきり、食う物は店《たな》立てか、けんつくぐらいのもんで、まるっきり首がまわらねえ」 「おまえのように怠けていちゃあだめだ」 「ご隠居さんだって、他人《ひと》のことは言えないでしょ。そうやって働かないで一日じゅうぶらぶらしてるじゃあねえか?」 「わしは娘に養子をしたんだ。でまあ、世帯《しよたい》はその娘夫婦にゆずって、わしはこうして隠居の身でいるんだ」 「へーえ、うめえ株だね。しかしご隠居さんだって、なんか道楽がありましょう?」 「それは少しはな。わしの道楽は書画《しよが》だ」 「へーえ、それで鼻の頭が赤いんだね」 「なんだって?」 「生薑《しようが》が好きだってえから……唐辛子《とうがらし》の好きな者は鼻の頭が赤くなる。生薑もやっぱり赤いからおなじ理屈だ」 「生薑《しようが》じゃあない、しょが[#「しょが」に傍点]だよ」 「へえー、なんです、しょが[#「しょが」に傍点]てえのは?」 「画や字だな」 「なんだ、食い物じゃあねえんですかい」 「食い意地のはっている男だねえ。古いものでも買い集めて、まあ仕立直しかなんかして楽しむものだな」 「へえー、古い物にいいやつがありますかね」 「古いからいいというわけではないが、汚れて価値のないものを夜店などで買ってきて、洗ってみると存外いいものがあるんだよ」 「そのご隠居さんのうしろにあるのはなんですね」 「屏風だよ」 「へえー、せっかくきれいな屏風へなんだってそんな小汚《こぎたね》えものを貼っつけたんで」 「いまいう持ち古した故人の描いたものを貼り交ぜにしたのだ」 「来るたんびにとっかえひっかえちがう絵がかかってるが、久しく来ねえあいだにだいぶ模様が変わりましたね。きょうは屏風でも額でも表具でも戦《いくさ》の絵が多うがすね」 「うん、よくわかるね。お玉ヶ池の菊池容斎先生の絵が多い」 「ところでこの絵はなにが描いてありますね?」 「これは、三方《みかた》が原《はら》の戦いだ」 「だれとだれの戦《いくさ》です?」 「武田信玄と徳川家康とが戦をした」 「へえー、で、どうなりました?」 「なにしろ、徳川方では、酒井、榊原、井伊、本多なんていう名代の四天王がはたらいたからなあ」 「へえー、その四人が強かったんですか……で、武田方には、その四天王てえやつは、いなかったんですか?」 「いたとも……土屋、内藤、馬場、山県……まあ、こんなぐわいに、むかしは、強い人を四ったりよりどって守護の四天にかたどった。むかしの大将にはみな四天王というものがある」 「だれにでも?」 「源頼朝の四天王が、佐々木、梶原、千葉、三浦。義経の四天王が、亀井、片岡、伊勢、駿河」 「鯛《たい》に鰹《かつお》に鱚《きす》、鮪《まぐろ》ってえのはどうです」 「なんだ、それは?」 「海の魚の四天王……しじみ、はまぐり、ばか、柱……貝類の四天王」 「そんな四天王はない。新田左中将義貞の四天王が、栗生《くりう》、篠塚《しのづか》、畑《はた》、亘《わたり》。木曾義仲の四天王が、今井、樋口、楯、根野井」 「幸手、栗橋、古河、間々田さ……日光街道の四天王。こんなのはどうです、合羽、唐傘、蓑《みの》、足駄……雨具の四天王」 「そんなものを集めるんじゃないよ」 「だれにでもあるんですか?」 「強い武士にはみんなある」 「加藤清正に四天王がありますか?」 「清正はないよ。陪臣《ばいしん》の身の上だから」 「陪臣……てなんです?」 「またの家来」 「だれの家来?」 「太閤秀吉の家来」 「あれっ、あっしゃあ太閤秀吉より加藤清正のほうが強いのかとおもったがなあ、じゃあなんですか、秀吉に四天王がありますか?」 「信長というご主人があるからない。そのかわり賤《しず》が岳《たけ》の七本槍というのがある」 「なんです?」 「加藤虎之助、福島市松、片桐助作、脇坂甚内、平野権平、糟屋助右衛門に加藤孫六、これを賤が岳の七本槍、そのほかに太刀を持って向かうと相手がなかった三振太刀《みふりだち》というものがある。伊木半七、桜井佐七、石川の兵助、これを日本三傑といったぐらいだ。そのころ唐土《もろこし》には四傑あった、張岳《ちようがく》、陳平《ちんぺい》、韓信《かんしん》、張良《ちようりよう》。和漢|合《がつ》して七傑あった」 「ずいぶんけつが並んだねえ。湯屋の流しへ行ったようだね、毛むくじゃらの汚《きたね》えのもあるでしょう?」 「いや、強い人は豪傑だ」 「あは、汚いのが不潔か、水を汲むのがバケツ」 「よくいろんなことを言うなあ」 「じゃあ、こっちの絵はなんです?」 「どれだい?」 「桜の花が咲いててさあ、桜の木の下でよろいの上へ蓑を着て震えてるやつがいる」 「震えているのはよけいだ。これは備後の三郎」 「ああ、貧乏で寒いのかねえ?」 「そうじゃないよ。児島高徳《こじまたかのり》てえ人だ」 「ああ、児島さんですか」 「なんだい。児島さんですかって……知ってるのか?」 「ええ、うちの隣にいます。手習いの先生でしょ」 「なにを言うんだ。時代がちがうよ。元弘二年、三月十七日だから、いまから六百年も前のことだ」 「へえ、なにしてんです?」 「桜の皮を削った」 「悪いいたずらをしやがんねえ。梅はねえ。下枝おろすてえと幹はふとるんだがね。桜をそんないたずらしたひにゃ泣いちゃうからね」 「ああ、おまえさん植木屋さんだけによく知ってなさる。いやそりゃ、いたずらに削ったんじゃあないんだよ」 「え?」 「削っておいて、そのあとに字を書いた。『天勾践《てんこうせん》を空しうするなかれ、時に范蠡《はんれい》なきにしもあらず』と」 「あははは、やっぱり古い銭を大事にしなけりゃいけねえんですね」 「なに?」 「天保銭をむちゃくちゃにするなかれ、ときに般若《はんにや》が田螺《たにし》を食う」 「わからないことは聞くがいい」 「へえー、こっちの絵はなんです? 洗い髪の女が夜着《よぎ》を着て考《かん》げえてるのはなんです?」 「洗い髪というやつがあるか。それは下髪《さげがみ》というんだ。着ているのは夜着じゃあない、十二|単衣《ひとえ》というもんだ」 「拍子木みてえなものを持っているのはどういうわけで……」 「拍子木じゃあない、短冊《たんざく》だ」 「雨が降ってるね?」 「小野小町が雨乞いをしている図だ」 「ああ、この女ですか、小野小町てえなあ、てえそういい女だったそうですねえ」 「いい男をみれば、業平《なりひら》というし、いい女をみれば、小町のようだという。絶世の美女だったな」 「雨に降られびしょ[#「びしょ」に傍点]になったんだね」 「びしょ[#「びしょ」に傍点]ではない。美女、美しい女だ。悪い女は醜女《しゆうじよ》、こわい女は鬼女」 「ひげのはえたのを泥鰌《どじよう》」 「まぜっかえすなよ」 「だけどねえ、ご隠居さん、そんないい女なら、くどいた男も多かったでしょうねえ」 「まあな」 「きっと経師屋の半公みてえな、ああいうあつかましいのがとりついたにちげえねえ」 「なにを言ってんだ……多くの公家《くげ》のなかで、深草《ふかくさ》の少将という人が、とくに想いをかけたな」 「へーえ、どうしましたか?」 「小町の言うには、男心と秋の空、変わりやすいと言うから、わたしのもとへ百夜《ももよ》通ってくだされば、ご返事をしようと言った」 「ももよてなあ、なんです?」 「百の夜と書いて、百夜《ももよ》というな」 「ははあ、すると五十夜と書いて、みかん夜か」 「なにを言ってるんだ」 「どうしましたい?」 「恋に上下の隔てはない。深草の少将ともあるべき身が、風の吹く晩も、雨の降る夜もやむことなくせっせと通った」 「で、どうしました?」 「九十九夜目の晩に、大雪のために凍《こご》えて、ついに想いをとげなかった」 「やれやれ、しょうしょう不覚な人だ」 「しゃれるなよ」 「だがね、ご隠居さん、おれんとこの爺さんなんどは、一晩のうちに十三度通って相果てたよ」 「女のところへか?」 「なーに、厠所《はばかり》へさ」 「なにを言ってんだ」 「小町は色恋、爺さんは下肥……こい[#「こい」に傍点]に上下の隔てはねえや」 「つまらないことを言うな」 「もし、ご隠居さん、こっちの絵はなんです? その赤い着物を着て広目屋《ひろめや》みてえな扮装《なり》しているのは?」 「そりゃ、狩装束《かりしようぞく》だ」 「ちょろちょろ流れの川のあるところへ、椎茸《しいたけ》があおりをくらったような帽子をかぶって、虎の皮の股引《ももひき》はいて突っ立ってる。こっちに、盗っ人の昼寝みたいなやつが拳固《げんこ》の上に鳶《とんび》とまらせてやがる。こっちの、洗い髪の女が、お盆の上になんか黄色いものをのっけて、お辞儀をしてるじゃあありませんか、どこの女中だ?」 「なんてえ絵の見方をするんだ。おまえさんにあっちゃあかなわないな……椎茸があおりをくらった帽子てえのがあるかい、騎射笠《きしやがさ》というもんだ。虎の皮の股引ではない行縢《むかばき》」 「へーえ」 「お盆の上の黄色いのは、山吹の花だ」 「なんか字が書いてありますねえ」 「『孤鞍雨《こあんあめ》を衝《つ》いて茅茨《ほうし》をたたく、少女はために貽《おく》る花一枝、少女は言わず花語らず、英雄の心緒紊《しんちよみだ》れて糸のごとし』」 「へえ、ちちんぷいぷいごようのおん宝ときやがった。そう言っといて、三べんなぜるとやけどが治るんでしょ」 「やけどのまじないじゃあないよ。その方は治にいて乱を忘れず、足ならしのために、田端の里へ狩りくらにお出かけになった、太田|持資《もちすけ》公だ」 「狩りくらって、なんです?」 「鷹野《たかの》だ」 「たかのって、なんです?」 「猟《りよう》ッ」 「りょうって、なんです?」 「わからないかなあ、野駆《のが》けだよ」 「ああ、うす明るくなってきた」 「それは夜明けだ……つまり、山へ鳥や獣《けもの》をとりに行ったんだ」 「へえへえ」 「するとにわかの村雨《むらさめ》だよ」 「へえ……むらさめ……食いつくでしょう、あれ?」 「なに?」 「へーえ、そうですかねえ。どうもてえしたもんだ」 「べつに、たいしたもんでもないよ」 「そうですねえ、そいつはいいや。たかがむらさめですもんねえ。……あははは、むらさめだ。むらさめなんてくだらねえや。……むらさめ、むらさめ……ええ、むらさめ? むらさめって、なんです?」 「なーんだ。わからないでいろいろ返事をしているやつがあるか」 「まるっきりわからなかったら、話してるほうで張りあいがねえだろうとおもってね、こっちは返事で探りをいれたんだ」 「村雨というのは、雨だ」 「え?」 「雨」 「なあんだ、雨か? 雨なら雨って最初《はな》っから言えばわかるじゃあねえか。むらさめなんて符牒で言うからわからねえ」 「符牒? そうじゃあない」 「じゃあ、早え話が鳥だの獣をとりに行ったら、野ッ原で夕立にあったってんだね」 「夕立ではない村雨だ」 「だから年寄りはいやがられるんだよ。皮肉だからいけねえ、おんなし雨じゃあねえか」 「おなじ雨でも、時期によって雨の名もちがうもんだ。その雨の名を聞くと、その時期がわかる」 「一年じゅうで雨の名前がちがうんですか?」 「春先降る雨が春雨、太田持資公が降られたのは村雨、五月にはいって降る雨を五月雨《さみだれ》」 「六月が耳だれか」 「六月はつゆだよ。梅の実がなるころに降るから梅の雨と書く。夏を夕立、冬を時雨《しぐれ》」 「へえー、いろんな雨があるんだねえ。じゃあ村雨の夕立にあったんだね」 「ごていねいだなあ……持資公、お困りになって、片方《かたえ》をみると一軒の荒家《あばらや》があった」 「やっぱりむかしの人は気がきかねえね。野っ原のなかで油屋なんどしたって買いにくるやつはありゃあしめえ」 「油屋じゃない。荒家、つまりこわれかかって破《やぶ》れた家をいうんだ」 「じゃあ、丈夫で、出来立ての家は、背骨家《せぼねや》か」 「そんなのがあるもんか。雨具を借用したいと訪れると、二八ばかりの賤《しず》の女《め》が出てきた」 「なるほど、家が古いもんだから、巣を作ってやがったんだね、雀が。チュッチュク、チュッチュク……」 「雀じゃあない。賤《しず》の女《め》」 「足の裏へできる」 「そりゃ魚の目だよ。なんて言ったらわかるんだろうな、卑《いや》しい女だ」 「あははは、つまみ食いするんでしょ?」 「そのいやしいんじゃあない。まあ、身なりの卑しい女だ」 「へえー、貧乏人にしちゃあ、ちょいとこぎれいな姿《なり》をしているが……」 「これは絵だからきれいに見せてるんだ」 「へえー」 「すると、その女は顔を赤らめて、奥へ入った」 「へえー」 「それが再び出てきて、盆の上に山吹の枝を手折《たお》って、『おはずかしゅう存じます』と、持資公にさし出して、断わりをした絵だ」 「田舎娘で気がきかねんだね。殿さまが雨具を貸してくれって入《へえ》ってきたんでしょう? それを山吹の枝なんぞ出しゃあがって、これでもって雨はらって帰れってんでしょ。家へ帰るまで腕がくたびれちまわあ。それより芋《いも》の葉か蓮《はす》の葉でもかぶらしてやったらいいだろう」 「なにを言うんだ……もっとも、おまえにわからないのも無理はない。太田持資公という人は文武両道に長《た》けていたお方だが、この少女の出した謎が解けない。ぼうぜんとしておられると、ご家来の豊島|刑部《ぎようぶ》という人が父親が歌人《うたびと》なので、殿さまよりさきに、この謎が解けた。おそれながら申しあげます。兼明《かねあきら》親王の古歌《こか》に『七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき』というのがございますが、これは、お貸し申す蓑《みの》一つだにございませんと、実《み》のと蓑をかけて、山吹の枝をもって、申しわけをしたものでございましょうと申し上げたな」 「へえー、小娘のくせにたいそうなことしやがったねえ」 「すると、持資公は、小膝を打たれ、『ああ、余は、まだ歌道に暗い』とおっしゃって、そのまま、ご帰城になった」 「なるほどねえ。いくらえれえ殿さまでも名代の古い歌なんでしょう? それを知らねえんだからだらしがねえや。そこへいくと、身なりは卑しいしろろ……しろろめでもねえ。殿さま、へこまされちゃったわけですねえ」 「まあ、そうだ」 「たいへんなしろろめだ。ただのしろろめじゃあねえや。しろろ……め」 「舌がまわらないね」 「それから、ご帰城になったってのは、なんです?」 「お城へ帰った」 「へえー、角兵衛獅子みたいだ。うしろへ返ったんで」 「うしろじゃない。自分の城だよ」 「すると、お城など持ってるんですか、その人?」 「千代田の名城、丸の内のお城は、太田持資公……太田道灌が築いた城だ」 「あっしはおやじに聞いたけど、ありゃ徳川さまのお城だってえじゃありませんか」 「太田道灌公のお城だったのが、のちに、徳川さまのになったんだ」 「へえー、道灌公から徳川さまへ話をもちかけたんだな。これ、どうかん[#「どうかん」に傍点]ならねえか……いえやす[#「いえやす」に傍点]なら買おう、とかなんとか……」 「なにを言ってる——それから持資公は、そのとき豊島刑部がいなければ恥をかくところであったと気づき、歌人をよんで歌の勉強をなすって、のちに入道して道灌となって、日本一の歌人になった」 「へえー、大きな火事だね。むかしのことで、ろくなポンプがねえから、よく燃えたでしょうね」 「歌をよむ人を歌人」 「へえー、そのしろろめの出した、雨具のねえっていう断わりの歌? なんてんでしたかね」 「七重八重……」 「そう、それそれ……それね、仮名で書いてくださいな」 「いくども読んでおぼえようってえのか?」 「いや、そういうわけじゃあねんですが、あの、うちへ、ちょくちょく道灌が来るもんですからね」 「なに? 道灌が来るてえのは?」 「友だちの道灌、雨に降られて傘もってねえやつは道灌だろ。雨が降ってくると、きっとおれの友だちが傘だの下駄だの借りにくる。貸すのはかまわねえが返《けえ》したためしがねえ。このあいだも、おれんところの傘があるから、『こりゃおれが貸した傘じゃあねえか』と言うと、『うん、半年ばかり前に借りたが、ちょいちょいさしてるうちに破れちまったから、もう返さない。もらってもいいだろう』と言いやがる。ばかにしてやがるよ。こんど借りにきやぁがったら、ただ断わるのも癪にさわるから、その歌で断わってやろうとおもうんだ」 「そうかい、書けといえば、書いてあげるが、おまえの友だちに、歌なんかわかるかい?」 「わかんねえったってかまいません。とにかく、それをみせて断わっちまいますから……」 「では書こう……さあ、書いたよ」 「なるほど……えーと……ななへやへ……なんだかくせえようだなあ」 「だめだな、そんな読み方しちゃあ、にごりをつけるところはちゃんとつけて読むもんだ」 「この歌を出して、相手が知らなかったら、なんて言うんでしたっけね」 「その人は歌道に暗い」 「どういうわけで?」 「歌の道と書いて歌道という」 「こりゃ雨具のねえって断わりの歌ですね」 「まあ、そうだ」 「もう一つ教えてくれませんか?」 「なんだい?」 「みそかになると借金取りが大勢来るんですがね、いま銭がねえって歌はありませんか?」 「そんなものはありゃあしない」 「それじゃあ、あっしは、これで帰ります」 「まあ、いいじゃないか、ゆっくりしていきなさい。いま酒でもつけよう」 「貸しておきますよ」 「品物みたいだね」 「まあまあ、そうしてはいられねえ。雲行きがあやしくなってきましたからね。さよなら……おっ、降りだしたな、村雨……通る通る道灌が……あっ、守《もり》っ子の道灌が駆けだしていく、赤ん坊の首を振り落としそうだ。大工の道灌が草鞋《わらじ》の下へ木をたたきつけてあれで下駄にしようて、うめえことを考えたもんだな。豆腐屋の道灌が来た、こいつはぐずぐずしてやがる。あんまり駆けると豆腐がこわれちまうよ。おー、牛方の道灌、牛をひっぱたいたってなお動かねえや。ばばあの道灌、年増《としま》の道灌……あああ、姐御の道灌が向こうの家の軒へ駆けこみやがった。まっ白な脛《すね》をだして色っぽい道灌だ、おや、袂《たもと》から風呂敷を出して尻《けつ》ゥ包んでるぜ、ああ尻が重てえんで駆けられねえ、尻だけどっかへ預けていくのかな? そうじゃあねえ。帯が濡れるといけねえってんだ、女ってのは帯を大事にするからなあ……こっちには犬の道灌、坊さんの道灌ときやがらあ……そういうおれもびしょ濡れの道灌になっちゃった……あっ、引き窓が開《あ》けっ放しになってやがる。村雨が降りこみやがって、竈《へつつい》まで道灌になっちゃった……これだけいろんな道灌がいるんだ。うちにも来ねえともかぎらねえなあ、せっかく書いてもらったのに、無駄になっちゃあしょうがねえ」 「ごめんよ」 「おうッ、来たな、道灌」 「すまねえ、兄い、提灯、貸してくんねえか?」 「提灯?……そうじゃねえ、雨が降って提灯がいるかい。おめえの借りにきたものは先刻ご承知だ。道灌、雨具だろう?」 「いや、雨具は今朝《けさ》出るときにね、朝焼けして危ねえとおもって、ここに持ってきた。急に深川まで車ひいていく用事ができちまって、帰りが遅くなるから、提灯を貸してくれ」 「用心のいい道灌だあ。雨具持ってる道灌てのはあるけえ。この場ちがい道灌」 「なにを言ってんだな、急ぐんだから早く提灯を貸してくれ……そこの鴨居の柱ンとこにかかってるじゃあねえか」 「あれっ……いや、あっても貸せねえ」 「なんだ、あっても貸せねえ? そんなのあるけえ」 「だからよ。雨具を貸してくれといやあ、提灯貸してやる」 「そんなわからねえやつがあるもんか、雨具はこのとおり持ってるよ」 「持っててもいいから、頼むからそう言ってくれ。いま使っちゃわねえと無駄になるんだからさあ、頼むから、雨具貸してくれって言え」 「変わってやんなあ、雨具てやあ、提灯貸してくれんのか? じゃあ、雨具貸してくれ」 「待ってました……おはずかしゅうございます」 「なんでえ、よせよ。気でも触《ふ》れたんじゃあねえか。そんな女みてえな真似をして……」 「黙ってろい……これを読みゃあわかるんだ」 「なんだい、こりゃあ……えーと……ななべやべ、はなはさけども……」 「なんてえ読み方をしてるんだ。素人はしょうがねえな……いいか、よく聞いてろ。ななえやえ花は咲けども……山伏の味噌一樽に鍋《なべ》ぞ釜《かま》しき……てんだ。どうだ、わかったか?」 「聞いたこたあねえな、都々逸か?」 「都々逸? おめえもこれを知らねえようじゃ、よっぽど歌道に暗えな」 「ああ、角[#「角」に傍点]が暗えから、提灯借りにきた」 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] お馴染みの隠居と八っつぁんの応答の代表格。そして、やかん頭の三代目三遊亭金馬をどうしても思い出す。博学多識な金馬の機智、クスグリの応酬は、いわゆる耳学問となった。編者が、太田道灌の鷹狩りの逸話、各四天王はじめ三傑、四傑、七本槍の名を知っているのは、この落語によってである。また、賤の女が出した山吹の花を「レエス[#「レエス」に傍点]カレー」、むらさめを「英語で言うからわからねえ」など、金馬の面目が躍如として、後世に残るクスグリだ。  冒頭の隠居と八っつぁんの「なにか用でもあって来たのかい?」「用がありゃあ来やしねえ」という会話に、ほんとうの意味での人と人との交流《コミユニケーシヨン》の発芽があるような気がする。今日の人と人との出会い、会話はあまりに用がありすぎるし、なにかと損得《ビジネス》が優先しているようだ。この場合、隠居は耳学問であるから、ヨタは飛ばさない。類似した噺に「高野ちがい」「一目上がり」等がある。純粋の江戸落語である。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   狸賽《たぬさい》  あるとき、人家のあるところへ子狸が一匹迷い出てきた。それをいたずらな子供たちが見つけ、寄ってたかって棒でたたいたり、足で蹴ったりしているところへ通りかかった男が、かわいそうにと、子供たちに小遣いをやって、ひん死の子狸を助けてやった。生きものの命を助けるというのは、まことに功徳のあるもので……。この男が用達《ようたし》をして、家へ帰り、一杯ひっかけて、煎餅《せんべい》布団へくるまり、ごろりと横になってひと寝入りしたころに、表の戸をたたくものがある。 「だれだい?」 「えー、狸でござい」 「だれだい? もう寝ちゃったんだ。あしたにしねえかい? だれなんだい?」 「……たぬゥ……す」 「なに? だれだ?」 「へえ……たぬ……です」 「民公か?」 「いいえ……たぬ……なんで」 「辰公か?」 「いえ……たぬ……で……」 「為か?」 「いいえ、たぬ……なんで」 「なんだかわからねえ。狸がもそもそ言ってるようでわからねえじゃねえか」 「その狸です」 「なんだ、狸だ? 狸なんぞに用はねえ」 「そちらになくても、こちらにあるんで……」 「狸なんぞに知り合いなんぞねえ」 「これから親類になります」 「ばかなことを言え。狸に親類になられてたまるものか……ははあ、そうか。だれか夜遊びかなんかしやがって、締め出しを食ったんで、泊めてくれってんだな。冗談じゃあねえや、せっかくいい心持ちに暖まったところじゃあねえか。おうおう待ちなよ、いま開《あ》けてやるから……さあさあ、お入りよ。あれっ、だれもいねえじゃねえか。おう、どこへ行ったんだい? どこかそこらへ隠れやがったな。つまらねえいたずらしてやがら、真夜中、ひとの家へ来やがって戸をたたいといて……開けさしたり閉めさしたりしやがって……」 「えッへっへっ、ちゃんと入ってます」 「なん、なん、なんでえ。竈《へつつい》のかげに、まっ黒いものが……なんだ」 「へえ、狸でござんす」 「狸だ? この野郎、気味の悪いやつだな。どっから入《へえ》ったんだ?」 「いま親方が開けたとたんに、股ぐらをくぐって入りました。たいそう褌《ふんどし》が汚れてますね」 「大きなお世話だ……狸がなんだってこんなところへとびこんで来やがったんだ」 「あの……なんでござんす。きょう、あの、藪寺のとこで、夕方子供にとっ捕まりまして、あぶなく殺されちゃうところを、親方に助けていただきました。あの子狸でござんす」 「ああ、そうか。あのときの狸か、おめえは……へーえ、狸だの泥鰌《どじよう》なんてのはみんなおなじような顔をしてやがるからなあ、わかりゃあしねえやな……そうかい、あれからどうした?」 「あれから穴へ帰りまして、両親に助けていただいたと話しましたら、両親ともたいへんよろこんで……もう、おやじなんぞは、じつに立派な方だってよろこんで腹たたいて感心してました」 「ふふふ、言うことが変わってやがら。膝ァたたいて感心するってえのはあるがな、狸のほうじゃあ腹をたたくのかい。へーえ、そんなに感心してたかい」 「ええ、人間にしておくのは惜しいって……恩人であるから、行って恩返しをしてこい。恩を知らないやつは、人間も同様だと言いました」 「ひでえことを言うな」 「恩返しのために、当分おそばへいて、ご用を足してこいと言いますからまいりました。どうぞ、ご遠慮なくお使いなすってください」 「いくら恩返しだって、狸なんぞをそばへ置いて使っていられるもんか。そうでなくとも、世間のやつが、おれのことを狸に似ているって言ってるんだ。てめえをそばへ置いてみろ、人間の籍をぬかれちまう、帰《けえ》れ、帰れ」 「いいえ、このまま帰ると、うちのおやじは昔気質の一刻者ですから『恩知らずめ、恩返しをしてこないやつなんぞ、穴にいれることはできねえ。勘当だ』と、叱られますから、どうかおそばへ一晩お置きになって……」 「困ったなあ。じゃあ、まあ、いいが、布団が一枚しきゃあねえ。そうかって、おめえといっしょに寝るのもいやだし……」 「いえ、布団は持っていますから、よろしゅうございます」 「感心だな。布団を持ってきたのか?」 「布団は持っておりませんが、睾丸《きんたま》をひろげてかぶって寝ます」 「ああ、なるほど、狸の睾丸八畳敷なんてって、たいそうでけえそうだな」 「へえ、ですが、わたしのはまだ、せいぜい四畳半……」 「あははは、そうかい。四畳半なんざオツなもんじゃあねえか」 「へえ、まだ一人前にならねえで、これが精一杯なんで。親方、お寒けりゃあ頭からこれを掛けてあげましょう」 「ばかを言うな。睾丸など掛けられてたまるもんか……まあ、そっちへ行って寝てろ」 「じゃあ、お先へおやすみなさい」 「おいおい、縁の下へなんぞ入《へえ》らねえでもいい。夜中に、人の来る気づけえはねえから大丈夫だ」 「そうでございましょうが、畳が敷いてありますから……」 「畳が敷いてあったって遠慮するな」 「べつに遠慮はしません。畳の上は冷えていけません」 「言うことが変わってやんな? 縁の下のほうがよけりゃ、勝手にそこで寝ろ」 「へえ、ありがとうございます……ぐー、ぐー……」 「おっ、早えな、もう寝ちまったのか? あれっ、目をあいたままいびきをかいてやがる」 「へえ、狸寝入りで……」 「なんだな、ふざけちゃあいけねえやな」  狸は睾丸、人間は四布《よの》布団の柏餅、まるくなって寝てしまった。  夜が明けると、 「親方、お起きなさい、親方、親方」 「うん、あーあー……これはどうもたいそうお早く、どちらの爺さんで……」 「へえ、昨晩うかがいました狸で……」 「おっ、びっくりさせるねえ。爺さんなんぞに化けやがって」 「いえ、びっくりさせるわけじゃございません。狸のままでもいられませんから、最初、女に化けてみましたが、お長屋のお釣り合いもあるし、だしぬけにおかみさんになってもおかしいとおもって、婆さんに化けましたが、どうもうまくゆきませんから、ちょいと爺さんに化けました。親方が見て人間に見えますか?」 「うーむ。だれが見たって人間に見える、うめえもんだ。けど、爺さんにしちゃあ、狸みてえにまるまるして、少し太《ふと》りすぎてやしねえか」 「じゃあ、少しやせます」 「そううまくいくのか?」 「へえ、ちょっとごらんなすって……」 「お、おう、やせた、やせた……おっとっと、そのくれえでよかろう。さっき、顔がお向こうの爺さんに似ていたが、少し変わってきたぜ」 「へえ、ときどき変わります」 「おいおい、いけねえな。ときどき変わったりしちゃあ。八公のところにゃあいろんな爺さんがいるなんて言われらあ」 「へえ、せいぜい気をつけます」 「やあ、いつの間にかばかにきれいになったな」 「ねえ親方、あなたは、ずいぶん無精だとみえて汚くしておきますね。うす暗い時分から起きて、すっかり掃除をしてしまったんで、いい心持ちになりました。それからまあ、顔を洗って、手をきよめて、ご飯を炊いて、お汁《つけ》をこしらえて、納豆と卵と漬物を買ってきました」 「おい、飯を炊いたと言うが、おれんところには米はなかったはずだぜ」 「ええ、一粒もありません」 「だいいち銭がねえや。どうやって買った?」 「へえ、長火鉢の抽出しをあけたら、はがきの古いのが入っていましたから、札《さつ》に見せて買ってきたんで……」 「ふーん、そうかい……あれっ、ここに銭がずいぶんあるじゃあねえか」 「へえ、お釣銭《つり》をもらってきましたから……」 「えっ、はがきの札で、釣銭まで取ってきたのか? こりゃうめえ話だな。どうだい、当分おれのうちにいてくれねえか。おれんところはごらんのとおり貧乏で、じつはな、うるさく催促にくる借金があるんだが、毎日きやがって困ってるところなんだ。どうだいひとつ、それをかた[#「かた」に傍点]をつけてくれねえか、後生だが……頼むよ」 「でも……もう日があたると人間を化《ば》かすことができません」 「しょうがねえな、どうにかならねえか?」 「じゃあ、わたしが札に化けますからそれをお使いなさい」 「おめえが札になれるのか?」 「ええ、札や銀貨には、ちょくちょく……小さいときによくやって、おやじに叱られました」 「なんで叱られた?」 「夜遅く、道端の灯りの下なんぞに、札や銀貨になってころがってるんで……通りかかった人が拾おうと手を出すと、爪でひっかいて逃げるんです。そりゃあ、おもしろくて……」 「悪いいたずらをするんだな」 「これは、ずっと小さいときのことで……」 「じゃあ、気の毒だが、一円札五枚に化けてくれ」 「一つの身体を五枚には分けられません。じゃあ、穴へ行って兄弟を連れて来ましょうか?」 「そんなにぞろぞろ引っぱってくることはない。五円札一枚ならいいだろう」 「へえ、大札ならどんな大札にでもなります」 「おれの見ているところで化けられるか?」 「ええ、わけはございません。では、手拍子を三つ打ってください」 「よし、いいか? ひい、ふう、みい……あれっ、どっかへ行っちまやがった……おや、大きな札になりゃあがったな、ばかっ、畳四畳敷もあらあ。こんな札があるもんか。もっと小さくなってくれ、五円札らしく……なに、さすってくれ? さすってどうするんだ、睾丸《きんたま》をみんなひろげちまった? ばかなことをするな、もっともっと……まだいけねえ、座布団ぐらいある。もっと小さく……おいおい、それじゃあんまり小さすぎらあ。切手ぐれえになっちまった。もうちょっと大きく……うんうん……いいだろう。ああ、うまくできあがった……なんだって札がのこのこ歩くんだ」 「向こうから来ないうちに、こっちから出かけようとおもって……」 「札が歩いていくやつがあるもんか。手にとっても大丈夫か?……おや、持ちあがらねえ。札が踏んばっちゃあいけねえ……うん、なるほどうまく化けたな……おいおい、こりゃあいけねえや。表はいいけれども、裏は毛だらけだ。毛の生えた札があるもんか。なに裏毛のほうがあったけえ? ばかなことを言うな。毛をひっこましてくれ。あれあれ、蚤《のみ》がはってるじゃあねえか。どうもあきれた札だ。札の蚤《のみ》をとるのははじめてだ。なに小便にいきてえ? なにを言うんだ、札が小便しちゃあいけねえじゃねえか、少しのあいだ我慢しろ……さあ、来た来た。縮《ちぢ》み屋が来たから、うまく懐中《ふところ》へ入ってくれ」 「へえ……ああ、たたんじゃあいけません。背骨が曲って苦しいから……」 「そうか。よしよし」 「へえ、ごめんくださいまし」 「ああ、縮《ちぢ》み屋さんか。どうもすまねえ。わずかばかりのことで、たびたび足を運ばして……」 「きょうはぜひともお願い申します」 「ああ、あげるよ。けさは、おまえさんが来るだろうってんで、泡食って四畳敷をこしらえて……いや、ちゃんと都合して待っていた。五円札だ。釣銭はいらねえ」 「へえ、どうもありがとう存じます」 「じゃあ、五円たしかにあげるよ。この札は、そーっとしまいな、たたんじゃいけねえ……背骨が曲がるから」 「え?」 「いえ、こっちのことで……そうやたらにひっくりけえしなさんな。かわいそうだから……なにもあやしいところはありゃあしめえ」 「へえ、たしかに頂戴いたしました」 「じゃあ、まあ、大事にな……道中、犬をそばへ寄せねえようにしてくれ。腹がへったら、なにか拾ってつまんどくがいい。懐中《ふところ》で小便をするなよ」 「え? 札が小便するもんじゃございません……では、おいとまいたします」 「へい、さようなら……と、しめしめ、縮《ちぢ》み屋のやつ、いくどもひっくりかえして見てやがった。しかし、あのまんま越後まで行ってしまやぁしねえかな? 考えれば五円ばかりの抵当《かた》に重宝な狸を持っていかれちゃあ合わねえな。狸もかわいそうだ。親に会うこともできねえ。しかし、札が狸になって懐中から飛び出したら、縮《ちぢ》み屋のやつ目をまわすだろうな、どうか途中でうまくぬけだしてくれればいいが……」 「親方、ただいま」 「おう、もう帰ってきたか、いま心配していたんだ。こんどは狸のままで帰ってきやがった。どうして?」 「へえ、もう、札はこりごりしました。親方が変なことを言ったもんですから、路地へ出ると懐中から出して、透《すか》してみたり、たたいてみたり、引っぱってみたり、ぐるぐる巻いてみたり、いろんなことをするんで目をまわしました。それでも我慢していると、しまいには、四つにたたんで、蟇口《がまぐち》へ押しこんだので、背骨が折れるかとおもいました」 「そいつはたいへんだったな。で、どうして逃げてきた?」 「あんまり苦しくってたまりませんから、蟇口の底を食い破ってようやく逃げ出してきました。中に五円札が三枚ございましたからついでにくわえて持ってきました」 「乱暴なことをするな、札が札を持ってくるやつがあるか。まあ無事で帰ってきたのはなによりだ。恩返しとは言いながら、おめえにもたいへんに骨を折らしちまったな」 「いえいえ、それほどのことはありません。あたしも、年は若いが、なかなか性《たち》がいいと、仲間からほめられております」 「あれっ、いばってやがる」  夕方になりますと、 「おい、八公、うちか?」 「あっ、だれか来た。あっちへ行ってろ、早く早く……おう、いま開けるからな……やあ、辰じゃあねえか、どうした?」 「おう、いたか、ちょうどいいや。大きな声じゃあ言われねえが、これから薪屋《まきや》の二階で……近所の若え連中が五、六人集まって、ちょいと手なぐさみをやろうてえんだ。それで、おめえもにぎやかしにとおもって迎えにきたんだよ」 「そうか。いまちょいと手がはなせねえんだが……あとからすぐ行くよ。じゃあ先へ行っててくんな」 「待ってるぜ」 「よろしく……そこをぴっしゃりと閉めてってくれ……おい、こっちへ出てこい。狸公《たぬこう》、狸公……」 「へえ」 「こんどはな、すまないが、おめえ、さい[#「さい」に傍点]に化けてくんねえか」 「おかみさんですか?」 「そうじゃねえ、賽《さい》ころよ」 「賽ころ? なんです?」 「知らねえのか? 弱ったなあ……知らなくちゃあ化けられねえなあ……あ、そうそう、正月になあ、双六《すごろく》をやるとき、四角い目の刻んだものを子供がころがして遊んでるだろう。あれ、見たことねえかなあ」 「それならあります」 「その賽ころに化けられねえか?」 「ええ、よろしゅうございます。あたしの先祖は茂林寺《もりんじ》の文福茶釜でございますから、化けるほうじゃあ自信があります」 「そうかい。そりゃありがてえ。これから薪屋の二階で、仲間が集まって、わるさするんだよ。いや、てえしたことじゃあねえ、ちょぼいち[#「ちょぼいち」に傍点]なんてってなあ、賽の粒をなあ、壺皿へ伏せて目をあてて、勝負をあらそうんだけどなあ」 「へえ、よろしゅうございます」 「じゃあ、頼むぜ。おっ、断わっておくが目をまちげえちゃあいけねえよ。いいか? 表と裏が七つの数に合わねえとおかしいんだ。一《ぴん》の裏が六だからなあ……ぴんてえのは、一《いち》のことだぜ。それから、二の裏が五《ぐ》だ。ぐは五つだよ。三の裏が四。そういうぐわいに、表と裏が七つにならねえとおかしなことになっちまうんだから……大丈夫か? そうかい。じゃあ、ひとつ賽ころに化けてみてくれ」 「手拍子を三つお願いします……」 「ああ、そうだったな。いいか? ひい、ふう、みい……あれっいなくなっちゃったじゃねえか。おい、どこだ? え? おれの膝の前? ああ、なるほど、こりゃあうめえもんだなあ……だけど、こりゃ少し大きいな。双六で遊ぶのとちがうんだからなあ。もっと小粒でなくっちゃいけねえ。え? いくらでも小さくなる? おほほう、なるほど小さくなってきやがった……おいおいっ、そうだしぬけに小さくなるなッ、そんな米粒みてえになっちまっちゃあ、畳の目へ入《へえ》っちゃうじゃねえか。もう少し大きく……おう、そうだ。そのぐれえだ。動くなもう……ふふふふ、なかなかどうしてたいしたもんだ……いいか、ちょっと目のかわりをみるからなあ。さあ、振ってみるよ……うめえなあ、ころがっているぐあいなんざ……ああ、最初の目が一《ぴん》か。おれは、この一《ぴん》が大好きなんだよ。いつ見てもいい心持ちだなあ。もう一度振るぜ……なんでえ、また一《ぴん》かあ。そう一《ぴん》ばかり出ちゃあいけねえ。たまには、ほかのものも出なくっちゃあいけねえな」 「一がいちばん出しいいんです」 「どうして?」 「逆立ちして尻の穴を見せるんで……」 「汚《きたね》えな、一《ぴん》は尻の穴かい?……じゃあ、二は目の玉か」 「あたりました」 「あははは……でも、こりゃおかしいぜ。二の目が縦に二つてえのはねえぜ。二でも三でも肩から斜《はす》になってなくちゃいけねえ……あ、そうだ。それでいい、それでいい」 「あははは……」 「笑うない、ばか、賽ころが笑ってどうするんだ……じゃあ、これからおめえの賽を向こうへ持ってって、おれんところへ胴がまわってきたら、向こうの賽とおめえの賽をすり替えちゃってな、それで勝負をするから、おれの言うとおりの目を出してくれりゃあいいんだ。なあ、おれが一《ぴん》だよって言ったら、おめえが壺皿の中で逆立ちして尻の穴を出して、二だよって言ったら二の目、三だあってったら三の目。おれの言うとおりの目を出して、おれはどんどんどんどん儲かっちゃうんだからなあ、いいな、わかったな、じゃあ、うまく頼むぜ」 「おう、遅くなってすまなかったな」 「よう、どうしたい? ずいぶん待ったぜ」 「うふふふ、みんな揃ってんな」 「ああ、こっちへ来いよ」 「どうしたんだ、いやに陰気じゃねえか」 「ああ、きょうは妙な日なんだ。だれが胴とっても、みんな胴つぶれがしちまうんだよ。おかげで胴のとり手がいなくなっちまったんで、このへんでやめちまおうかとおもって……」 「おいおい、そりゃあひでえじゃねえか。せっかくおれが来たってえのに、やめるこたあねえじゃねえか……胴つぶれ?……じゃあ、おれが、胴とろうか?」 「胴とろうかって……おめえ、懐中《ふところ》は大丈夫か?」 「ああ、きょうは、ふんだんに持ってんだから……」 「そうか。じゃあ、やってみろ」 「おっ、すまねえ。じゃあ、ちょいと遊ばしてもらうよ。おい、ちょいと待ってくんねえか。その胴のつぶれた賽ころてえなあ縁起が悪《わり》いやな。おれが持ってきたのを使っていいだろう? なあに大丈夫だよ。ここへきて使おうってんだもの、おかしなものを持ってくるもんか。見せる、見せる。そんないかさまなんか持ってくるわけはねえんだから……さあ、手にとって、噛みつぶしたって鉛なんざ出やあしねえ。そのかわり悪くすると血が出るかも知れねえが……」 「なんだ、変な手つきしてねえで、すっと出せよ……これかい? うーん……あれっ、なんだかむずむずっとしたぞ」 「そんなはずはねえや。気のせいだろう」 「なんだかなまあったけえじゃねえか」 「なにしろ出来たてだ。……いや、いままで懐中へ入《へえ》ってたからな」 「そうかい? おめえのだから、まあ安心してるけどもねえ、ちょいと振らせてみてくんねえ」 「よせよ。そう乱暴に振っちゃあ目がまわっちゃうぜ」 「なんだと? 賽ころが目がまわるわけがねえじゃあねえか……こういうものはねえ、ちょいと目のかわりをみるんだ……あれっ、変だなあ、この賽ころは……ころがらねえで、ずってくじゃねえか」 「そりゃ気のせいだよ」 「気のせいったって、ころがらねえんだから……じゃあ、もう一度振ってみよう……おうおう、それつかまえてくれ……こんどはまた、ずいぶんころがりゃあがったねえ。おい、いやだよ。この賽ころの目がおれをにらんでやがる」 「おい、いつまでやってんだよ。てえげえにしねえとひっかかれるぜ」 「ひっかかれる? 変なことばかり言ってやがら……まあいいや。やってみろい」 「そうかい。じゃあね、二、三番いれてみるからね。変わるだろ、いいかい? ほら、ね……じゃあ、いいね? いれるよッ、はい、張っとくれ……おい、どうしたい? この一《ぴん》は……だれも張らねえのかい? 空目《あきめ》かい?」 「ああ、さっきからひとつも出てねえんだ。死目《しにめ》だあ、そんなものぁ、張り手がねえや」 「ふーん……じゃあ、一《ぴん》と出りゃあ、みんなおれのもんだぜ」 「ああ、いいよ」 「ありがてえな。勝負は、おれのもんだ」 「そんなことがわかるもんかい」 「それがわかるんだ。一《ぴん》がいちばん出しいいんだ」 「なんだ?」 「なんでもいいやな。じゃあ、いいな、勝負になるからな。さあ、頼むぞ」 「だれに頼むんだ?」 「いいか? 最初の目は一《ぴん》だからな……まん中一つだよ……尻の穴だ」 「おいおい、汚《きたね》えことを言うなよ……早く勝負しろい」 「はいっ、勝負ッ、……ほら、一《ぴん》だ」 「あっ、出たよ。一《ぴん》が出たなあ。おどろいたなあどうも……」 「ああ、ありがてえ、ありがてえ。これみんなもらっとくよ……さあさ、張っとくれ。ほう、一《ぴん》が出たんで、いやに一《ぴん》にかぶって、裏目にいこうてんで六に……はあ、なるほどなあ。よし、こんどは二と出りゃあこっちのもんだな。じゃあ、いいね、勝負になるからね。さあ。こんどの目は二だぞ、二だからなあ……肩から斜《はす》っかけだよ。まちげえんな……」 「まちげえる? うるせえな、この野郎、いちいち……早く勝負しろい」 「勝負になるよ。勝負ッ、……ほらっ、二だ」 「あれっ、また出やがった。おどろいたなあ……なんだい、この賽ころ、おれのほうをみて笑ってるようだなあ」 「なにを言ってんだ。賽ころがにたにた笑うわけはねえ。さあさあ、もう一番、もう一番いこうじゃあねえか……ほほう、一、二ときたんで、こんどは三にかぶったな……この賽ころはそうはいかねえんだから、こんどは五《ぐ》と出りゃあ、こっちのもんだ。よしっ、さあ勝負になるよ。いいか、こんどの目は……」 「おい待ちなよ」 「なんだい」 「おまえねえ、目を読んじゃあいけねえよ。おまえが目を読むと、そのとおりに出てくるんだから、気になるじゃあねえか……黙って勝負しろい」 「黙ってちゃあわからねえ」 「なにがわからねえんだ。こんど目を読んでみやがれ。その壺皿ごと踏みつぶしちまうぞ」 「おいおい、そんな踏みつぶす……そんな乱暴なことしちゃだめだよ。そいじゃあ中で死んじ……いや、あの……なにさ、目を読まなきゃいいんだろう? そんなら読まないよゥ……さあ、こんどは、加賀さま、加賀さまの紋だ。梅鉢……梅鉢だぞ、天神さまだ。天神さまっ、頼む、勝負ッ」  さっと壺皿をあけると、狸が冠《かんむり》をかぶって、束帯《そくたい》で座っていた。 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 本篇は「狸の札」と「狸賽」をつなげたが、他に茶の湯の釜に化けて寺へ行く「狸の釜」、鯉に化けて親方の祝儀に届けられる「狸の鯉」がある。民話によくある動物の恩返し譚だが、この噺のように博奕場の賽ころになるところは、落語的である。他に狸が登場する噺に、いたずらで飄逸味のある「権兵衛狸」、化けるほうでは一つ目小僧、大入道など多才な能力があり、また逆に人間におどかされ、こき使われる小心の狸の「化物使い」などもあるが、この噺の狸のような「畳の上は冷えていけない」という、狸らしい狸は他に類がない。犬を擬人化した噺に「元犬」「大どこの犬」がある。狐については「王子の狐」[#「「王子の狐」」はゴシック体]参照。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   笠碁《かさご》 「どうもゆうべはお待たせしっぱなしで、申しわけないことをいたしました」 「いやどういたしまして、お待ちをしておりましたんですが、あんまりお帰りがございませんので、もう今日はだめとおもい、残念ながらうちへ引きあげました。どちらへお出かけで?」 「あなたもご存知の、例の桜井の老人のとこへまいりましてな」 「ああ、そうですか。あいかわらずお達者で?」 「ええ、ひさびさで、ちょっとつきあってもらいたいと、盤を出されると、こっちも根が嫌《きら》いじゃありませんからな。いま一番、もう一番、とうとう三番ばかしやってしまいました」 「なるほど、そりゃお楽しみで結構でした。で?」 「それなんですがね。お楽しみどころか、三番たてつづけて、もろにやられてしまって」 「そりゃいけませんでしたな」 「いや、あなたの前だが、碁なんてえものは、おんなじくらいの腕で、勝ったり負けたりするところが、おもしろくもあり、くやしくもあるんだが、あの老人とやると、盤に向かったばかりで、もう負けている。手も足もでない。こうなると、もうくやしくもなければなんともない。さっそくしっぽを巻いて逃げ出そうとおもうと、お茶を出したり、菓子を出したりしてくれたから、よんどころなく話し相手になっていたんですが、ああいううまい人はわれわれとはちがいますね」 「どんなお話をなさいました?」 「老人の言うには『久しくあなたと手合わせをしなかったが、腕がちっともあがっていない、近ごろは打ってないんですか?』って言うから、おまえさんの話をして、『いいえ、打ってないどころじゃあありません。毎日、お昼から夕方まで八、九番は打っている』って言ったんですよ。そうしたら『そりゃ碁を打ってるんじゃあない。碁なんてえものは、数打ちゃあそれでいいてもんじゃない。だいいち、そう打てるもんでもない。あなた方の碁は、失礼だがただ石を並べて上から見てるだけのものだ。待ったやなんかがありましょう』てえから、『待ったは、お互いさまにのべつやってます』『それがよくない。待ったをするから、腕があがらない。待ったなしで打つと、一目置くにも、その石に対して、考えなしでは手がおろせない。自然と、腕のほうも上達をする』言われてみりゃ、もっともな話とおもいました。で、どうです? 今日はねえ、あなたと待ったなしで手合わせをしてみようとおもうんだが……」 「ええ、そりゃ結構ですな。あなたのおっしゃるとおり、じゃあ、待ったなしということで願いましょう」 「それじゃひとつ、そういうことで、どうぞ石をおとりください。じゃあまあ、落ち着いて、待ったなしでやらしていただきましょう」 「いやどうも、恐れ入りましたな。しかしこの、待ったなしてえことになると、よほど気をつけないといけませんなあ、じゃあどうぞおやりください」 「へ、ごめんをこうむって、こう置かせていただきます」 「へ、では、このあたりからお邪魔をしますかな。まあ、こう言うもんの、われわれは、こうして盤に向かってりゃ、それで楽しみなんですからな」 「なるほど……あたしは、こういって……さあさあ、いらっしゃい。遠慮なく……」 「そういらっしゃいましたか。なるほど、それじゃ、ここらに地盤をいただいてと……」 「ははは、いよいよおいでになりましたか。なるほどねえ、そうくりゃあこっちは、こういきましょう」 「ああ、そうきましたか、じゃあ、あたしも、この石で連絡をつけますか……」 「ははあ、つなぎましたか。どうもこりゃ恐れ入りましたな。へえへえ、それではひとつここへと……」 「へえ、さようで……こういきましょうか……」 「う、うん。こりゃまずいところへ打たれたな。その一目で、こっちが死んじゃう……どけてください」 「え?」 「こりゃ、よわったなあ」 「待ったですか?」 「いやいや、待ったてえわけじゃあない。待ったってわけじゃありませんが、ちょっと都合が悪い」 「そりゃまあ、都合の悪いほうと、いいほうができて、それではじめて勝負になるんで。両方が、はじめっから都合のよかったひにゃ、勝負は果てしがありませんからな」 「いや、みんなどけろって言うんじゃないの。この石、この石一つどけてくれりゃあ……」 「そりゃあいけません。あなたが、待ったなしとおきめになったんですから……」 「うーん、そりゃきめたんだが……将棋だって、王手をかけるでしょう。だしぬけに、そこへ置かれたって、こっちは困る」 「とにかく、なにもこれで勝負がついたというわけじゃなし、これからの打ちようで、一目や二目はどうにでもなりましょう」 「なにもそう愛嬌のないことを言わなくてもいいだろう? たった一目や二目待ったところで、なにもおまえさんのほうで百目もちがうというわけじゃなし……いいだろう?」 「いいだろうって、この勝負、ひとつ待ったなしでやろうじゃないかって、ご自分から言い出しておいて、自分から破っちゃあ、それは手前勝手というもんじゃあないですか?」 「ねえ、おまえさんも、そう理屈ばかり言うこたあないだろう? ねえ、あたしゃあ、理屈を聞こうてえんじゃないんだよ。いや、いけなきゃいけないで、どうでもいいんですよ。こっちだって、無理にも待ってもらおうってわけのもんでもない。……しかし、まあ、あなたが、そういう心持ちなら、これから先、長いおつきあいはできませんな。どうでもいいが、そんなこと、言えた義理じゃないでしょ。おまえさんと、あたしの仲なんてものは、そんなもんじゃないとおもいますねえ。だからさあ、なにも強《た》って待ってくれとは言わない。けれども、待ってくれてもいいだろうてえ話をしてるんだ。え? どうだい、これだけ、待てないかい?」 「待てません」 「あれっ、はっきり言ったねえ。そうかい、待てなきゃあいいんだよ。あたしゃ、こんなことは言いたかあないんだ。言いたくないけれど、言いたくもなるじゃあないか……おまえさんだって、以前のことを思い出すこともあるでしょ。そりゃ、この節は、たいそう身装《ようす》がよくおなりになった。定めし、お金もおできになったんでしょう。けど、よもや五、六年前のことは、お忘れじゃあないでしょ。うちへいらして、きょうはこれだけ拝借願いたい。ちょいと、こういうもんを仕入れるのに、これだけ足りないからご都合が願いたいと、なんどいらっしゃいました。そのたんびに、あたしが嫌な顔ひとつしましたか。ご用立てた金が、とどこおったことだって、一度や二度じゃないでしょ。そのときに、待ったなしだなんてことを、一度でもあたしが言いましたか」 「なんですね。そりゃどうも、たいへんに、なんですな。それと、これとは、ぜんぜん話がちがいましょ。そりゃ、あたしも、お世話にならなかったとは言いませんよ。けど、それは、きちんと全部、お返ししてるはずです」 「あたりまえですよ。返してもらわなきゃ詐欺ですよ。だから、あなたも一目くらい、目くじらたてて待てないなんて、言わなくたって……」 「だから言ってるでしょ。それとこれとは、話がちがうからって……。それじゃ、まあ、なんですから、こういうことにしましょう。これを、いったんこわして、新規まき直し、改めて、打ち直すということに……」 「え? こわしてやり直す? ふん、冗談じゃあない。なにもこわしてやり直すほどの碁じゃないでしょ……よしましょう、よしゃあいいんだ……お互い、こんなことをやるからいけないんだ。お帰りください。いやね、じつはあたしは、今日、こんなことをしている閑暇《ひま》はないの。いろいろ用事がありましてね。まあ、おまえさんが来たから、相手をしなきゃ悪いとおもっていままでやってたんだ。帰っていただきましょ。邪魔になりますから、帰っとくれ」 「帰《けい》らい、このわからずや」 「さあ、帰れ、帰れ」 「なにを言ってんだ。帰りゃいいんだろう。おまえさんは卑怯だ。待ってやってもいいとおもったんだが、おまえさんが昔のことを言い出したから、こっちも意地になったんだ。そりゃ、おまえさんに世話になったし、金も借りたよ。そういうことがあったから、あたしゃあ、大掃除の手伝いにだって、なんべんもきてるんだ。なに言ってやんでえ、そのたんびに、おまえは、そば一杯、天丼一つでも食わしたか? このしみったれ、だいいち、言うことがおもしろくねえや。なんだと? 忙しい? ふん、笑わせるない。こっちのほうがよっぽど忙しいや。こっちはおまえさんとちがって出商売、身体いくつあったって足んねえんだ。それを、少しばかり世話になったし、金も借りたりしたから、こんなへぼ[#「へぼ」に傍点]の相手をしてるんだ」 「なんだ、この野郎、へぼ[#「へぼ」に傍点]とはなんだっ」 「へぼ[#「へぼ」に傍点]にちげえねえじゃねえか。へぼ[#「へぼ」に傍点]だからへぼ[#「へぼ」に傍点]って言ったんだ。待ったなしときめて、待ってくれだなんて、こんなへぼ[#「へぼ」に傍点]があるもんか。なに言ってやんでえ。おまえさんのようなわからねえやつとは、生涯《しようげえ》つきあうもんかっ」 「ああ、つきあわなくて結構……もう、二度と来るなよっ」 「あたりめえよ。死んだってこんなうちの敷居をまたぐもんか」 「帰れッ」  いい年齢《とし》をした大人が、たった一目のことで、この騒ぎ。  それじゃあこれが、もうこれっきり会わないかというと、そうでもない。  碁敵《ごがたき》は憎さも憎し懐《なつ》かしし——  そのうちに、雨が二、三日も降りつづくと、 「おやおや、どうもよく降るなあ……三日もぶっ通しで降ってやがる。いやんなっちゃうなあ……新聞はもう三べんも見ちゃったし、煙草ものみあきちまったし、することはなし……こういうときに、あいつが来ればいいんだ。来やしめえ。あれだけの喧嘩《けんか》しちまったんだから。もっともな、考えてみれば、こっちもよくなかったよな。待ったなしと、言い出しといて、待ってくれって言ったんだからな。こりゃ、たしかにおれのほうが悪い。悪いにはちがいねえけども、あいつも強情だよ。たったの一目ぐらい待つがいいじゃないか。あれさえ待ってくれりゃあ、こんなことになりゃあしねえんだ。……なんだ? 婆さん。退屈でしょう? 退屈してるかどうか、見りゃわかるでしょう。もう退屈は、とっくに通りこしてますよ。え? 迎いに行きましょうか? だれを? あいつをかい? 冗談言っちゃあいけないよ。迎いに行きゃあ、こっちが負けになるじゃあねえか?……なに? じゃあ、ほかの人を呼んできましょうか? なに言ってんだよ、ほかの人でいいくらいなら、こんなに退屈してるもんか。おれの相手は、あいつにかぎるんだから……え? 今日あたりは来るような気がする?……うん、おれも、さっきからそんな気がしてたんだ……お湯を沸かしておいとくれ。来たらすぐに茶がはいるように。いえ、顔を見てから湯を沸かすなんてえのは、遅くなるからね。お湯が沸いたら、あたしにもお茶を一杯……」 「ねえ、ちょいと、おまえさん、いいかげんに起きたらどうなんだい? もう二日も寝っころがったり、起きたり、ごろごろごろごろしてさあ」 「うるせえなあ。そんなこたあ言われなくってもわかってるよ……ああ、起きるよ、起きるとも……この上寝ようがねえじゃあねえか……あーあ、よく降りゃあがるなあ。毎日、毎日、のべつ幕なしに降りやがら。出商売なのに、こう雨ばかり降られちゃ、しめっぽくてしょうがねえや。家ン中はうす暗えし、するこたあなし……こんなときに、一石……」 「なんだい?」 「いや……なに……ちょいと、行ってくるよ」 「どこへ?」 「えへん……あすこへ……」 「あすこって、え、なんだい?……冗談言っちゃいけないよ。およしおよし、おまえさん、大喧嘩したんじゃあないか。あんなやつたァ生涯つきあわない。死んでも敷居をまたがないって、たんか切ったじゃあないか。こっちからのこのこ出かけていったら、みっともないよ。え? 退屈で死にそうだ? 言うことが大げさだねえ。少しの辛抱ができないかねえ、それくらいなら喧嘩しなけりゃいいんだ」 「そう言うけど、おれだって、あんとき、一目ぐらい待ってやってもよかったんだよ。待ってやったからって、どうってことはなかったんだから。けれど、あんまりあいつの言い草が癪にさわるから、つい意地張っちゃったんだよ。向こうだって退屈してるにちがいねえやね。ちょいと様子をみてくら」 「あきれたもんだね。おまえさん、もう喧嘩はごめんだよ。あたしがあいだにはいって、困るんだから……ちょいと、待ってくれよ、おまえさん、傘持ってくの?」 「降ってるじゃねえか」 「だめだよ。傘一本きりしかないんだから。あたしが、用達に行くとき困るからさ。置いてっとくれ」 「じゃあ、なにかい? おれに濡れてけってえのかい?」 「おまえさん、持っていきゃいつ帰ってくるかわからないだろう。その傘持ってっちゃあ困るよ、一本しかないんだから……」 「そんな意地の悪《わり》い話があるもんか。それじゃあ、行くなってえのとおんなじじゃあねえか。そんなわからねえ話が……うふふふ、うめえもんがあった。おい、そこにかぶり笠があるな、菅笠《すげがさ》が……それを持ってこう。まあ、ものてえやつぁ、なんでも丹念にとっとけてなあこれだ。ひどいほこりだなあ、わざわいも三年経てば役に立つってなあ、おととし大山へ行ったときにかぶった笠だ。これをこうしてかぶっていきゃあ濡れっこねえ。おかしいったってかまわねえってことさ。うふふふ、うめえものがありゃあがった。こうやっていきゃあ濡れっこねえぞ」 「おいおい、どうしたい、婆さん。お湯は?……え? まだ沸かない? なんだい。火がおこらない? あおいだらいいだろう。……なに? ほこりが立ちます? 立ったっていいじゃあねえか。さっさと沸かしなよ。湯なんてものはね、ちゃんと沸かしとくもんだよ。人さまが来たときに、湯を沸かしてりゃあ、布団出して、すぐ茶が出せるんだよ。沸いてねえと、布団出して、湯を沸かして茶をいれりゃあ、そのあいだ間がぬけるじゃあねえか。早く沸かしなよ……おやおや、まだ降ってやがる。もういいかげんにやんだらいいじゃあねえか。表をごらんよ。のべつに降ってるから、ひとっ子ひとり通りゃあしねえや。……や、や、や、出てきた、出てきた、婆さん、やって来た、やって来た……ふふふふ、とうとうたまらなくなってやって来やがった。また、妙な格好して来やがったなあ、笠かぶってやがら……きまりが悪いもんだから、わざと笠なんぞかぶってきたんだな。おーい、早く湯を沸かしな。煙草《たばこ》盆を出してな……あれっ、行っちまいやがった。いやな野郎だねえ。どこへ行きゃあがったのかねえ。この降りだってえのに、ほかに行くところなんぞあるはずがねえのに……あ、もどってきた、もどってきた。婆さん、おいおい、ここへ碁盤を持ってきなよ。そこへ置け、見えるところへな、しめしめ、もうこっちのもんだ。やっぱりうちへ来やがったよ。うん、なに、大丈夫、こんどは入《へえ》ってくるからな……へ、へ、へ……強情な野郎だねえ。こっちを見ろってんだ。こっちを、見りゃあ、ちゃーんと盤がでて、支度もできてるんだ。素直に入《へえ》ってくるがいいじゃあねえか。皮肉な野郎だね……また行っちまやがった。ちぇっ、いまいましい野郎だ。用もねえのにうちの前歩いてやがんだ。そういう野郎なんだ、あいつは……ぷうゥ、電信柱のかげに立ってやがって、こっちをのぞいてやがる。やっぱりきまりが悪くって来にくいんだな。かまわず入《へえ》ってくりゃいいのに、ばか野郎……あっあ、また出てきたよ、だんだん寄ってきたな、来た来た……婆さん、羊羹《ようかん》切っとくれ……あれっ、こんどは下向いて歩いてやがる。ふふ、こんどこそ、こっちへ……よしよし、……あれっ、また通りす……やいやいっ、……へぼ[#「へぼ」に傍点]ッ、へぼ[#「へぼ」に傍点]やいッ」 「なにをッ、へぼ[#「へぼ」に傍点]? へぼ[#「へぼ」に傍点]たあなんだ」 「へぼ[#「へぼ」に傍点]だから、へぼ[#「へぼ」に傍点]って言ったんだ」 「なにをッ、てめえのほうがよっぽどへぼ[#「へぼ」に傍点]だ」 「よし、どっちがへぼ[#「へぼ」に傍点]か、一番くるか?」 「やらなくってよ。いくとも……まず、え? 世の中におめえさんぐらいわからねえ人間があるかい、言い出しといて待ったをするから……」 「ぐずぐず言うことはない。さあさ、せっかく来たんだ、機嫌を直して、ゆっくり遊んできな」 「……いえなに、……べつにね、機嫌直すも直さねえもありませんけど、あなた、あんまりものがわからねえから……」 「わからねえたって……」  二人が碁盤に向かっていると、盤の上にしずくがぽたりぽたり。 「やあ、こりゃあ、たいへんだ。盤の上に水滴《しずく》がたれるね。こりゃ困った。え? どっか漏るんじゃあないか……はてな? 雨の漏るわけはないが……いくら拭いても、いくら拭い……あっ、いけねえなあ、かぶり笠をとらなくっちゃあ」 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 「碁敵は憎さも憎し懐《なつ》かしし」——落語の名句中の名句である。安藤鶴夫著『落語鑑賞』は、二人の人物を「主《あるじ》は磨きのかかった床柱などを並べた唐木商、年齢は五十五ぐらい。客はそこへ出入りの古物商で、年齢は四十三、四」と推量している。スケッチ風の四場面構成のなかに、二人の心理の動向、対手へのおもいがサスペンスを生んで展開する。雨中の往来での双方の心の接近するさまは、目の動きで表現され、目と目でさぐるスリルは、盤上の打ち合いのようなやま[#「やま」に傍点]場になる。そして両者が碁盤に取りすがり、盤面だけに集中し、雫《しずく》がポタリ、ポタリと落ちてきても、お互いにおやっとおもいつつ拭いている演出は秀逸で、鑑賞者も一瞬、菅笠を被っていることを忘れてしまう。そして、やや間があって盤面から目を離し、上を見上げる……見事な「トタン落ち」となる。三代目柳家小さんが大阪より移入し、練り上げた。「碁どろ」[#「「碁どろ」」はゴシック体]とともに傑出した噺である。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   金明竹《きんめいちく》 「与太郎や、なぜその、猫の鬚《ひげ》ェ抜くんだい? 鼠をとらなくなっちまうじゃあないか……おまえだろう、猫の爪とったのは。なぜ爪をとっちまうんだ」 「だって、おじさんが爪を伸ばしておいちゃあいけない。爪をとれ、爪をとれって言うから」 「そりゃあ、おまえの爪をとれと言ったんだよ。ごらん、猫がどこへも上がれなくなっちまったじゃあないか。ほらっ、なぜ算盤《そろばん》をまたぐんだよ。大事な商売の道具じゃあないか。わきへ寄せておきな。さあ、表を掃除しなさい。掃除というのは掃くんだよ。箒《ほうき》をもってきて……ああ、ひどいほこりだなあ。水を撒《ま》きな水を……掃除をする前には水も撒くもんだ。おぼえておきなさい。水を撒くったってうまいまずいがあるんだよ。植木屋さんが撒くように、たいらに、水たまりがあって乾いたところがあっちゃいけない……ああッ……どうもあいすいません、とんだご無礼をいたしました。見なさい。おまえのためにあたしがあやまらなくちゃあいけない。撒く先を見ないで手もとばかり見て撒くから、人さまの足へかけてしまうんだ。往来へ行ってこっちへ撒きな……あッあッ……店へ入るよ、もう加減がわからないかなあ、もういいよ。表はいいから二階へ行って二階の掃除をしな……おまえも少し叱言《こごと》を言ってくれなきゃ困りますよ。いくらあたしの身内だからって、朝から晩まであいつにかかりっきりで叱言だ。口がくたびれちゃうよ。あたしがやったほうが早いけど、それじゃ、あいつがなんにもおぼえやしない……おや? 二階から水がたれてきたよ。またなんか粗相したぞ、花瓶でもひっくり返したんじゃねえか……おーい、与太郎、どうかしたか?」 「いま掃除する前だから水を撒いてる」 「ばか野郎……おい、表と座敷といっしょにするやつがあるか……おい、雑巾《ぞうきん》持ってきておくれ、たいへんだ……おまえは店番してなさい。店番を」 「うん……そのほうがこっちは楽でいいや……あれっ、雨が降ってきたぞ。なんだ、水撒いて損しちゃった。もう少し待ってりゃあ天が水撒いてくれたのになあ……ああ、表を歩いていた人がみんなお尻《けつ》をまくって駆け出して行くぞ。おもしろいなあ」 「ごめんください」 「あっ、なんです?」 「通り雨だろうとおもうんですけど、ちょっと、お軒先を拝借したいんですが……」 「軒先なんぞ持ってっちゃあ困るよ」 「……? いいえ、持って行くわけじゃあございません」 「ああ、そうか。傘がなくって困ってるんだな」 「ええ」 「そんなら貸してやろうか?」 「そうですか、急ぎの用があって、助かるんですが……」 「じゃあ、これを持っといでよ」 「これは、どうもありがとうございます」 「与太郎や……どなたかいらっしゃったようだな」 「雨が降ってきた」 「そうかい。なにか濡れるものはなかったかな?」 「地べたが濡れてる」 「干物でも出してないかと聞いてるんだよ……それにいま、どなたかいらっしゃったようだが」 「尻まくった毛むくじゃらの脚の人が入ってきて、軒先を拝借したいって」 「雨宿りだろう。どうぞと言ってあげたかい」 「いやあ、軒先を持ってかれないように、傘貸してやった」 「ああ、どちらの方《かた》だ?」 「あちらの方」 「指さしたってわからないよ。どんな人だ?」 「こういう首がある……こういう……」 「かたちじゃない。知ってる人か?」 「ううん、知らない人」 「ところと名前でも聞いといたか?」 「聞かない」 「そんな人に傘貸しちゃいけないね、番傘か?」 「おじさんの蛇の目」 「行き届いたやつだね……貸してくださいと言われても、知らない人だったらお断わりするものだ。傘なんてえものは、お天気になると、ついつい忘れて返さなくなるもんなんだから……」 「ああ、じゃあ、こんどは断わらあ。おまえは返さないから貸さないよって……」 「そんなことを言うやつがあるもんか……そういうときには、『貸し傘も何本もございましたが、このあいだからの長じけ[#「じけ」に傍点]で、使いつくしまして、骨は骨、紙は紙と、ばらばらになりまして、使いみちになりませんから、焚《たき》つけにでもしようとおもって、物置きに放りこんであります』と、こう言って断われ」 「ああ」 「わかったか?」 「うん、こんどは、そう言って断わるよ」 「ごめんください」 「なんだい?」 「すじむかいの近江屋でございますが、いま押し入れに鼠を追いこんじゃったんですが、ええ? 人間わざじゃあどうにもしょうがねえもんで、お宅の猫が遊んでいたら、ひとつ貸してくださいな」 「うふっ」 「え?」 「うちに貸し猫も何匹もいましたが……」 「へっ?」 「こないだからの長じけでね、使いつくして、骨は骨、紙……紙はねえや……皮は皮で、ばらばらになっちゃって、焚つけにしようとおもって、物置きへ放りこんであります」 「へーえ、猫の焚きつけです? それじゃあまたお願いします」 「おい、与太郎っ」 「え?」 「どなたかいらしったようだな?」 「ああ、すじむかいの近江屋……」 「呼びすてにするやつがあるか」 「さん」 「いまごろ、さんづけにしてどうするんだ。なんのご用だ?」 「押し入れへ鼠が入っちゃって、人間じゃあしょうがないから、猫貸してくれって」 「そうか。猫はそこにいるじゃあないか、貸してあげな」 「断わっちゃった」 「なんだって」 「うちに貸し猫も何匹もいましたが……」 「貸し猫?」 「こないだからの長じけで、骨は骨、皮は皮で、ばらばらになりまして、使いみちになりませんから、焚つけにしようとおもって、物置きへ放りこんであります……」 「それは傘の断わりようだ。猫なら猫のように断わりようがある。『うちにも猫が一匹おりましたが、このあいだからさかり[#「さかり」に傍点]がつきまして、とんとうちへ帰りません。久しぶりで帰ってきたとおもったら、どっかで、海老の尻尾《しつぽ》でも食べたんでしょうか、おなかをくだしまして、お宅へおつれして、もしもお座敷へ粗相するといけません。木天蓼《またたび》なめさして寝かしてあります』と、こう言うんだ」 「ふーん」 「わかったか?」 「こんど来たらそう言うよ」 「ごめんくださいまし」 「なんだい?」 「へえ、横丁の讃岐屋からまいりましたが、うちの旦那ではちょいと目の届かないことがございますので、ご苦労さまでございますが、こちらの旦那さまがいらっしゃいましたらちょっとおいでを願いたいんでございますが……」 「ああ、旦那か……うちに、旦那も一匹いましたがねえ、こないだから、さかり[#「さかり」に傍点]がつきまして……」 「えっ? あの旦那が……」 「ええ、とんとうちへ帰らねえんで。久しぶりに帰ってきたんですけど、海老の尻尾を食べてねえ、おなかをくだしちゃったんで……」 「あらあら……」 「そいでお宅へおつれしてお座敷へ粗相するといけませんから、木天蓼《またたび》なめさして寝かしてあります」 「ちっとも存じませんでした。では、あらためてお見舞いにうかがいます」 「与太郎」 「ええ?」 「どなたかいらしったら奥へ言わなきゃあいけないよ。どなただい?」 「あのね。横丁のね、讃岐屋……さん」 「なんだって」 「あの、旦那の目の届かない……よっぽど遠くにあるんですねえ、きっと。それでいたらおじさんに来てくれって……」 「ああ、そうかい。なにか目利きをしてくれってんだろう。じゃあ行ってこよう」 「断わっちゃったよ」 「なんだって?」 「うちに、旦那も一匹いましたが……」 「一匹?」 「こないだから、さかり[#「さかり」に傍点]がつきまして……」 「おい、よしてくれ、なんてことを言うんだ」 「とんと家へ帰りません。久しぶりで帰ってきたかとおもったら、どこかで海老の尻尾《しつぽ》を食べておなかをくだしちゃって、お宅へつれてってお座敷へ粗相するといけませんから木天蓼《またたび》なめさせて寝かしてあります」 「それは猫だよっ……あたしゃ面目なくって表へ出られないよ……羽織出しておくれ。まちがえられるといけないから、ちょいと行ってわけを話してくるから……こいつに任しといちゃあだめだよ。おまえ店番しとおくれ……おい、与太郎、お客さまがきたら、なんでもいいからおばさんにそう言うんだよ」 「ああ」 「ああなんていう返事があるか。『はい』って言うんだ」 「ああ」 「あきれかえってものが言えないねえ。じゃあ行ってきますよ」 「行っていらっしゃい。あっはっはっは、とうとう行っちまった。おじさんもいいけど、のべつ叱言ばかり言ってるんだからかなわねえや。爪をとっとけって言うから猫の爪をとったら、あれはいけないと言うし、なんでもきれいにしておけと言うから庭の石灯籠をたわしで磨いたら、あれは磨いちゃあいけねえんだってやがる。……どうしていいかわかりゃあしない」 「ごめんやす、ええ、ごめんやす」 「なんだい?」 「旦那《だな》はん、お在宅《うち》でやすか?」 「ええ、炭団《たどん》屋さん?」 「旦那《だな》はん、お在宅《うち》でやすか? お家《いえ》はんは? あんた丁稚《でつち》はんだっか? なあ、ぼんち[#「ぼんち」に傍点]か? わてなあ、中橋《なかばし》の加賀屋佐吉方から参じましたん。へえ、先度、仲買いの弥市が取り次ぎました道具七品のうち、祐乗《ゆうじよう》、光乗《こうじよう》、宗乗《そうじよう》三作の三所物《みところもの》、ならびに、備前|長船《おさふね》の則光《のりみつ》、四分一《しぶいち》ごしらえ|横谷宗※[#「王+民」、unicode73c9]小柄《よこやそうみんこづか》付きの脇差《わきざし》、柄前《つかまえ》はな、旦那《だな》はんが古《ふる》鉄刀木《たがや》と言やはって、やっぱりありゃ埋木《うもれぎ》じゃそうに、木がちごうておりまっさかいなあ、念のためちょとお断わり申します。つぎは織部の香合、のんこの茶碗、黄檗山金明竹《おうばくさんきんめいちく》、ずんどうの花|活《い》けには遠州|宗甫《そうほ》の銘がござります。古池や蛙《かわず》とびこむ水の音と申します、あれは風羅坊正筆《ふうらぼうしようひつ》の掛け物で、沢庵《たくあん》、木庵《もくあん》、隠元禅師張《いんげんぜんじは》り交《ま》ぜの小屏風《こびようぶ》、あの屏風はなあもし、わての旦那《だんな》の檀那寺《だんなでら》が兵庫におましてなあ。へえ。この兵庫の坊主の好みまする屏風じゃによって、表具にやり、兵庫の坊主の屏風にいたしますと、かようおことづけ願います」 「あっはっは、こりゃあおもしろいや。お銭《あし》をやるからもういっぺんやってごらん」 「わて、ものもらいとちがいまんがな……なあ、よう聞いとくれなはれや。わて、中橋の加賀屋佐吉方から参じました。先度、仲買いの弥市が取り次ぎました道具七品のうち、祐乗、光乗、宗乗三作の三所物、ならびに備前長船の則光、四分一ごしらえ横谷宗※[#「王+民」、unicode73c9]小柄付きの脇差、柄前はな、旦那はんが古鉄刀木と言やはって、やっぱりありゃ埋木じゃそうに、木がちごうておりまっさかいなあ、念のためちょとお断わり申します。つぎは織部の香合、のんこの茶碗、黄檗山金明竹、ずんどうの花活けには遠州宗甫の銘がござります。古池や蛙とびこむ水の音と申します。あれは風羅坊正筆の掛け物で、沢庵、木庵、隠元禅師張り交ぜの小屏風、あの屏風はなあもし、わての旦那の檀那寺が兵庫におましてなあ、この兵庫の坊主の好みまする屏風じゃによって、表具にやり、兵庫の坊主の屏風にいたしますと、かようおことづけ願います」 「うわあ、こりゃあおもしれえや。なんべん聞いてもわからねえ。ひょごのひょうごのって……おばさん、来てごらん、よくしゃべる乞食が来たよ」 「まあ、なんですねえ。失礼なことを言うんじゃありませんよ……いらっしゃいまし。これは、親戚から預かりました愚か者でございまして、たいへん失礼いたしました……あのう、どちらからおいででございます?」 「ああ、お家《いえ》はんだっか?」 「はい」 「あのう、旦那はん、お留守でやすか? それではなあ、ちょとおことづけ願います。わて、中橋の加賀屋佐吉方から参じましたん。先度、仲買いの弥市の取り次ぎました道具七品のうち、祐乗、光乗、宗乗三作の三所物、ならびに備前長船の則光、四分一ごしらえ横谷宗※[#「王+民」、unicode73c9]小柄付きの脇差、柄前はな、旦那はんが古《ふる》鉄刀木《たがや》と言やはって、やっぱりありゃ埋木《うもれぎ》じゃそうに、木がちごうておりまっさかいなあ、念のためちょとお断わり申します。つぎは織部の香合、のんこの茶碗、黄檗山金明竹、ずんどうの花活けには遠州宗甫の銘がござります。古池や蛙とびこむ水の音と申します。あれは風羅坊正筆の掛け物で、沢庵、木庵、隠元禅師張り交ぜの小屏風、あの屏風はなあ、もし、わての旦那の檀那寺が兵庫におましてなあ、この兵庫の坊主の好みまする屏風じゃによって、表具にやり、兵庫の坊主の屏風にいたしますと、かようおことづけ願います」 「あの、お茶をもってらっしゃい、お茶をもってらっしゃい……」 「もうもう、構《かも》うとくんなはんな、茶《ぶぶ》結構だす。おことづけのほうわかりましたか?」 「あのう、これに叱言いっておりまして、ちょっと聞きとれなかったもんですから、申しわけございませんが、もう一度おっしゃっていただきたいんで……」 「ああさよかあ……わて、丁稚はんに二度、あんたはんに一度だっせ、もう口が酸《す》うなってまんねん。よう聞いとくんなはれや。わて、中橋の加賀屋佐吉方から参じましたん。先度、仲買いの弥市が取り次ぎました道具七品のうち、祐乗、光乗、宗乗三作の三所物、ならびに備前長船の則光、四分一ごしらえ、横谷宗※[#「王+民」、unicode73c9]小柄付き脇差、柄前はなあ、旦那はんが古鉄刀木と言やはってやった、あれ、埋木じゃそうになあ、木ィがちごう……よく聞いとくんなはれや、木ィがちごうとりますさかい、念のため、ちょとお断わり申します。つぎは織部の香合、のんこの茶碗、黄檗山金明竹、ずんどうの花活けには遠州宗甫の銘がござります。古池や蛙とびこむ水の音……ありゃ風羅坊正筆の掛け物、沢庵、木庵、隠元禅師張り交ぜの小屏風、あの屏風はなあ、わての旦那の檀那寺が兵庫におましてな、この兵庫の坊主の好みまする屏風じゃによって表具にやり、兵庫の坊主の屏風にいたしますと、かようおことづけ願います。ごめんやす」 「あの、もし、あなた……ほら、ごらんよ。おまえが、げらげら笑うから、なにを言ってたか、ちっともわからないじゃないか……お茶をもってらっしゃいってえのに。お茶をもってくればもういっぺんぐらい聞かれたのに。旦那が帰ってきたら、なんて言ったらいいか、困っちまう……」 「あたい知らないよ。おばさんが聞いてたんだもの……ひょうごの、ひょうごのって……」 「ただいま帰りました」 「お帰んなさいまし」 「与太郎にまた叱言かい?」 「はい……あの……いま、お客さまが見えました」 「そうかい……で、与太郎がどうした?」 「お茶を持っといでと申しますのに、お客さまのうしろへ棒立ちに突っ立って、大きな口をあいて、げらげら笑ってます」 「こういうやつだからしかたがない。で、どちらの方がおいでになったんだい?」 「いま、お帰りになったばかりですが、途中で、お会いになりませんでしたか?」 「いいや、会わなかった。どちらの方だ?」 「あちらの……」 「どういう方だ?」 「ええ、羽織を着て、着物を着て、帯をしめて……」 「おまえにまで与太郎がうつったんじゃないか? どこの、なんという方が、なんのご用でお見えになったんだい?」 「あのう……それが、上方《かみがた》のお方らしゅうございまして、言葉も早口でよくわからないところがありましたので……」 「じゃあ、ゆっくり聞くから……どこの方が、なんの用で、お見えになったんだい?」 「その……いまお帰りになりました」 「そんなことばかり言ってる? じゃあ……なんだってえの?」 「中橋の加賀屋佐吉さんとかいう……?」 「おうおう、会いたかった、佐吉さんかい?」 「いいえ、そこからお使いで……仲買いの弥市さん」 「ああ、弥市ならいつか家《うち》へ来たことがある。その弥市が来たのか?」 「いいえ、その人が、気がちがったんです」 「えっ、気がちがった?」 「ええ、気がちがいましたからお断わりにまいりました」 「おかしいな……それから、どうした?」 「なんでも、……遊女を買ったんです……それが孝女なんです……」 「へえっ」 「掃除が好きで……千艘《せんぞ》や万艘《まんぞ》って遊んでて、しまいに、ずん胴斬りにしちゃったんです」 「気ちがいだから、なにをするかわからない。それからどうした?」 「それから、あの……つかまえようとしたんですが……小づか……小づかいがないとかいって……つかまんなかったんです」 「なんだか、さっぱりわからないな」 「で、隠元豆に沢庵ばっかり食べて、いくら食べても、のんこのしゃあ……」 「なんだいそりゃ?」 「それで、あの、備前の国へ親舟で行こうとおもったら、兵庫へ行っちゃったんです。で、兵庫にお寺があって、そこに坊さんがいて、まわりに屏風を立てまわして、なかで、坊さんと寝たんですって……」 「ああ、そりゃ色気ちがいだ……しかし、どうもよくわからないなあ。話てえものは十《とお》のところを五つわかればあとは察することもできるが、これじゃ、子供のなぞなぞだよ、いやだよ、あたしゃあ。どこか一か所ぐらい、はっきりおぼえてないかい?」 「ああ、そういえばおもいだしました。たしか、古池へとびこんだとか……」 「えっ、古池へとびこんだ。……早く言いなさいそういうことは……あの人には、道具七品ってものが預けてあるんだが、買ってかなあ?」 「いいえ、買わず(蛙)でございます」 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 道具七品に関する由緒、注釈。 金明竹[#「金明竹」はゴシック体] 中国から伝来した竹で、黄金色で節の溝に、緑色の縦すじがあって美しいので、観賞に供せられる。幹、枝は筆の軸や煙管の羅宇《らお》などの細工にももちいられる。 祐乗・光乗・宗乗[#「祐乗・光乗・宗乗」はゴシック体] 足利期より桃山時代にかけて活躍した金属彫刻の名家で、初代後藤祐乗、二代光乗、三代宗乗。三所物とは目貫《めぬき》、小柄、笄《こうがい》の三揃《みつぞろい》。 備前長船の則光[#「備前長船の則光」はゴシック体] 刀工。備(岡山県)は古来多くのすぐれた刀工を生んだ。長船は長船村に在住した一派をさす。 横谷宗甫[#「横谷宗甫」はゴシック体] 金属彫刻横谷家三代目の名工(一六五一—一七三三)。江戸中期の人。 鉄刀木[#「鉄刀木」はゴシック体] ビルマ、マラヤ、東インド地方のマメ科の堅い黒と赭の紋様のある香り高い木材で、昔から高級家具その他細工物等に使用、俗に紫檀《したん》、黒檀《こくたん》、鉄刀木《たがやさん》、という。 埋木[#「埋木」はゴシック体] 多少黒檀に似て質もやや堅く、古代の樹木が湿地中に埋もれて半ば化石化した木。 織部[#「織部」はゴシック体] 松坂城主古田印斎(織部茶道の祖)が、慶長年間瀬戸の赤津の陶工に焼かせた陶品。 のんこの茶碗[#「のんこの茶碗」はゴシック体] 京の楽焼三代目楽吉左衛門道入(一五七四—一六五六)の焼いた井戸茶碗、自他ともにノンコウと称した。 黄檗山[#「黄檗山」はゴシック体] 中国の明朝時代の末、臨済宗の隠元禅師(一五九二—一六七三)が来日、万治二年、京都宇治に黄檗山万福寺を創建、その庭に金明竹が生えていた。 ずんどうの花活け[#「ずんどうの花活け」はゴシック体] 輪切りにした竹の花活け。 遠州宗甫[#「遠州宗甫」はゴシック体] 遠州流華道の始祖にして別称小堀遠州、孤蓬庵宗甫ともいう。 風羅坊[#「風羅坊」はゴシック体] 芭蕉の雅号の一。 沢庵[#「沢庵」はゴシック体] 臨済宗の僧(一五七三—一六四五)。徳川家光の帰依を受け、品川に東海寺を開いた。書で有名。 木庵[#「木庵」はゴシック体] 中国、明の黄檗宗の僧(一六一一—一六八四)。一六五五年師隠元とともに来日。能書できこえた。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   鹿政談  むかしから名物というものは、いろいろに言われているが、その土地土地によって異なり、江戸の名物は、 [#この行1字下げ]武士、鰹《かつお》、大名、小路《こうじ》、生鰯《なまいわし》、茶店、紫、火消、錦絵。 これに追加があって、 [#この行1字下げ]火事、喧嘩、伊勢屋、稲荷に犬の糞。 京都の名物は、 [#この行1字下げ]水、壬生菜《みぶな》、女、染め物、針扇、お寺、豆腐に人形、焼き物。 大阪の名物は、 [#この行1字下げ]舟と橋、お城、惣嫁《そうか》に酒、蕪《かぶら》、石屋、揚《あげ》屋に問屋、植木屋。 奈良の名物は、 [#この行1字下げ]大仏に、鹿の巻筆《まきふで》、奈良|晒《ざらし》、春日《かすが》灯籠《とうろう》、町の早起き。  奈良|三条横町《さんじようよこまち》に住む、豆腐屋の与兵衛……この人は親孝行で、そのうえ人づきあいもよく、評判の働き者……商売柄、いつものように朝暗いうちから起きて、豆腐をこしらえ、また二番目の臼をひいていると、表でどどっとものの倒れる音がした。しらじらと明けてきた表を、戸の隙間《すきま》からのぞいてみると、戸袋のところへ出しておいた雪花菜《きらず》の桶を倒し、大きな犬が桶の中へ頭を突っこんで、むしゃむしゃ食べている。……雪花菜《きらず》とは、豆腐のしぼりかす[#「かす」に傍点]、おから[#「おから」に傍点]のことで、あちらでは雪花菜《きらず》という……なるほど豆腐は切るがあれは切りません、うまく名付けたもので……。朝っぱらから商売ものを食われるのは腹立たしい。 「しッ、しッ」  と、与兵衛が二、三べん追ってみたが、いっこうに動じない。ぽっぽと湯気の立つ雪花菜《きらず》を犬は、あいかわらずうまそうにむしゃむしゃやっている。おどかそうと、そばにある薪《まき》をとって、ぽーんと投げつけると……当たりどころが悪かったものか、ごろっと倒れた。与兵衛が表へ出てみると、それは犬ではなく、鹿が倒れているので、びっくり仰天……家内じゅうの騒ぎになり、手当てをしたり、薬をのませたりしたが、鹿は息を吹き返すことなく死んでしまった。  奈良では、鹿をご神鹿《しんろく》として、たいへんに大切にしている。「鹿を打つものは五貫文の科料に処す」、つまり、ちょっとなぐったところを役人に見られると、五貫文の罰金をとられる。まして殺したとなれば、「鹿をあやまちたりとも打ち殺したものは死罪たるべし」というきびしい掟がある。  そのうちに近所でもこの騒ぎに気づき、 「豆腐屋の前に鹿が死んでる」 「与兵衛が鹿をなぐり殺した」  と、町じゅうへ噂がひろまり……目代《もくだい》屋敷から役人が出頭し、与兵衛はお縄にかかって奉行所へ引かれていった。そして、鹿の守役の塚原|出雲《いずも》、興福寺の番僧良然《ばんそうりようぜん》の両名の連署で、訴えの願書が差し出され、白洲へ一同のものがそろって控えた。ときの奉行は、根岸肥前守《ねぎしひぜんのかみ》という人で、のちに江戸町奉行に栄転をした、慈悲深い方……。 「奈良三条横町、豆腐屋渡世、与兵衛、面《おもて》を上げよ」  縁側の下の両側へ腰をかけている蹲踞《つくばい》の同心。俗に赤鬼青鬼といって、緋房《ひぶさ》の十手をふりあげて…… 「面《つら》を上げろっ」  この声を聞いただけでだれでもぶるぶるっとふるえあがる。 「そのほう、何歳にあいなる?」 「四十二でござりまする」 「そのほうの生まれは、いずれである?」 「わたくしは奈良三条横町に……」 「これ、そちの住まいではない、生まれはいずくじゃ?」 「奈良三条……」 「これこれ、そのほう、お上をおそれて顛倒《てんとう》いたしておる。いつわりを申してはあいならんぞ……そのほう、奈良|出生《しゆつしよう》の者ではあるまい。いずれの生まれであるか? よく前後をわきまえ答えをいたせ。どうじゃ、定めし奈良出生の者ではあるまいの」 「はい……お慈悲のお言葉、ありがたいことでござります。わたくしは嘘をつくことはきらいでござりまして、じじいの代から三代、奈良三条横町に豆腐屋をいとなんでおります。奈良出生の者に相違ござりません」 「しからばそのほうは、おのれでいたしたことがわからんようにあいなる、なにか病《やまい》でもあるか?」 「鼻風邪ひとつひいたこともない、丈夫なものでござります」 「しからばいかなる趣意をもって鹿を打ち殺したか、ありていに申せ、意趣遺恨でもあるか? どうじゃ?」 「はい、もとより鹿のこと意趣遺恨のあろう道理もござりません。いつものとおり早う起きまして豆腐をこしらえ、また二番目の臼《うす》をひいておりますと、表でどどっとものの倒れるえらい音がいたしましたので、ひょっとのぞいてみると、表へ出しておきました雪花菜の桶を倒して、大きな犬がむしゃむしゃ食べております。商売ものを食べられるのは縁起《げん》の悪いこと、しッしッと、二、三べん追うてみたが、いっこう退《の》こうといたしませんので、つい腹立ちまぎれ、そばにありました割木をとって打ちつけましたところ、たしかに手ごたえ……、近寄りみれば、犬にはあらであれなる鹿。な、な、南無三宝……ゥ、薬はなきやと懐中を……」 「控えろ……それは忠臣蔵六段目である」 「いろいろ介抱いたしましても甦《よみがえ》りませんで、大事な鹿を打ち殺しましたる咎《とが》、どのような重いお咎めも覚悟の上でござりまする。あとに残りました母親や女房子は、ご憐憫《れんびん》のご沙汰《さた》を願わしゅう存じます」 「さようか。ざんじ控えおれ……これ、鹿の死骸をこれへ持て……薦《こも》をはねよ……ふーん、これは鹿ではない。犬じゃ。毛並みは似ておるが奉行の見るところ犬とおもうが、一人《いちにん》にてあやまちがあってはあいならんが……そちはどうじゃ?」 「はっ、てまえも拝見いたしましたるところ、毛並みは似ておりますが、これは犬のように心得ます」 「さようか……そちはどうじゃ?」 「てまえも犬と心得ます」 「町役たちもよく死骸をあらため、犬であるか鹿であるか申してみよ、どうじゃ?」 「ええ、わたくしどもはもうどっちゃでもよろしいことでござりまするので……」 「これ、どっちゃでもと曖昧なことを申さず、よくあらためよ」 「なるべくのことなら犬のほうに願いたいのでござりまして……」 「控えろ……願わくばなぞと申さずよく死骸をあらためよ」 「もう拝見いたしませんでも犬に相違ござりません……なあ、源兵衛さん、新吉っつぁん、八左衛門さん、こりゃなんや、犬やな」 「へええ、もう犬に相違ござりませんで、犬の証拠には、いまわんわんとなきまして……」 「これこれ、いかに犬であればとて死んだものがなくか」 「ついうれしまぎれになきましたわけで……」 「たわけたやつである……しからば一同も犬と見る。奉行もこれは犬とおもう。さて、……守役、塚原出雲、取り調べたるところ、これは毛並みの似た犬である。そのほうも役目たいせつと心得、とりちがえ、訴え出でしものに相違あるまい。これは、役目たいせつと心得てのあやまり、上《かみ》において咎めはいたさん。願書は差し戻すによって、これは願い下げにいたしてはどうじゃ」 「おそれながら塚原出雲申しあげます。てまえ年来守役を勤むるもの、毛並みの似たる犬を鹿ととりちがえる愚かはござりません。いま一応お調べを願わしゅう存じます」 「ふーん、しかし鹿ならば角《つの》がのうてはかなわん。これには、角がない。それでも鹿と申すのか?」 「お奉行さまのお言葉とも存じません。鹿というものは、春、若葉を食し、それがため弱るものか、角を落とします。これを鹿のこぼれ角《づの》、ないし落とし角《づの》とも申し、俳諧の手提灯、木の葉籠などにも見受けます。角の落ちましたあとを袋角《ふくろづの》、ないしこれを鹿茸《ろくじよう》ともとなえ……」 「だまれッ、鹿の落とし角、俳諧の手提灯の講釈はそのほうに聞かんでも奉行心得おるわ……たってそのほうこれを鹿と言いはるなら、汝《なんじ》ら両名を取り調べんければあいならん。鹿には上《かみ》より三千石の餌料《えりよう》をくだしおかれる。しかるに近ごろその餌料のうちを、金子《きんす》に替え、これを奈良町人に高利をもって貸し付け、役人の権柄《けんぺい》をもってきびしく取り立てをいたす、それがため町人ども、ことのほか難儀いたすということ、奉行の耳に入りおる。百頭内外の鹿に三千石の餌料ならば、鹿の腹が満《み》たんければあいならん。しかるに餌もろくに与えず、ひもじきまま、畜生のことゆえ町家に出《い》でて雪花菜なぞを盗み喰《くろ》うに相違ない。たとえ畜類たりとも町人のものを盗み喰《くろ》うは、これ賊類にて、神慮《しんりよ》にかなわず。打ち殺しても苦しゅうないと心得る。たってそのほう鹿と言いはるなら、当調べはあとまわしにいたし、鹿の餌料横領から取り調べつかわそうか、どうじゃ」 「はッ」 「どうじゃッ」 「いや、それは……まったくその……」 「なんじゃッ」 「まったくもって……いささか……さればすなわち……かるがゆえ……いずくんぞいわゆる……いかにせん……かつまた……よんどころなく……すべからく……」 「控えろッ……よってそのほう、役目たいせつと心得、とりちがえたるものならば、上《かみ》においても咎めはないと申しておる。いま一応とくとあらため、犬であるか鹿であるか上《かみ》にむかって返答いたせ。どうじゃ……鹿か」 「はッ」 「犬かッ」 「……はッ」 「犬か鹿かッ」 「犬鹿(猪鹿《いのしか》)蝶かと……」 「控えろッ」 「恐れ入りまして……われら両名、粗忽のいたり、毛並みの似ましたる犬を鹿ととりちがえ、お訴えをいたしましたる段、なんとも恐れ入りましたること、なにとぞお許しを願わしゅう存じます」 「しからばこれは犬じゃと申すのか?」 「はッ」 「犬に相違ないな?」 「犬に相違ござりません」 「ふーん。よくあらためてみると、角の落ちたような……跡もある。これでも犬か?」 「……はッ」 「これ、よくうけたまわれ……鹿というものは、春、若葉を食す。それがために弱るものか角《つの》を落とす。それがため角の落ちたるあとを落とし角、ないし、鹿茸と申す。それでも犬か」 「はッ……それは腫物《しゆもつ》が並んで出ました跡かと心得ます」 「犬であればそのほうたちに用はない。願書は差し戻しつかわす……両名ともさがれッ」 「へッ……」 「一同のもの、犬を殺した者に咎はない。当調べはあいすんだ。一同立て……ああ、待て、与兵衛待て……そのほうの商売は豆腐屋じゃの」 「はい」 「……斬らず(雪花菜)にやるぞ」 「健在《まめ》(豆)で帰ります」 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 奈良が舞台になっているところに特異性がある。六代目三遊亭円生の得意のレパートリーだった。元来は大阪の真打噺で、サゲの方も「おかべ(お陰)でマメで帰ります」。おかべ[#「おかべ」に傍点]とは豆腐のことである。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   しわい屋  吝《けち》ん坊、吝《しわ》い……しみったれ、ケチ、赤螺屋《あかにしや》、吝嗇《りんしよく》、ガリガリ亡者、六日知らず……等々、いろいろ悪口があるが、この、六日知らず、というのは、日を勘定するとき、指を一日、二日、三日、四日、五日と数えてにぎったら、六日……と、いったんにぎったものを、はなすのはいやだ、そこで六日知らずという、世の中にはずいぶん吝《けち》な人がありまして……。 「小僧や」 「へえ」 「雨戸を修繕するんだから、お向こうへ行って、金槌《かなづち》を借りておいで」 「へーい……こんちは、すいませんが、金槌をお借りしたいんですが……」 「金槌を? なにを打つんだい、鉄《かね》の釘《くぎ》か、竹の釘か、どっちだ?」 「鉄《かね》の釘を打つんで……」 「それじゃお貸しできません。鉄《かね》と鉄《かね》とぶっつかれば、金槌がへっちゃうから……」 「ああ、そうですか……へい、行ってまいりました」 「どうした?」 「へえ、お向こうで、鉄《かね》の釘を打つのか、竹の釘を打つのかと聞きますから、鉄の釘を打つんだって言ったら、鉄と鉄とぶっつかれば、金槌がへっちまうから貸せないって……」 「ちぇッ、しみったれた野郎だあ。じゃあ、うちのを出して使おう」 「どうもありがとうございました。一時はこっちもひとなめになってしまうかとおもいましたが、いいぐあいに風向きが変わりまして、こちらだけはまったく難をのがれました。どうぞまあ一服なすって……小僧や、火がないよ。なーに、起こすことはないよ。おまえも気がきかないな。向こうがあんなに焼けたんだ、十能を持って行っておき[#「おき」に傍点]を一杯もらってきな」 「へえ、承知しました……えー、お向かいの旦那さん、すみませんがおき[#「おき」に傍点]を一杯ください」 「なにを言ってやがるんだい、てめえの側は残ったが、おれのほうの側は焼けちまったんだ」 「お骨折りさま」 「なにを言ってやがる。骨を折って焼くやつがあるかい、おき[#「おき」に傍点]なんか一片もやれねえよ」 「やらないと言ったって、これをこのままうっちゃっておけば、みんな灰になってしまうでしょう」 「なにを言うんでえ。みんな灰になったって、やることはできねえ、持っていきやがったら、むこう脛《ずね》をぶっ払うから……」 「そんなに怒らなくてもいいじゃありませんか、もらいませんよ……へえ、旦那、行ってまいりました」 「なんだ? どうして火をもらって来ないんだ」 「へえ、お向かいの旦那の言うには、てめえの側は残って、おれのほうの側だけ焼けたんだからやることはできねえというんで……」 「えー、なんてケチな野郎だ。もらうな、もらうな。見てやがれ。こんどこっちが焼けたって火の粉もやるもんか」 「えー、あなたの持っている扇子《せんす》は、どのくらいお使いになりますか?」 「この扇子は十年は使います」 「ほー、十年……で、どんなぐあいに?」 「半分開きまして、最初五年使います」 「ははあ」 「それがだめになったら、残りの半分を開いて、これを五年使います。都合、十年」 「ふーん、しかし、どうも扇子の半開《はんびら》きというのはおもしろくないね、あたしなら威勢よく全部開いちゃう」 「へえ」 「みんな開いて、扇子を動かすと、扇子のいたみがはやいから、自分で首のほうを振る」  たいそうケチな人が鰻《うなぎ》屋の隣に引っ越した、こういう人はケチですから、ご飯のお菜《かず》を買いません。食事どきになると、隣で焼く鰻の匂いをお菜にご飯を食べるという徹底したケチでして、すると、ある日、隣の鰻屋がやって来た。 「ええ、ごめんください」 「だれだい?」 「ええ、隣の鰻屋で……」 「隣の鰻屋? なんの用だい?」 「ええ、お勘定をいただきにまいりました」 「なに? 鰻の勘定? おい、おかしなことを言うなよ。おれんとこじゃあ鰻なんか食ったおぼえはねえぞ」 「いいえ、めしあがった代金ではございません。鰻の匂いのかぎ賃[#「かぎ賃」に傍点]をいただきに……」 「ええっ? かぎ賃[#「かぎ賃」に傍点]ッ……うーん、やりゃあがったな。……うん、よし、よし。いま払ってやるから待ってろよ」  と、懐中から金を出して、ちゃぶ台の上へチャリン、 「さあ、かぎ賃だから、音だけ聞いて帰れ」 「おい、向こうからしわい屋の吝兵衛《けちべえ》さんが来るよ。たいへんな野郎だ、あいつは。他人《ひと》の顔を見ると『こんにちは』って言わないよ、いきなり『なんかください』って言いやがる」 「うん、だからあたしはあいつにやろうとおもって、いま持ってるものがある」 「よせよ。あんな野郎にやるくらいなら、掃溜《はきだめ》へ捨てちゃうほうがましだ」 「まあまあ、そう言うな。じつは、いまおならの出そうなのを、ぐっと我慢してるんだ。これをやろうとおもってな……吝兵衛さん」 「おっ、なんかくださいますか?」 「おまえさんにあげようとおもって持ってるもンがあるんだがね」 「それは、ありがとうございます」 「だが少し持って行きにくいよ」 「ええ、なんでも結構ですよ。品物は?」 「屁《へ》だよ」 「え? へ?」 「おならだけど、どうだい?」 「おなら、結構……どうぞ、へい、おやりください」  股間に両手をまるめておさえ、つかまえると吝兵衛さん、一目散に飛んでって、自分の家の裏の菜畑へ行って、両手をあけ、 「ただの風よりましだろう」 「久しぶりだね、どうしてたね」 「いや、別に患ってたってわけじゃないんです、あたしゃこのごろ表へ出ません」 「どうして?」 「下駄が減りますから」 「ほほう、えらいな、いい心がけだ」 「なんです。頭の上に吊してある石は?」 「いや、涼んでいるんだ、きょうは蒸《む》すんでな」 「へーえっ」 「こうしていると、冷や汗が出るんでな、扇子もいらないよ」 「あぶないですね。さすがは吝兵衛さん」 「金を残したければ人と同じことをしていてはだめだ。ところで、あなたはどんなお菜《かず》でご飯を食べますか?」 「あたくしは、梅ぼしをやっています」 「梅ぼしを? どんなふうにして?」 「日に一つ」 「日に一つ?」 「まず朝めしのときに半分、いただきます」 「ふん、ふん」 「お昼に残りの半分をいただきます」 「それでは晩のお菜《かず》がなくなるだろう」 「いえ、晩には種をしゃぶって、それだけでは足りませんから、なかを割って中味もみんないただきます……どうです?」 「いや、それはぜいたくだ。梅ぼしが日に一つ、というのはおだやかでないよ。一年には三百六十五粒だ。少し食いすぎるな。おなじ梅ぼしをお菜にするにしても、もっといい方法がある」 「へえ、どんなふうに?」 「ご飯をよそったら、梅ぼしを食べずにじっとにらむ」 「梅ぼしをにらむ?」 「ああ、にらむ……けっして口にしてはいけない。そうすれば、相手が梅ぼしだ。だんだん口のなかがすっぱくなってくるだろう。そのすっぱい水がたまったところで、ご飯を食べてしまう。梅ぼしは少しも減らない、どうだ」 「恐れ入りました。なるほど、あなたにはかなわないな……ところで、お金を貯める極意はありませんかねえ」 「あるよ」 「それをわたしに教えてくれませんか?」 「うん、おまえだけは見どころがある。金を貯める極意を教えてやろう……じゃ、こっちへ、いっしょにおいで……さあ、この梯子《はしご》で松の木へ登って、枝に両手を伸ばして、枝をつかんだら、ぶら下がるんだ。やってごらん」 「へい、……」 「よし、じゃあ梯子を取るよ」 「ああ、梯子を取っちゃあぶないッ」 「お金を貯める極意だ、命がけで覚えなくてはいかん」 「へい」 「じゃ、まず左の手を放してごらん」 「へい、ははは……放しました」 「次に、右の手の小指を放せ」 「右の手の小指、……放しました」 「次は薬指を、放すんだ」 「薬指……放しました」 「中指を放せ」 「中指……はは、放しました」 「人差し指を放せ」 「人差し指……冗談言っちゃあいけねえ、これ、放しゃあ落っこっちゃいますよ」 「だからさ、わかったかい。どんなことがあってもこれだけは(人差し指と拇指《おやゆび》で丸の形を示し)放しちゃあいけない」 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 語句、間《ま》の巧緻《こうち》な組み立て、配慮など、選《え》りすぐられ、仕上げられた落語の景物の一つである。それだけに話芸の巧拙が、噺の〈味〉を左右する。噺家修業の基本になるのが、これらの小噺だと言われている。落語のほうでは、泥棒、聾、吝《けち》ん坊、を三ぼう[#「ぼう」に傍点]と言い、お笑いの材料にする。この三ぼうだけは高座で悪口を言っても、泥棒は名乗り出てこないし、後の二者は寄席にこないから。(本篇のように読む場合は、聾は当てはまらないが、実際に、聾の悪口を言った噺はない。)この話は、吝嗇《りんしよく》、ケチという人間の性行を摘出して、人のこころをくすぐるが、その笑いの底にあるのは、機智、着想の奇抜さ、批評精神である。「味噌蔵」「位牌屋《いはいや》」「片棒」など吝嗇を題材にした噺は多いが、この小噺集がそれぞれのマクラに挿入される。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   百川《ももかわ》  江戸っ子は、祭りとなると気ちがいのようなさわぎで、女房を質に置いても祭りを派手にしようとたいへんに気負った。その、祭りには、かならず四神剣《しじんけん》というものが出た。青竜《せいりゆう》、白虎《びやつこ》、朱雀《しゆじやく》、玄武《げんぶ》……東西南北の神さまを祀《まつ》り、その四神旗《しじんき》に剣がついている。それを俗に四神剣と呼んでいる。これを祭りのたびに、ひとつの町内で預かり、つぎの年は、隣の町内、その翌年は、その隣町というように、順にまわした。その祭りの寄り合いなぞには、日本橋浮世小路にあった百川という会席料理屋がよくつかわれた……、そのころの話——。 「はいごめんくだせえ。わし、はあ、葭町《よしちよう》の千束屋《ちづかや》からめえりました」 「ああそうか、たのんでおいためし炊きは、おまえさんかい?」 「へえ」 「そりゃあご苦労さま……一人で来たのか? さあさ、こっちへお入り……いままでどこに奉公していたんだ。ふーん、こんどがはじめてか? いやそのほうがいい、わたしのほうでも奉公ずれのしちゃったものは、まことに使いにくいから……で、おまえさんの名前はなんといいなさる?」 「わしゃはあ、百兵衛《ひやくべえ》っていいやす」 「百兵衛? いやあ、うちが百の川と書いて百川というんだ。そこへ百兵衛さんが来るとはおもしろいな、よほど縁があるんだ。まあまあ、辛抱しておくれ。めし炊きということだが、洗い方の手伝い、慣れてくると、岡持《おかもち》を持って近所へ出前に行くのが、おまえの仕事だ……まあ、今日はなんにもしなくてもいい。二、三日は目見得《めみえ》だから、うちの様子を見たほうがいいから、ま、そこへ座っておいで……へえーい、二階で、お手が鳴るよ。竹や、お花、おみつ、おい、女中たちはどうしたんだ、いないのか? なに? 髪結いさんが来た? いくら髪結いさんが来たって、みんないっぺんに髪をほどいちまってどうするんだ? 今日は、お客さまがもうお見えになってるんじゃあないか。二階で、あの通りお手が鳴るんだ。……へえへえ、だれかほかにいないのか? 困ったなどうも……あ、おまえさん、なんてんだ、百兵衛さんか、すまないが、あたしが行くってえわけにはいかないし、おまえさん羽織を着ているからちょうどいい、二階へ魚河岸《かし》のお客さまが来ていらっしゃるんだ。ちょっと行って、ご用をうかがってきておくれ……」 「ひぇー、かしこまりやした」  二階から、ぽんぽんとまた手が鳴る。 「ひぇーっ」 「なにをしてやがんだなあ、じれってえなどうも……へえへえへえへえ、返事ばっかりしやがって、ちっとも上がってきやがらね、冗談じゃねえやっ」 「う……ひぇっ」 「おどかすないッ、だれだ? そんな頓狂な声を出すなあ」 「おれはなんとも言いやしねえよ」 「おめえじゃあねえのか?……はて、あっ、そこにいるのは、だれだっ?」 「ひぇーっ」 「おめえか? ぴいッたなあ」 「ひぇー」 「まだやってやがら、なんだい?」 「へえ、わし、はあ、この主人家《しじんけ》の抱《かけ》え人《にん》でごぜえまして、主人家の申されるには、ご用があるで、ちょっくらはあ、うかがってこいちゅうで、めえったようなわけがらでがしてな、ひぇっ」 「うふっ……おいおい、ちょっと代わりあってみてくれ。この方は、すがたは人間だが、言うことがちっともわからねえや、いちばんよくわかるのが、しまいの、ぴいッ」 「ばかっ、てめえぐれえの世の中に場知らずはねえや。どういうご用でお見えなすったかわからねえじゃあねえか。失礼なことを言うない。人間どうしが話をして、わからねえ理屈があるもんか」 「だって、おめえ、わからねえものはしょうがねえ」 「わからねえこたあねえてんだよ。そっちへひっこんでろ。ものの掛け合いてえものはむずかしいもんだ。よくみておけ……へへへへ、どうも……ただいまはとんだ失礼を申しあげまして……ええ、どちらさまでござんすか? ま、このとおり大勢|雁首《がんくび》をそろえちゃおりますが、どれ一匹として満足に口のきけるやつはござんせんので、花会、参会、仲直り、魚河岸《かし》にことのあったとき、口のひとつもきこうというなあ、まあ、あたしぐれえのもんでござんすので、あなたさまが、どういうご用むきでおいでになったのか、もう一度その……お物語りを願いたいんでござんすが……」 「そうだにあらたまったこんではごぜえましねえで……わし、はあ、この主人家の抱え人でごぜえまして……主人家の申されるには、ご用があるで、ちょっくらうかがってこうちゅうで、めえったようなわけがらでごぜえます。どうぞまあ、ご一統さまご相談の上、お返事をうかげえやして、まかり帰りてえと存じやしてなあ、ひぇー」 「えへん……なるほど、それはまあ、おっしゃるところも、重々、ごもっともではござんすが……」 「どうしたんだい、兄い、なにをあやまってるんだ?」 「だからよ、いまこのお方がおいでになったんだ」 「なにを言ってんだよ?」 「だまってろよ……ええー、ただいまのお言葉の中《ちゆう》でござんしたか……なにか四神剣《しじんけん》のことについて、お掛け合いというようなことでござんすが……」 「はあ、そうでがす。わし、はあ、この主人家の抱え人でごぜえます」 「へえっ、あ、そうですか、そりゃあどうも、とんだ……おいおい、布団だ、布団だよ、まごまごしてやがる、布団を出すんだ、てめえの敷いているほうを出すやつがあるかい、布団てえものは、ひっくり返して出すんだな、気のきかねえ野郎だ……まあまあ、どうぞ、お乗りんなすって……そうでしたか、あなたさまのほうからわざわざ、足を運んでいただきまして、まことに申しわけがござんせん。いま、あのことで、みんながこう寄っておりますんで……すぐにこうという、ご挨拶はできませんが、あとから四、五人、人もまいりますんで、ま、そいつらとも相談の上、のちほどご挨拶はいたすつもりでござんすから……あっしゃあ、魚河岸《かし》の若《わけ》え者《もん》で、初五郎と申します。あっしが、こうやって口をきくからにゃあ、けっしてお顔は、万々《ばんばん》つぶさねえつもりでござんすから、それだけはご安心を願いたいんでござんす」 「はあ、あんでがすか。まあ、こうだにつまんねえ顔だけんども、顔なんか、どうかつぶさねえように願《ねげ》えてえもんで……」 「や、どうも恐れ入りましてござんす……そうおっしゃられちゃあ、痛み入ります。まあ、けっしてお顔をつぶすようなことはいたしませんで……ええ、せっかくおいで願って、おかまいもできませんが、いかがで、持ちあわせで、ひとつ召しあがっていただきてえんで……」 「いや、どうぞもうおかまいくだせえませんで、ご酒《しゆ》はいっこうたべませんで……」 「さいですか? お嫌《きら》いで、ちょっと口をつけていただきてえんですが……じゃあ、酒はだめだとおっしゃるから、甘味はねえかい? ああ、下戸のものも、こういうときにゃあ役に立つ。おめえの前に金団《きんとん》があるじゃあねえか。それをあげな。そのまんまじゃあ手がついちまってるから、小皿へ分けるんだ、きれいなところを……小皿を先にとって、金団をあとではさむんだよ。金団をとって小皿をさがすから、餡《あん》がぼたぼた落ちらあな、することがまぬけだなあこいつァ。とったあとを箸をなめるなよ。汚《きたね》えなあ。なめるんなら横になめなよ。縦になめやがって、咽喉仏《のどぼとけ》突っついて、涙ぐんでやがらあ、ばかだなあ……ひとつかふたっつありゃあいいんだ。早くしろい、じれってえ野郎だ……ええ、こんなとり散らかしたなかでおかまいもできませんで、仇《かたき》のうちへきても口を濡《ぬ》らさずに帰《けえ》るもんじゃあねえという、ま、お口よごしですが、おひとついかがでござんす?」 「いやあ、こりゃあまあごっつぉうさんで、これはあんでがすか?」 「ええ、さようでござんす、餡《あん》でござんす」 「いや、そうではねえ、これはあんちゅうもんかね?」 「あんちゅう? うぷっ……けっして召しあがってお毒になるもんじゃござんせんで、慈姑《くわい》の金団でござんすから」 「これが慈姑でがすか……うーん、野郎、化けたな……この野郎」 「へへへ、どうもその、化けるのなんのとおっしゃられちゃあきまりが悪いんでがすが、おっしゃりてえことはそりゃ、重々ござんしょうが、今日のところはなんにもおっしゃらねえで、あなたの胸三寸にたたんでいただいて、ご無理でもいかがでござんす。まあまあおひとつ、この具合いをぐっと呑みこんで、お帰りを願いたいもんですが……」 「はあ、この慈姑を呑みこむかね? まっと……ちいちゃっければ、呑みこめねえこともなかんべえが、こんだにへえ、大《え》けえでは、呑みこめるかどうかわかんねえで……」 「あなたにいけねえとおっしゃられちゃあ、立つ瀬がござんせんので、男と見こんでお願い申しますんでがすから、なんとかひとつ、ぐっと、呑みこんでいただきてえんでがすがなあ」 「はあ、じゃあ、ようがす。呑みこむには呑みこむが……これがまた大《え》けえもんだねえ。そんじゃ、やっちゃあみますが…………うっ、うっ……」 「あれっ、金団を呑みこんで苦しがってる。あなた、しっかりなさい」 「とほほほ……ようようのこんで、呑みこんだでがす」 「どうも恐れ入りました。お呑みこみになったら、お引き取りを願いまして、いずれ改めてご挨拶に出ますのでござんすが……お帰りになりましたら、どうか、みなさんによろしくおっしゃってくださいまし。へえ、ごめんなすっとくんなさい」 「ぷッ、なんだい、兄い、あいつは……あははは」 「ばかっ、大きな声で笑うない。まだそこにいるじゃあねえか」 「だって、まぬけじゃあねえか。あんな大きな慈姑の金団を、丸呑みにしたやつははじめて見たよ……くッくッくッ」 「なにを言ってやがる。こっちだって、お初会《しよかい》でおどろくじゃあねえか」 「兄い、いってえなんだい、あれは?」 「だから、てめえたちは素人だてんだ。考《かん》げえてみろ、いいか、あの人なんかは、掛け合いごとはなれてるんだ。ああ、掛け合いごとは、ぜひああいきてえ」 「掛け合いごと?」 「おい、白ばっくれたことを言うない。去年の祭りをあんまり派手にやりすぎちまったんであとで勘定がおっつかねえ、二度も三度も町内をほっつき歩くわけにもいかねえ、『どうしよう?』『四神剣をまげちまおう』っててめえが言って『そんなことをしたら、あとが厄介じゃあねえか」ったら、『一年はあきもんだからなんとかならあな』ってんで四神剣を融通しようってんで、伊勢屋へまげて[#「まげて」に傍点]なんとか格好をつけたんだろう」 「ああそうだった。ちげえねえや」 「なにを言ってやんでえ。今年になって、祭りが近づいても、なんとも言ってやらねえからおれたちが寄り合ってるのを知って、隣町からあいつが催促に来たんじゃあねえか」 「えっ、そうなのかい?」 「あれっ、てめえ、いまなにを聞いていたんだ? 気がつかなかったか? 『あたくしは四神剣の掛け合い人でございます。四神剣のことについてうかがったが、ご一統さま、ご相談の上、ご挨拶をうかがって、まかり帰りてえ』って、言ってたじゃねえか」 「そんなことを言ったかい? 辰っあん」 「ああ、言った、おれも四神剣てえことを聞いたときは、おいでなすったとおもって、どきッとしたよ」 「だっておかしいじゃあねえか。掛け合いにくるんなら、もう少し話のわかる、筋の立ったやつが来そうなもんだ。あんな慈姑の金団を呑みこんで、目を白黒させるようなやつをよこすこたああるめえ?」 「それがてめえがばかなんだよ。なまじっか、小生意気なやつがきて、変な口のきき方をすりゃ、こっちは気の荒えやつが揃ってんだから、まちげえになっちゃあいけねえってんで、わざと、どじごしれえ[#「どじごしれえ」に傍点]で、とぼけてきたんだよ。早く言やあ、芝居《しべえ》をしてるんだ。あれで、浅黄の頭巾を脱ぎゃあ、なんの某《なにがし》という、立派な名のある親分とか兄いとかいわれるやつだ」 「いま来たのがかい?」 「そうだよ」 「だって、どう見たって、そんな風に見えねえじゃあねえか」 「そこが役者がいいんだなあ」 「ほーお? そんなことがわかるかい?」 「それが証拠に、あいつにおれが、むこう脛《ずね》を蹴られてるじゃあねえか。『あっしゃあ、魚河岸の若え者で、初五郎と申します。あっしが、こうやって口をきくからにゃあ、けっしてお顔のつぶれるようなこたあいたしません。それだけはご安心を願いたいんでござんす』と、おれが啖呵を切ったときに、あの野郎の言ったせりふがすげえじゃねえか。『こんなつまらねえ顔だが、顔だけは、どうかつぶさねえように願《ねげ》えてえ』と、野郎に一本釘を刺されたときゃァ、おらあぞーとしたぜ」 「そうかい? うーん、それにしたって、掛け合いに来たやつがなんだって慈姑の金団を呑みこまなくったってよさそうなもんじゃあねえか」 「そこだよ。こっちの持ってきようがうめえんだ。あなたのほうでおっしゃりてえ文句はござんしょうが、今日のところはなんにも言わねえで、どうぞこの具合い[#「具合い」に傍点]をてえのを、慈姑[#「慈姑」に傍点]へ引っかけて、お呑みこみのうえ、お引き取りを願いますと言ったから、向こうも苦労人だ。四神剣のことについちゃあ、これっぱかりもいやなこたあ言わねえで、わかった、てめえたちの懐中《ふところ》つごうが悪《わり》いなら、おれが万事ひきうけた。呑みこんだてえのを見せるために、金団を呑みこんで、目を白黒させて、みんなを笑わして、帰ったとこなんざあ、芸が枯れたもんだ」 「なんだ、そうかい? 枯れてるかなあ? なんだか、おめえひとりで感心しているが、ほんとうにそうかい?」 「ああ、そうだとも」 「そんなら、女中かなにかついてくるがいいじゃあねえか」 「だからこのうちがまぬけだよ、『ただいまこういうお客さまが、お見えになりました』と、ちょいと通しゃあいいんだなあ……それにしても、ここの女は、また、なにをしてやがるんだろう? 言うだけのことを言ってやらあ。おいッ……おいッ、おもしろくもねえ」  ……と、また手をたたく。 「どうしたんだ? 百兵衛さん、二階から降りてきて、柱へよっかかって、涙ぐんでちゃあしょうがないな。二階のご用はどうしたい?」 「呑みこんだでがす」 「おまえがひとりで呑みこんでちゃあいけないよ。あたしにも呑みこませてくれなけりゃあ困る」 「そりゃあだめだ。おらあ、もう呑みこんだで……」 「……なんのことだい?」 「大《え》けえ慈姑突ンだして、おらに呑みこめっちゅうでがす」 「えっ、慈姑を?……で、お断わりしたのかい?」 「断わるべえとおもったけンども、客人の機嫌そこねては悪かンべえとおもって、呑みこむには呑みこんだが、咽喉《のど》のめどっこ[#「めどっこ」に傍点]痛くって、てッこ[#「てッこ」に傍点]に負えねえ」 「ふふウ、そりゃおからかいになったんだ。お若いお客さまだから、いたずらをなすったんだ。まあいい、そういうところを勤めておけば、とんだひょうきんでおもしろいやつだてんで、おまえがまたご贔屓《ひいき》になれるから……へーい。おい、また、お手が鳴ってるよ。もういっぺん二階へ行っておくれ」 「あり、まためえりますかな、こんだ、なにを呑みこむ……」 「大丈夫だよ。そうたびたび呑みこませやしないよ」 「慈姑ぐれえなら呑みこめるが、こんな大《え》けえどんぶり鉢でも呑みこめって言ったら……」 「そんなことを言うもんか。早く行っておいで」 「あーあ、ここなうちは、長く奉公ぶてねえぞ。いのちがけだあ」 「こんなに手を鳴らしてんのに、なにしてやがるんだ。おいっ」 「うひぇーっ」 「また来たよ、おい」 「なんかお忘れもんでもござんすか」 「忘れものではねえでがすが、まことにすまえねが、どうかまあ、からかわねえで、ご用をおっしゃっていただきとうがす」 「からかわねえでご用を?……兄い少しちがうぜ」 「あなたは隣町の方でございましょう?」 「おらあ、このうちのめし炊きで、百兵衛ちゅうでがして、ひぇー」 「だって四神剣のことで来たんじゃねえか?」 「主人《しゆじん》の件《けん》でこれへ出やした」 「あははは、なんだ、おめえ、奉公人か? ここのうちの……けっ、ちがってらい、こん畜生……おい、聞いたか? 四神剣じゃあねえや。だれだい? 掛け合い人だなんて言ったなあ」 「あははは、ちがったか?……おれもそうとはおもったが……」 「なにを言ってやがる、しゃあしゃあしてやがら、どうも……じゃ、女中を呼んでもらいたいんだが……なに? みんな髪結いが来て髪を結ってる。それでおまえが出たのかい。それじゃ、……おめえでもいいから、ちょっと使いに行ってくんな」 「どけえめえりやすか?」 「じつは、いま、三味線《いと》がほしいというんだが、芸者でもあるめえから、長谷川町《はせがわちよう》の三光新道《さんこうしんみち》に、常磐津《ときわず》の歌女文字《かめもじ》ってえ師匠がいるから、そいつを呼んできてくれ、頼むよ」 「あんだって、ねえ……?」 「じれってえ野郎だなあ、この畜生ァ。長谷川町の三光新道に常磐津の歌女文字てえのがいるから、そいつを呼んでこいってんだ、早く行ってこい」 「……長谷川町の、三光新道に、常磐津の、か、か、かめ、歌女文字てえ、先生呼ばるかね?」 「あれっ、先生だってやがらあ。常磐津の師匠だよ。いいか? か、め、も、じだぜ。向こうへ行って忘れたらなあ、長谷川町で、かの字のつく名高え人と言やあ、すぐにわかるから……そこへ行って、魚河岸の若え者が今朝《けさ》っから四、五人来ているから、師匠にすぐ来るようにと、こう言ってなあ。で、向こうで三味線箱《はこ》を渡すから、そいつを先へ背負《しよ》って帰ってこい、いいか? 早く行け」 「へ、行ってめえります」  これから、百兵衛さん、表へ出ましたが、あっちで道を聞き、こっちで道を聞きしているうちに、名前をすっかり忘れてしまった。 「ええ、ちょっくら、うかげえやすが」 「なんだ?」 「長谷川町の三光新道……」 「ここだよ」 「ここに、なにはいますべえか、名高え先生が?」 「なんてんだ?」 「それを忘れたが、おもいだしてくんろ」 「無理なことを言うじゃあねえか。おめえの忘れたことをおれにおもいだせるもんか。落ち着いておもいだしてみねえ」 「ええ……うーん……か、か、かあ……」 「烏だな、まるで、なんだ、かあてえのは?」 「かの字のつく名高え人だっちィば、すぐわかるっちゃした」 「か[#「か」に傍点]の字のつく名高え人?……待てよ、おい、金ちゃん、このへんで、か[#「か」に傍点]の字のつく名高え人を知らねえか?」 「そうさな……あっ、鴨池《かもじ》さんじゃあねえかい?」 「あっ、そうか、おい、おめえのたずねてるのは、鴨池といやあしねえか?」 「鴨池?……あっ、そうでがす、鴨池でがす」 「そんなら、鴨池|道哲《どうてつ》てえお医者さまだ。向こう側の横町を入《へえ》って、三軒目の立派な門構えの家がそうだ」 「どうもありがとうごぜえます……ええ、ちょっくらお頼み申します」 「どーれ、……はい、いずれからおいでかな?」 「はい、わしァ、浮世小路の百川からめえりました。魚河岸の若え者が、今朝がけに[#「今朝がけに」に傍点]四、五人きられ[#「きられ」に傍点]やして、先生にすぐおいでを願いてえちゅうんでがす」 「なに? 魚河岸の若い者が、袈裟《けさ》がけに四、五人斬られておる? うん、ちょっと、お待ち……先生、申しあげます。ただいま浮世小路の百川からの使いの者が参りまして、魚河岸の若い者が、四、五人袈裟がけに斬られまして、先生、急いでおいでいただきたいと申しております」 「しょうがない、また喧嘩だろう。魚河岸の連中は威勢がいいから困ったもんだ。よろしい、じゃすぐ見舞うが、使いが参っておる? それになあ薬籠《やくろう》を持たして、先へ帰しなさい。それから、手おくれになるといかんから、焼酎《しようちゆう》を一升、白布《さらし》を五、六反、鶏卵を二十ほど用意しておくようにな」 「かしこまりました……ああ、先生は、ただいま、丸の内のお屋敷へお出かけになるところだが、さっそくお見舞いすると、そう言ってください」 「そうでごぜえますか。それから、箱を……」 「うん、これだ。それから、うちへ帰ったら、先生がおいでになるまでに、手おくれになるといかんから、焼酎を一升、白布を五、六反、鶏卵……たまごを二十ほど用意しておくように……急いで帰りなさい」 「はい、かしこまりました」 「おうおう、帰ってきやがったな。どうした、わかったか?」 「へえ」 「来ると言ってたか?」 「へえ、先生、さっそくお見舞《みめ》え申すってやした、ひぇっー」 「粋な師匠だな、あの椋鳥《むくどり》が飛びこんでったから、……お見舞いはおもしろいな、……おい、箱はどうした?」 「へえ、持ってめえりやした。これでごぜえやす」 「おい、ちょっと見な、なんだか薬籠みてえだな」 「えーおい、師匠は粋だな、三味線は三つ折りだ、真田の紐で結んだなあ、凝ってるぜ」 「そんで、手おくれになるといかねえで、焼酎を一升、白布を五、六反と、たまごを二十ほど用意しておけと言って……」 「え? おかしいなあ……なんだい? 焼酎を一升てえのは?」 「あの師匠はたいへん酒が強いんだ、夏場は焼酎の冷たいのがいいもんだ」 「ふーん……白布はどうするんだい?」 「しっかり語ろうてんだ。その白布を腹へ巻こうてんだ」 「じゃあ、たまごは?」 「常磐津を語るにゃあ、咽喉が大事だ、生たまごを呑むんだ」 「しかし、常磐津が手おくれになるといけねえってのは聞いたことがねえなあ」 「はい、ごめんよ」 「おやっ、鴨池先生、よくおいでなさいました……この前の勘定もまだあれっきりで……今日は、また、なにかご用で?」 「なにをのんきなことを言っているんだ。怪我人はどこにおる?」 「へえ?……先生、なにかおまちがいじゃあございませんか?」 「いや、魚河岸の若い者が、袈裟がけに四、五人斬られているそうではないか」 「え?……そりゃあ、お門ちがいで……」 「門ちがいではない。わしの薬籠がそこにきている」 「えっ、こりゃ先生の薬籠ですかい? しょうがねえなあ、先生のところへ飛びこみやがったんだ、あの野郎……どうもお忙しいところを、とんだご迷惑で、いえ、少し祭りのことで相談がありまして、まあ、ここへ集まったんですがね。お宅の裏にいる、常磐津の歌女文字を呼びにやったんですよ。まちげえるにことを欠いて、鴨池先生を呼んできやがった……あっ、そこに突っ立っているその男なんで……やいっ、そんなところへ突っ立ってねえで、こっちへ入《へい》れ」 「あんた方ァ、先生ござったで、うれしかんべえ」 「なに言ってやんでえ。このばかっ、鴨池先生と歌女文字とまちがやがって、この抜け作っ」 「あんだね?」 「抜け作めっ」 「おらあ、抜け作でねえ、百兵衛ちゅうだ」 「てめえの名前を聞いてるんじゃあねえやいっ、抜けてるってんだい」 「抜けてる? どれくれえ?」 「どれくれえも、これくれえもあるもんか。それだけ抜けてりゃあたくさんだ」 「それだけって……か、め、も、じ。か、も、じ……たった一字だけだ」 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 日本橋浮世小路の「百川」は、天明年間より実在した著名な懐石料理屋。浮世小路は日本橋三越の前通り、鰹節問屋の「にんべん」の角を入った所。長谷川町三光新道は日本橋堀留二丁目。当時、鴨池|玄林《げんりん》という外科の先生が実在した(『円生全集』対談)という。魚河岸も以前は日本橋にあった。とすれば、噺の内容からも実話がもとになっている、と考えられる。江戸っ子の早呑みこみの、あわて者の気質が横溢した、まったく落語のように「よく出来た話」だった……にちがいない。  冒頭に出てくる葭町《よしちよう》の千束屋は口入屋のことで、今日の職業紹介所。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   青菜《あおな》 「植木屋さん、たいそうご精が出るねえ」 「えっ、こりゃあ、どうも、旦那ですか。いえね、そう言っていただくとありがてんで……これが、植木屋をめったにお呼びにならねえお宅へまいりますと、植木屋は、しょっちゅう煙草ばかり吸っていて、なんにも仕事をしねえなんて言われますけど、こうやって煙草を吸っておりましてもね、べつにぼんやりしてるわけじゃあねえんで……あの赤松は、池のそばへ移したほうがいいんじゃねえかとか、あの枝は少し短くつめたほうがいいんじゃねえかとか、庭をながめながら考えておりますんで……」 「そりゃあそうだろう。人間は、むやみやたらに動きまわってればいいってもんじゃあない。植木屋さん、どうだな、こっちへきて休みませんか?」 「へえ、ありがとうございます」 「さきほど、おまえさんが水を撒《ま》いてくだすったおかげで、青いものを通してくる風が、ひときわ気持ちがよくなったよ」 「へえ、さようでござんすか。まあ、こちらのお屋敷なんぞは、どこを見ても、青いもんばかりだが、あっしなんざあ、こんな商売をしておりましても、うちへ帰ったら、青いものなんざあ、見るかげもねえんですから……なにしろ、あっしのうちときたら、長屋のいちばん奥だもんですから、風が入《へえ》ってくるったって、あっちの羽目《はめ》へぶつかり、こっちのトタンにぶつかって、すっかりなまあったかくなってからうちへ入《へえ》ってくるんですからね、なんのこたあねえ、化け猫でも出そうな風なんで……」 「化け猫の出そうな風とはおもしろいことを言うな……そうだ、植木屋さん、あなた、ご酒《しゆ》をおあがりかな?」 「ご酒? ああ、酒ですか。酒ならもうなにより……」 「ほう、よほどお好きだな。じゃあ、これから、あなたに、ご酒をごちそうしましょう」 「ありがとうございます。では、台所のほうへまわりまして……」 「いやいや、いま、ここへとりよせるでな、まあ、そこへおかけなさい」 「え? ここへ? そいつぁいけませんや。こんな泥だらけの半纏《はんてん》で、腰なんかかけりゃあ、ご縁先が汚れまさあ」 「まあ、遠慮せずにおかけなさい、なーに、汚れたら、あとでふけばいいんだから……おい、奥や、植木屋さんにな、ご酒を持ってきてあげてください。そうだな、せんだってのやつがいいだろう……ああ、持ってきたら、そこへおいてっておくれ」 「へえ、どうも、奥さま、お手数をおかけいたします」 「さあ、植木屋さん、どうぞおあがり、これが大坂の知りあいからとどいた柳影《やなぎかげ》だ」 「へえ、ありがとうございます。へーえ、柳影ねえ、めずらしい酒でございますねえ」 「上方《かみがた》では、柳影というが、こちらでいえば、直しのことだ」 「へーえ、直しですか……では、さっそくいただきます……いやあ、よく冷えてますねえ」 「いや、さほど冷えてはおらんのだが、あなた、いままで、日なたで仕事をしておって、口のなかが熱くなっておるで、それで、冷えているように感じるのでしょうな」 「さいでござんすかねえ、しかし、おいしゅうございます。結構でござんすねえ」 「いや、あなたのように、うまい、うまいと言ってくださると、まことに気持ちがよい。それから、なにもないが、鯉《こい》のあらいをおあがり」 「へえ? どれが鯉のあらいで?」 「……ここにあるから、おあがり」 「えっ、この白いのが鯉のあらい? ああ、なるほど、鯉をあらって白くしちまうから、それであらいというんで?」 「いや、べつにあらって白くするわけじゃない。鯉の身は、もともと白いもんなんだ」 「へえ、鯉の身は白いんですか? あっしはね、鯉てえものは黒いもんだとおもってましたが、ありゃあ皮なんですねえ。あっしゃあ、この年になるまで、あらいなんぞ食ったことがなかったもんですから……へーえ、贅沢《ぜいたく》なもんなんですねえ。では、いただきます。うーん、こりゃあ、しこしこして、よく冷えていてうめえもんでござんすねえ」 「氷が入っておるでな」 「氷が? ああ、なるほど……この盛りあがってるのは、みんなあらいじゃあねえんですね。ああ、下のほうに、氷が入《へえ》ってました。こいつぁ、冷たそうだ。咽喉がかわいておりますからね、この氷をひとついただきます……ひょーっ、ひょーっ、いやあ、この氷は、よく冷えてますねえ」 「氷が冷えてるとは、おもしろいね……ときに、植木屋さん、あなた、菜《な》をおあがりかな?」 「菜? ああ、菜っ葉ですか? ええ、もう、大好物なんで……」 「じゃあ、さっそくご馳走しよう。ああ、奥や、植木屋さんに、菜を出してあげてください」 「旦那さま」 「なんだ?」 「鞍馬山《くらまやま》から牛若丸《うしわかまる》がいでまして、その名を九郎|判官《ほうがん》」 「では、義経《よしつね》にしておきなさい……いやあ、植木屋さん、男というものは、勝手のことがよくわからんでな、わしは、まだ菜があるとおもっていたら、食べてしまって、もうないんだそうだ。いや、まことに失礼したな」 「ええ、菜っ葉がなけりゃあ、よろしゅうござんすがね、奥に、いま、お客さまがお見えになったんじゃありませんか? 鞍馬さまとか、義経さまとか……」 「あはははは……べつに来客があったわけでないから、どうか気になさらんように……いや、あれは、来客の折、わしと家内とで使っている隠し言葉といおうか、洒落《しやれ》といおうか、まあ、そんなものだ。植木屋さんの前だから、種明かしをしてもいいが、いま奥の言ったのは、おまえさんに失礼のないように、『鞍馬山から牛若丸がいでまして、その名を九郎判官』……菜は食べてしまってないから、菜を食ろう、という洒落で、その名を九郎判官……わしが『よしとけ』と言うところを、『義経にしておけ』と、こう言ったのだ」 「へーえ、そうでござんすか……ふーん、こいつァ、恐れ入りました。なるほど……『鞍馬山から牛若丸がいでまして、その名を九郎判官』……食っちまってねえから、九郎判官。旦那が、よしとけてえのを、『義経にしておけ』……こりゃ、旦那さまと奥さまのつづきものの洒落ですね。こうやりゃあ、お屋敷のまずいことは、まるっきり、よその人にわかりませんねえ。なにごともこういきてえもんでござんすねえ。そこへいくてえと、うちのかかあなんぞ……いえ、まあ、うちのかかあと、こちらの奥さまといっしょにしちゃあ申しわけねえんですがね……うちのかかあときたら、黙ってりゃあわかんねえことを、大きな声でふれ歩くんですから、まったくあきれけえったもんで……そこへいくと、こちらさまの奥さまは、じつにどうも、てえしたもんだ……あっ、こりゃあいけねえ。旦那、柳影が義経になりました」 「ほう、そりゃ失礼したな。柳影は、それでもうないが、ほかの酒はいかがかな?」 「いえ、もう十分に頂戴いたしました。どうもごちそうさまで……これ以上いただきますと、もう、すっかり酔っぱらっちゃいますんで……どうもありがとうございました。また、あしたうかがいますから……ごめんください」 「いや、どうもご苦労さまでした」 「へえ、どうも……うーん、えれえもんだねえ。さすがにお屋敷の奥さまだ。言うことにそつがねえや。『鞍馬山から牛若丸がいでまして、その名を九郎判官』……旦那が、よしとけてえやつを、『義経にしておけ』なんて、てえしたもんだ。まったく女らしくていいや。そこへいくと、うちのかかあ、ありゃなんだい? あれでも女かよ。男じゃねえから、しょうがなくって女でいるんじゃあねえか。うーん。まったく、てえしたもんだ」 「おまえさん、なにをぶつぶつ言いながら歩いているんだよう。おまえさんが帰ってくるころだとおもうから、鰯《いわし》を焼いて待ってたんだよっ、鰯がさめちゃうよ、鰯がっ」 「あれっ、こん畜生、おれの面《つら》みりゃ、鰯だ、鰯だって……長屋じゅうに聞こえるよ、この野郎」 「なに言ってんだ。鰯じゃないものを鰯だって言ってるんじゃあないんだ。鰯のなにが悪いんだ。早く入って、食べちまいな」 「ああ、わかったよ、わかったよ。よせやい……おうおう、鰯を焼くんならなんでこう頭ごと焼くんだ。頭なんぞ食えねえじゃねえか」 「おまえさん、知らないのかい? 頭は栄養になるんだよ、まるごと食べたほうが。犬をごらんよ、丈夫なこと」 「あれっ、おれと犬といっしょにしてやがら、あきれたなあどうも……いや、そんなことよりも、今日は、おれ、感心しちまった」 「また、はじまった。おまえさんぐらい感心する人はないねえ。猫があくびをしたって感心して……今日は、なんに感心したんだい?」 「お屋敷でそりゃあ感心したんだ。おれがな、仕事の区切りがついたんで、お庭で一服やってたんだ。すると、旦那がお見えになって、柳影てえ酒をごちそうになった。さかなは、鯉のあらいてえやつだ。鯉のあらいなんぞ、おめえは知るめえ。ありゃあ、あらって白くするんじゃあねえぞ」 「なに言ってんだよ。鯉のあらいぐらい、あたしだって知ってるさ」 「へーえ、知ってたのか……で、旦那が、『植木屋さん、菜をおあがりかな?』とお聞きなすった。おれが、『大好物なんで』と答えると、旦那が、ぽんぽんと手をたたいて、『ああ、奥や』とお呼びになった。呼ばれて出てきた奥さまの行儀のいいこと……つぎの間に控えてな、旦那の前で、こんな具合いに両手をついて……おい、こっちを見ろよ。おめえに行儀を教えてやるから……こっちを見ろよ。旦那の前に、こんなぐあいに両手をついて……」 「そういう蛙《かえる》が出てくると、雨が降るよ」 「蛙の真似してんじゃねえや……なんてまあ、口のへらねえやつなんだ。言葉だって、そりゃあていねいなもんだぞ。『旦那さま、旦那さま』」 「右や左の旦那さま」 「ふざけるなっ、なぐるよ、こいつは……いいか。奥さまが、『鞍馬山から牛若丸がいでまして、その名を九郎判官』……旦那が、よしとけてえやつを、『義経にしておけ』……このわけが、おめえにわかるかよ」 「わかるさ、やけどのまじないだろ?」 「ちえっ、なんてことをぬかすんだ。情けねえなあ。らくらい[#「らくらい」に傍点]の折……」 「どこかに、雷《かみなり》さまが落ちたのかい?」 「雷なんか落ちるもんか。お客が来たんだよ」 「じゃあ、来客だろう?」 「そう、それよ。そのらいらい[#「らいらい」に傍点]の折、『おまえさんに失礼のないように、鞍馬山から牛若丸がいでまして、その名を九郎判官』……菜を食っちまってねえから、九郎判官だ。旦那が、『よしとけ』てえのを、洒落《しやれ》て、『義経にしておけ』と、こうおっしゃったんだ。こういう結構なことは、てめえに言えめえ」 「言えるよ、それくらいは……」 「言えるなら、言ってみろ」 「鯉のあらいを買ってごらんよ」 「あれっ、畜生め、人の急所をついてきやがる……おっ、向こうから熊の野郎が来た。あいつに一杯《いつぺえ》飲ましてやってくれ。いまの、鞍馬山をやるんだから……」 「およしよ。酒なんか飲ますこたあないよ」 「けちけちすんねえ。いいか、やるんだぞ。鞍馬山から牛若丸がいでましてだぞ。そのときになって、言わねえでみやがれ、おっぺしょって鼻かんじまうぞ。さあ、お屋敷の奥さまみてえに、つぎの間にさがってろ……あっそうか。つぎの間なんかなかったっけ、一間きりなんだからなあ……じゃあ、しかたがねえから、この押し入れに入《へえ》ってろ」 「冗談じゃあないよ。この暑いのに……」 「ぐずぐず言わねえで、おとなしく入《へえ》ってろい」 「おう、いるかい?」 「野郎、来やがったな……あなた、たいそう、ご精がでるねえ」 「なーに、精なんかでるもんか。今日は、仕事をやすんで、朝から昼寝してたんだ」 「えっ、昼寝を?……いや、昼寝をするとは、ご精がでるねえ」 「なに言ってんだ。昼寝して精がでるわけがねえじゃねえか」 「まあ、いいから、こっちへお上がり。遠慮なくおかけなさい。汚れたら、あとでふけばいいんだから……」 「それほどきれいなうちじゃあねえじゃねえか。ともかく上がらしてもらうよ」 「青いものを通してくる風が、ひときわ気持ちがいいな」 「おい、しっかりしろよ。おめえ、青いものったって、なんにもありゃあしねえじゃねえか。向こうにごみ溜《た》めがあるだけだあな」 「あのごみ溜めを通してくる風が、ひときわ気持ちがいい」 「おかしなことを言うぜ、おめえは……」 「ところで、あなた、ご酒をおあがりかな?」 「ご酒? 酒かい? えっ、ごちそうしてくれるかい? へーえ、うれしいねえ。いただこうじゃあねえか」 「じゃあ、これから酒をごちそうしよう。大坂の知りあいからとどいた柳影だ。さあ、おあがり」 「ああ、ありがとう。へーえ、これ、柳影てえのかい?……うーん……なんだい、これ、ただの酒じゃあねえか」 「柳影だとおもっておあがり。さほどは冷えておらんが、あなた、いままで、日なたで仕事をしておって……」 「冷えちゃあいないよ。なまあったけえ。燗《かん》ざましじゃあねえか」 「なにもないが、鯉のあらいをおあがり」 「おいおい、おめえ、職人のくせに、鯉のあらいなんぞ食ってんのかい? 贅沢じゃあねえか。おい、どこにあるんだ? 鯉のあらいが?」 「そこにあるから、おあがり」 「こりゃあ、鰯の塩焼きじゃあねえか」 「それを鯉のあらいだとおもって、おあがり」 「いちいち言うことが変だなあ。まあ、いいや。とにかく食わしてもらうぜ……うん、てめえ。おらあ、へたな魚よりも、この塩焼きのほうが、ずーっと好きなんだ。うん、うめえ、うめえよ」 「あなたのように、そう、うまい、うまいと言ってくれると、まことに気持ちがいい……ときに、植木屋さん……」 「なに言ってんだ。植木屋はおめえじゃあねえか。おらあ、大工だよ」 「うん、そう……大工さん、あなた、菜をおあがりか?」 「おらあ、きれえだ」 「あのう、菜を……」 「菜はきれえなんだ、がき[#「がき」に傍点]のときから食え食えって言われるが、どうもでえきれえだ」 「あの、菜を……」 「きれえだよ、おれは。ああいうもんは、江戸っ子の食うもんじゃあねえ」 「でも……」 「でもも蜂の頭もねえ、きれえだ」 「おい、酒飲んじまって、鰯を食って、いまさら菜がきれえだなんて、ひでえじゃねえか……なあ、おめえがきれえなら食わせやしねえから、食うと言っとくれ」 「なんだ、泣いてやがら……おかしな野郎だな。じゃあ、食うよ」 「食う? しめたな……では、しばらくお待ちを……」 「なんだ、手なんかたたいて、なに拝んでんだ?」 「拝んでやしねえや。人を呼ぶときに、手を打つじゃあねえか……おい、奥や」 「なに言ってやんでえ。奥にも、台所にも、一間しかねえじゃあねえか」 「黙ってろい……おい、奥や」 「旦那さまっ」 「わあ、びっくりした……おい、なんだい? どうしたんだい? かみさん、押し入れからとび出したりして……この暑いのに、汗びっしょりじゃあねえか……どうしたい?」 「旦那さま……鞍馬山から、牛若丸がいでまして、その名を、九郎判官、義経」 「えっ、義経? うーん、じゃあ、弁慶にしておけ」 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 落語らしい落語である。夏の夕方近く、お店の主人と植木屋の、縁先での話、水を撒いた庭の涼風がさわやかに、また主人の言葉遣いも上品でこまやかである。冷たい直し、鯉のあらい等々、お膳立ても自然で、植木屋が氷を口の中へ頬ばって「いやあ、この氷はよく冷えてますねえ」という、現在の五代目柳家小さんの高座は、落語リアリズムの秀品ともいえ、季節感も快い。「猫久」とおなじ型《パターン》だが、植木屋夫婦は前者より年功を感じさせる。前半の清涼感が、後半の長屋のむさ苦しさをより効果的にし、滑稽味を盛り上げている。直しを「柳影」と称している箇所に、もともとは上方噺であった片鱗をとどめているが、サゲの「弁慶にしておけ」の弁慶は、主人のお供、幇間、おごりで済ますという意味を持っている(「船弁慶」の弁慶とおなじ意味)。つまり、義経との単なる語呂合わせではなく、そうした上方的な意味も含まれている。また植木職人も大阪のほうが本筋かもしれない。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   一眼国《いちがんこく》  昔は、両国橋をはさんで、日本橋のほうの側には、寄席があったり、大道商人《だいどうあきんど》が出たりして賑《にぎわ》い、東のほうの向両国《むこうりようごく》、本所のほうには、回向院《えこういん》を中心にして、見世物小屋が並んで賑っていた。その見世物小屋のなかにも、もぎとり[#「もぎとり」に傍点]なんていう木戸銭さえとっちゃえばいいという、いんちきな小屋もずいぶんあって、 「さあ、ごらんよ……世にもめずらしい怪物だあ……目が三つで、歯が二本だよ」  入って見たら、下駄が片っぽ、置いてある。……なるほど、口上のとおりですから、文句が言えない。そうかとおもうと、 「八間《はちけん》の大灯籠《おおどうろう》だよ。八間の大灯籠っ、八間の大灯籠……」  灯籠というものは、石灯籠を除いて、まわり灯籠、きりこ灯籠、牡丹《ぼたん》灯籠……みんなきれいで、それが八間もある。どんな立派なもんだろうと、木戸銭を払うと、 「へい、いらっしゃい、こちらへこちらへ/\/\/\……」  手をひっぱって裏口へとーんと突き出し、 「表のほうから裏のほうへ、とう(通)ろう、とうろう……」  これよりか少々ましな小屋になると、あおり[#「あおり」に傍点]の見世物といって……木戸番が口上を言いながら、片一方の手で緞帳《どんちよう》の綱をひき、場内を半分だけ見えるようにして、 「さあ、ごらん。ご当所、評判の鬼娘《おにむすめ》というのは、この小屋だよ。……親は代々|狩人《かりゆうど》で……この子が生まれ落ちてから、母親の乳房を離れると、世の常の子供さんとは食べるものが変わっていた。麦を食うとか、稗《ひえ》を食うとか、そういうもので育ったんではない……生き餌《え》でなけりゃあ食わない。田圃《たんぼ》にとんでる飛蝗《ばつた》を食う……蝗《いなご》を食う……蛇を食う……蛙を食う、雀を食うで成長をしたね。……ある日のこと隣の赤ん坊をガリガリと食べてしまったので、母親は仰天をしてあの世の人となり、父親が前非後悔して……こういう子供の生まれたというのも、数多《あまた》たび……生きものの命をとった報いだと発心《ほつしん》して……頭を丸めて廻国《かいこく》に出ましたから、子供はこの小屋で引きとることになりましたよ……ほら、ね、あそこに座っているでしょ、あのうしろ向きに座っている……あの娘だよ……さあて、みなさん、一度味をしめたのだから……あわれなことに日にいっぺんは、人間の赤ん坊を食べずにはいられないというあわれな身の上。……見るは法楽《ほうらく》、見らるるは因果《いんが》、功徳《くどく》のためだから見てやってくださいよ……こーれから、日にいっぺんだよ……あの鬼娘が、人間の赤ん坊をガリガリと食べるところをごらんにいれる。……さあ、いらっしゃい、いらっしゃいィ」  これで場内はいっぱいになる。正面へまわって見ると、鬼娘ですからものすごい……口は耳まで裂けていようとおもわれるほどの形相《ぎようそう》で、頭は毛をぼさぼさっとかぶって角《つの》が生えている。……この角というのが、五寸ぐらいの人参《にんじん》を泥のまんまくっつけてある。いま、木戸番の口上どおり、生き餌でなけりゃあ……というとおり、まわりには、鶏のひき裂いたのや、蛇のむしったのや、蛙だの、飛蝗だの、蝗だのが生きたままぴくぴく散らかっている。その中に鬼娘がぎょろっとした目つきで座っている。お客がまわりにつまるだけつまったのを見定めると、小屋の下働きが一人、裏口から出てって、乞食の赤ん坊を借りてくる。……これは、ちゃあんと話がついている。乞食の赤ん坊を鬼娘の前へ差し出すと、カァーッと大きく口を開《あ》けて、 「いま、こんなに食べたんだが……」  と、あたりに食い散らかしたものをぐるり見まわし、 「無理に食おうか、後にしようかあ……」  と、おもわせぶりに、ひとり言を言う。と、とり囲んでいたお客のなかから、 「食いたくなけりゃ、よしなよッ」 「かわいそうだからやめちまえッ」 「わーッ」  これがきっかけになって、 「そんなに言うなら、あとにしよう」  この赤ん坊をまた片づけて、 「えー、先さまはお替わり……」 「まあ、上がってくださいよ。おまえさんは諸国をめぐっている六十六部さん、おまえさんに、お願いがあるんだがね」 「へえへえ、えー、親方のお頼みというのは、仏間《ぶつま》の勤行《ごんぎよう》で……」 「お、おい、ちょっと待ってくださいよ。仏さまを拝んでもらおってんじゃねえんだ。あたしゃね、おまえさんも知ってのとおり、両国に小屋を持っている香具師《やし》なんだが、このごろじゃネタもつきた。人客《じんきやく》も利口になりやがって、やわ[#「やわ」に傍点]なもんじゃ引っかかってこないんだよ……客はこねえんだ。……そこであっしが目をつけたのは……おまえさん方、年がら年じゅう旅を渡っていなさるから、ずいぶんめずらしい話も聞いたろうし、また見もしたろうからね、それをあたしに話をしてもらえたら、とこうおもってね。おまえさんの話をもとにして本物を捜し出して、両国の見世物小屋へ出して、どかり[#「どかり」に傍点]とお客を取りてえんだがねえ。なんかありませんでしょうかねえ。……あったかいめし[#「めし」に傍点]は炊《た》けてるんだから、ごちそうしますよ、ねえ。おまえさんの好きなもの、なんでも言ってごらん。鰻でも、天ぷらでも、刺身でも……。で、また、行くところがなけりゃ幾日《いくか》何十日泊まってったって、けっしていやな顔しないよ、ええ。寝酒の一合ぐらいはごちそうしますよ……なんかありませんかねえ……」 「ありがとうございますが……そうでございますなあ、その……めずらしい……」 「だからさあ、どこそこで子供が生まれたが、男と女と背中合わせになって生まれたとかさ、両頭の蛇を見かけたとかね。……これがでっちもの[#「でっちもの」に傍点]なら、わたしたちはどんなものでもできる、両頭だろうが三頭でもね。でも、生きてなきゃいけねえんだよ、やっぱり……ねえ、なんかねえかなあ……鶏の足が八本あったとか家鴨《あひる》の首が逆にくっついてるなんてえのはねえかい?」 「さようでございますなあ……そのようなことはとんとおもいあたりませんが……」 「考えてみてくださいな。話に聞いたことはあるでしょう」 「いえ、いっこうにおぼえがございませんで……」 「おまえさんは正直だね。ようがすよ、おもいだせねえ、聞いたおぼえがねえ、と言うならしかたがねえ。じゃ、まあ、せっかく連れてきたんだ、めし食っておくんなさい。ねえ、あったけえめしは炊けちゃあいねえよ……お茶漬けだよ。けさきざんだ沢庵《たくあん》があるがね、あれで食っておくれ」 「ありがとうございます、せっかくのおぼしめしでございますので、……では、台所へまいりまして、勝手に頂戴をいたします」 「ああ、たくさん食べなよ。遠慮しないでね……ははは、世の中にはばか正直なやつもいるもんだねえ……そんなものは見たことがねえ、おもいあたらねえ、いっこうにおぼえがねえ……なあ、嘘でもいいから、『こういうことがありましたよ』って言ってくれりゃあ、こっちだって話の継《つ》ぎ穂《ほ》があるってえもんだ。知りません存じませんじゃあしょうがねえ、弱ったもんだ、ほんとうに……」 「えー、ごちそうさまでございました」 「お、……もう食べたのかい?」 「はい、十分に頂戴いたしてございます……ただいま、食事をいただきながら、いろいろと考えてみましたが……かように一飯でもごちそうにあずかりますと、なにかご恩報じをしていかなければ、申しわけないとおもいまして、いろいろとまあおもいだそうといたしました。そして……ひょっとおもいだしたのがございます。あたくしがおそろしい目にあいました。これを置《おき》土産《みやげ》にしていこうと存じますが、お聞きとりくださいますでしょうかなあ……」 「なんだい、おっそろしいおもいをしたって言うのかい……そりゃ、人間はいつなんどきおっそろしいおもいをするかわからねえ。……四つ角でもって、ひょいと曲がるとたんに人にぶつかったって『あッつ』とおもっておっかねえや、なあ、そうだろう? 山ン中、通りぬけて……首っつりにぶつかったって……おっかねえし。渡し場でもって舟がひっくり返ったっておっかねえや。そんなくだらねえこっちゃねえかい」 「いえ、あたくしのこれから申し上げようとおもいまする話は、あたくしが……じつは、一つ目に会ったことがございますので……」 「一つ目? なんだいその……一つ目ってえのは。あの、絵に描いてある一つ目、あれにおまえさん、会ったって? へえー、こいつはめずらしい話だね。どこで会いなすったい?」 「はい、巡錫《じゆんしやく》のみぎりでございますが、国ところははっきりとはおぼえておりません。……この江戸から方角は北にあたります。およそ百里あまりもまいりましたか……大きな原がございまして、そこへさしかかりましたときには、ひと足ごとにあたりが暗くなりますのに人家がございません。心細くなりましてなあ……こりゃ今夜は野宿をするんだなと、こうおもってその原をよぎってまいりますと、原のまん中にたった一本……大きな榎《えのき》がございました。その前を通り過ぎますと、どこで打ちましたか、鐘の音《ね》が、ゴォーン……と聞こえまして、なまあったかい風がさあーっと吹いてまいりました。うしろで『おじさん、おじさん』って子供の声がしました。いやあ、ありがたいなあ……いまのはたしかに子供の声。子供がいるからには人家もあろう。そこを頼って一夜の無心をしようと、ふり返って見ますと、いつ現われましたか榎のもとにおりましたのが……さよう、ようやく四つ五つになりますかなあ……女の子と見えまして頭に赤い布《きれ》をのせて、帯を胸高にしめまして……。顔を見ると、のべら[#「のべら」に傍点]でございます。額のところに目が一つ、この一つ目《まなこ》をカッと見ひらいて……あたくしのほうを手で……こうやって手招きをしていたときには……もう、いけませんでした。……ええ、水を浴びたようにぞっ[#「ぞっ」に傍点]といたしまして……あとをも向かずに逃げだしましたが、……まあ、あのくらい、おそろしいとおもったことはございません」 「……ちょいと待ってください、ちょいと待ってくださいよ。へーえ……忘れないうちに書きとめさせてもらいますからねえ。そんなことがあるのかねえ、世間は狭いっていうが、あっしにいわせると広すぎるね。……ええと、江戸から方角は北だね。百里あまり行って大きな原がある。ひと足ごとに暗くなるかね……まん中に大きな榎がたった一本、その前を通ると鐘がゴォーンだね。なまあったかい風が吹く。……『おじさん、おじさん』て子供の声がする。これが四つか五つになる一つ目で女の子だ、生きてるんだあ……ありがてえねえ、よーく教えておくんなすったねえ。……これを、おまえさん、生け捕って、あっしの小屋へ出してごらんなさい。江戸じゅうの人気は一人でかっつぁらっちまうよ。小屋はぶちこわれるほど客は来る。あっしはお大尽《だいじん》になっちまあ……いやどうも、ありがとうございます。ああ、どうもすいません。ええと、ところでさっそくだがね、あったけえめし[#「めし」に傍点]は炊けてたんだよ。なんかそ言ってくるから、もう一杯食わないかい」 「いやもう、そうはごちそうになれませんで……」 「なぜ、それをさきへ言ってくれねんだな、ほんとうに。冷やめし食わしちまって勘弁しておくんなさいよ……ところでね、いまあっしゃ懐中《ふところ》が苦しいんでお礼ができねえんですがね。またおまえさんが、ご修行の道すがら……江戸へ入《へえ》ってくるようなことがあったらば、貸したものを催促にくるつもりで、もういっぺん訪ねてくださいよ……それまでにあっしゃあ、たんまり儲けて、木綿ものでもおまえさんの寝道具はちゃんと新しくして待ってますぜ、ねえ。この家でもね、太神楽《だいかぐら》でも二階をおっ建ってね、けして不自由はかけませんよ。おまえさんの部屋はちゃんとこしらいておくから……ようがすか、もういっぺん訪ねてくださいよ……じゃ、まことにおかまいもしませんでしたが、お急ぎの様子ですから、じゃこれでごめんなすっておくんなさいまし……あの、どぶ板がはねてますからね、気をつけて……」  お世辞たらたらで送り出した。こりゃいいことを聞いたと……その日のうちに支度をして、夜を日に継いでやって来たのが、北をさして百里あまり、大きな原……。 「ここんとこだな……ここんとこに一つ目が…出るかねえ……こりゃ。一つ目の出るような原じゃねえぞ、こりゃあ。まんべんなくだだっぴれえだけのもんだい。こんなところに一つ目……出ないよ。あの六部のやつは、てめえが茶漬け食わされたんで、おれにも一杯食わしやがったんじゃあねえかねえ……こりゃ弱ったね。あいつとちがってこっちは、路銀《ろぎん》を使ってここまで来てんだからね。これで一つ目に会わなけりゃ、元も子もすっちまうってえやつだ……ばかな話。だが待てよ、原のまん中に榎がたった一本てやがったなあ……そこに木が立ってるんだよ、ねえ。ちょうど誂えどおり……あたりは暗くなってきやがったなあ。よーし、ものはためしだ、あの前まで行ってみよう」  足を速めてさっさっさっさっと行きすぎると、鐘がゴォーン……風が……さーッ…… 「『おじさん、おじさん』って……どこかで声がしたよ……あっ……出たあ……へええ、いたよ。へえへへ、いつの間に現われやがったかねえ……ありがてえ、ありがてえ……こりゃありがてえや。坊や、坊や、おじちゃんね、いいものあげるからね……おいで、おいで……」  子供は無邪気だ、そばへちょこちょこって来たのを、 「よォッ、太夫さん、待ってましたっ」  と、小脇に抱《か》いこんだ。子供がびっくりして、「きゃッ」と声をあげたので、口を押さえたがもう遅い……竹法螺《たけぼら》がブゥゥゥゥ、早鐘がゴーン、ゴーン、ゴンゴンゴン、ブゥゥゥゥゥゥ……ふり返ってみると、見通しのつかないようなまっ平らな原、どこから出てくるのか、まるで地面から涌くようにぴょこぴょこ/\/\/\だんだんだんだん人数がふえて追ってくる。 「えれえことになっちゃった……こりゃ、子供も欲しいが命もおしい」  あきらめて子供をおっぽり出して逃げにかかると、馴れない道、なにかにつまずいて、どたっとのめったところを、 「この野郎、とんでもねえ野郎だ、おらんところの娘かどわかそうとしやがった……それっ、おっ縛《ちば》ってしめえ、代官所へしょっぴいていくんだ……こん野郎《にやろう》、歩《あゆ》べっ、歩《あゆ》ばねえか」 「これこれ、……大勢して打擲《ちようちやく》をいたして、打ち殺してしまっては調べがつかん。それへ引きすえろ」 「この野郎、下にいろ」  足を払うとたんに膝をついて、がくりっと首が上を向いた。縁ばなに煌々《こうこう》と灯《あか》りをつけて居並んでいる役人の顔をひょいと見ると、額のところに目が一つ……、 「あッ」  と、おどろいてあたりの様子をうかがうと、いままでは無我夢中、自分を追っかけてきて、打ったり縛ったりした百姓|体《てい》の者が、残らず額に一《ひと》つしか目がない。 「あっ、こりゃおどろいたねえ、一つ目はこんなにいなくたっていいんだよ、少しこりゃ……いすぎるね。待ってくれよ、こりゃことによったらおいら、一つ目の国へまぎれこんできたかな……こりゃえらいことになっちゃったなあ……食い殺されるね。命ばかりはお助けを願います。南無阿弥陀仏/\/\/\」 「これこれ、そのほうの生国はいずこだ?……生まれはどこだ? なに? 江戸だ?……江戸の者か。かどわかしの罪は重いぞ、面《おもて》を上げい……面を上げいっ」 「この野郎……面《つら》ァ上げろッ」 「あっ、御同役、御同役……ごらんなさい、こいつ不思議だねえ……目が二《ふた》つある」 「調べはあとまわしだ。さっそく見世物へ出せ」 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 「逆さ落ち」の面白さは、そこに諷刺がひそんでいることである。寄席の始まったころのネタ帳には、この種の噺の題名(「大入道」「三本足の女」「首なし」など)が多く見られ、盛んに高座にかけられていたらしい。八代目林家正蔵によってマクラの見世物小屋風景の部分が独自に練り上げられ、十八番物の一つになっていた。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   素人鰻《しろうとうなぎ》  徳川|瓦解《がかい》ということになって、武士《さむらい》たちはおのおの奉還金《ほうかんきん》をもらったが、遊んでいても、というので、なにか商売をはじめた。ところが、きのうまで二本差しで威張《えば》っていた人が、 「へい、毎度ありがとう存じます」  なんてえ柄ではない。みんな手馴れないことに手を出して、一人として満足に成功した人はなかったようで、結局は、あいだへ入った者に、うまい汁《しる》を吸われたというのが、ほんとうだったらしい。 「士族の商法とかけて、子供の月代《さかやき》、泣き泣き剃《す》(摩)る」——。 「旦那、どちらへいらっしゃいます?」 「おお、金《きん》か……いやあ、ほうぼう家をさがしておるんだ」 「お家《うち》を? ああさようですか。ごぶさたしております。お屋敷をどうかなさいます?」 「いやあ、屋敷はそのままになっとるが、おまえも知ってのとおり、こんどこういうことになってなあ、なにか商法って、手馴れんことでもあるから、大きい損をしてもつまらんから、損をしても小さいことですむように、とこうおもってなあ。奥とも相談のうえ、まず汁粉屋《しるこや》がよかろう、砂糖の灰汁《あく》の抜き方ぐらい奥も存じておる。汁粉屋ならば娘も好きだし、わしも好きだし、奥も好きだから……」 「じゃあ、おうちでみんなあがるようなもんで」 「あははは……ほうぼう家をさがしておるんだが、なかなかおもった家がないて……」 「へえ、旦那が汁粉屋でござんすか? えっへへ旦那、汁粉屋はつまらねえ……え? ええ、百杯売って百杯そいつがまるまる儲かったって高《たか》の知れたもんで……。おなじおやりんなるなら、料理屋で……ねえ。料理で儲かって酒で儲かるって。『あそこの店は酒がいいから』ってえやつが、繁昌します。川魚とくると折れて曲がります。どうです、鰻屋なんざあ、おやりんなっては?」 「そりゃわしもやってみたいとおもうけどもなあ、魚《さかな》をいじったことがないからなあ」 「なにも旦那がおやりんならなくたって、職人使えばよろしいじゃありませんか。こうしやしょう、あたくしがひとつ、お手伝いしましょう」 「おまえが?……いやあおまえがやってくれれば、結《けつ》……いやあ結構だがな、まあ、断わろう」 「なぜ?」 「なぜといって、おまえはなあ酒を飲むと人の見境がなくなっていかん。せっかくだ、心持ちはうれしいが、断わる」 「へい、旦那、こんなことを申しちゃあなんですが、あたくしは先代殿さまから、ご贔屓《ひいき》をいただいて、ひとかたならねえご恩がござんす、へえ。なんかあったらご恩返しがしてえと、ふだんからそうおもってた。こうなったのが、ええ、幸いといっちゃあなんでござんすが、旦那、金にひとつ働かしてください。あっしゃあね、酒のうえが悪《わり》いかもしれません。こうしやしょう、このたびは、ご恩返しのためにねえ、酒を断《た》ってひとつ、一所懸命、やろうじゃあござんせんか」 「おまえが酒を断ってやってくれる? そうか? あははは……そりゃあ結構だなあ、じゃあ金、ひとつ、はじめるか」 「あッはは……この先にねえ、ちょいと、おつな空店《うち》がありますから……」 「貴公がかような商売をはじめようとはおもわなかったなあ」 「いやあ、拙者もやるつもりじゃあなかったがな、金に勧められてよんどころなくなあ」 「あの……金と申すとあの『神田川《かんだがわ》』の金か? そうか、……あいつ酒のうえが悪いぞ」 「いやあ、ははは、拙者も申した『貴様は酒のうえが悪いからいかん』と。なんでも恩になってるからと、当人も恩返しのために、酒を断ってやると言うので……」 「酒を断つ? そうか、酒を断ってやってくれれば貴公の家はたちまち金蔵《かなぐら》が建つぞ。あんな職人はないなあ。今日は開業式か? あっはそうか、あいつに一杯飲ましてやれ。いや、今日だけ飲ましとけ、職人だあ、開業式だ、あとがうるさいぞ。拙者が飲まそう。なんとかいったな、女中は? え? お花さんか?……お花さん、ああ、膳をひとつこさいてやってください、なんでもよろしい、金に火を落としたら、すぐこちらへ来るようにってそう言うてください、はい……いやあ、沢山《たんと》は飲まさん、湯飲みィ三杯ぐらいはよかろう……金か? こちらへ入れ」 「へえ、どうも、おめでとう存じます。どうも、いい塩梅《あんべえ》でござんす、へえ。今朝《けさ》ねえ、ひょいと起きますとね、雲行が悪《わり》いんで、こりゃあひとっ降《ぷ》りあるんじゃねえかとおもって腹ン中で、心配いたしておりました。開業式そうそう、雨なんぞ降られちゃあ縁起《えんぎ》でもねえとこうおもってました。まあなにごともなく、いい塩梅でござんす……へえ、旦那さま、おめでとう存じます。奥さん、おめでとう存じます。ええ、麻布の旦那、いらっしゃいまし。先ほど、お見えんなったの存じておりました、へえ……下流《したなが》しでね、洗いものをいたしておりましたもんですから存じながら、お言葉もかけませんで、あいすみませんで……。ええ、おうちではお嬢さんも、奥さんもお変わりございませんか? あははは、さいですか、よくいらっしゃいました」 「こっちへ来い、こっちへ進め。いま中村|氏《うじ》からおまえの話をすっかり聞いた。おまえが一所懸命やってくれてうれしい。どうぞ金、ともども頼むぞ」 「ええ、お言葉でございますが、このたびは……、酒を断ってねえ……」 「いやあ、それも聞いたよ。うん、うっふっふっふっおまえが、酒を断ってやってくれるって。……これからおまえが酒を断って、一所懸命やってくれるんだな?」 「ええ、今朝ねえ、ええ、金毘羅《こんぴら》さまへ、ええ……もう、三年のあいだもう、断っちゃったんでござんす」 「いやあ、まだ断ったのではなかろう? これからおまえが断って一所懸命やろうとこういうのだろう」 「いいえもう、今朝、えへっ、ええ金毘羅さまへもう、三年のあいだもう断っちゃったんで……」 「断っ……断ったのか? おおそうか、それは残念だったなあ、いや、開業式であるしするから、いま主人公に願って、祝いだから貴様に一杯馳走をしてやろうとおもって、ここへ呼んだんだが、酒を断ったという者に勧めるのも異なものだ。そうか、じゃあ、その膳を持ってなあ、そっちへ行ってめしを食いなさい」 「えっへっへっへ……えっへっへっ、断っちゃったんで……」 「断っちゃったって、そっちへ行ってめしを食いなさい」 「へい、ええ、断ったにゃあ断ったんでござんすけども、ええ、ちょいと……」 「ちょいとでも断った」 「ええ、でござんすがね、ええ、讃岐の金毘羅さまへ断ちましたもんですから、どんなに天狗さま、速《はや》くたってまだ讃岐の金毘羅さんの門まで行ってめえとこうおもうんで、へえ……讃岐の金毘羅さんの門のとこへ天狗さまが……ぱっと着いた拍子に、こっちがつゥーとよす」 「あっは、なにを申しておる。よそうといってよせるもんじゃあない、飲みなさい飲みなさい、わしが許す。沢山《たんと》は飲まさんぞ、この湯飲みに三杯だ、祝いだから飲め」 「あっは、さいですかどうも、あいすいません……どうも、旦那さん、奥さん、まことに嘘を申しあげたようで、まことにあいすいません、へえ。開業式のお祝いでござんす、めでてえ酒でござんす、へえ。今日《こんにち》だけひとつご勘弁なすって……さよですか、へえどうも、すいませんどうも、お膳まで頂戴して、ごもったいねえことで……おやおや、さよですか、こんな大きなもんで? 旦那のお酌で? いやあどうも、こらあ痛み入ります、へえ……へ、へえ……へい……こ、こらどうも……えっへっへっどうもあいすいませんで、へえ、……旦那の前でござんすが、この色を見たひにゃたまりませんで、へえ。酒飲みなんて妙なもんで、『まあ一杯《いつぺえ》やってきねえ』とこう言われますとどんな用があっても、腰が落ち着いちまうってなあ、意地が汚《きたね》えんでござんすね、へっへえいただきます。へえ、どうも、あいすいませんでござんす、へえ、ふゥッ……」 「どうだ? よい酒だろう」 「へっへっいい酒にもなにも、がぶがぶゥッて夢中で飲んじゃったんで、えっへっへえ、味はこれからなんで……」 「そらよ」 「へい、あいすいませんで、へい……へいへいへい……こらあどうも、えっへっへっへえ、あいすいませんでござんすへえ……よいご酒《しゆ》でござんす。へえ、こく[#「こく」に傍点]といい香りといい、もう、申し分ござんせん。こんな酒をつけてる店《うち》は沢山《たんと》ござんせん……これならもう、客は大喜び、へえ……いえ、利き酒はあっしがしたんじゃあござんせん、へえ、旦那にしていただきました。とても、がぶがぶやるほうのくちでござんすから、利き酒なんて器用なまねはできませんで、へっへっ。よせねえもんでござんすねえ。どうかしてよしてえとおもいまして今朝ねえ、讃岐の金毘羅さまへ、ええ、三年のあいだ酒を断《た》ァ……て言ったっきり、あとが出ねえ……ほんとうに断っちゃってから飲むてえと罰が当たりますからね。ええ、三年のあいだ酒を断ァ……て言ったっきり、あとはかみこんじゃった。あっははは、どうも、しょうがありませんでござんす、へえ……いつまでも若えんじゃあねえ、どうかしてよせるもんならよしてえとおもって、なにしろねえ酒屋の前なんざ通りきれねえんでござんす、へえ……飲み口から出るとこなんざ見たひにゃあたまりません。こらあ見るからいけねえんだとこうおもいましてね、そいから眼をつぶって通った、ええ、いけません、鼻ってえやつ……鼻へつうんとくると、咽喉へぐうッと鳴る。しょうがありませんから眼ェつぶって鼻ァ押して、あっしゃあ、酒屋の前、駆け出して通った。溝《どぶ》へ三度落っこっちゃった、あっははは、そんなおもいをしても、やめられねえんですからばかでござんす。へえ、てめえで愛想がつきます、えっへっへっへっ、しゃあねえもんですね、どうもへえ、あいすいませんでござんすへえ……酒じゃあもう、なん十ぺんなん百ぺんしくじってるかわかりませんでへえ……長いことみなさんにご迷惑をかけて……あっ、そうそう、麻布の旦那に、助けていただいたことがござんしたっけなあ、忘れませんおぼえてます。牛込《うしごめ》の帰りにね、水戸さまのご門のところまできて、鼻緒《はなお》切っちゃってねえ。あっしゃあまごまごしてるのを、門番が出てきやあがってねえ、『通れっ』……おどかしやがって、こっちゃあ一杯入《いつぺえへえ》ってますからたまりません。『なにをっ』『なんだあっ』てんで、ばらばらっと出てきてふん縛《じば》らいちゃった……へ? 寒いところへ立たせやがって、酔いは醒めてくるし、まっ青ンなっちゃってねえ。『こりゃあとても助からねえもんだ』とおもって覚悟をきめてると……忘れもしねえそこへ、旦那がおいでくだすって、助けていただいたあ。『これは神田川の金と申す、鰻|割《さ》きの職人である。酒を、飲まんと猫のようなやつであるが、どうも酒乱で困る。ええ、拙者に、おまかせ、ください』って、えっへっへっ、助けていただいてうれしかったねえ、あんなうれしいとおもったこたあござんせん。えっへっへ、へっまったくねえ、あの、若い時分でござんすから、いろんなことがござんした。えっへっへっそうですよ。おぼえてます。忘れませんよ、えっへっへっへっ、へっどうもあいすみませんでへえ……えっへっへっへっ、久かたぶりでひとつゥ、旦那に、揉《も》んでいただきますかな、へっへっ、とても、藤八拳《とうはち》は、旦那にゃあかなわねえ、柳かなんかねがって、負けたやつが一杯《いつぺい》飲みっこってえ、こういうことにひとつ……ひとつゥ、ねがいやしょう、ねえ? 旦那ぁ、まいりやすよゥっ、ようござんすかァ?……はッ……へ? おいやでござんすか? へい、あいすいませんで、へえ……拳なんてものはひとりで打ったっておもしろいもんじゃあねえやあ……おおゥ、いいよッ、置いときな置いときなよ、いいよゥ、おれがお酌するからいいよ、いいから、おゥよし……旦那ぁ、お熱いのがまいりましたあ、へっへっ、男のお酌でねえ、ええ御意に召しますまいけど、えへへなんてね、いやなこと申し上げてまあ、旦那ぁ、金が久かたぶりでお目にかかってうれしい、ええお酌だけ、さしてください、お酌だけ。へい、さいですか? へ、あいすいませんでござんす、へい。こらあどうもどうも、どうも……ああッと、ど……どうも、とんだ、粗相をしまして、へえ、あいすいませんで……お袴《はかま》、よごれやしませんか? どうもすみませんでござんす。いいんだよッ、いいよッ、雑巾《ぞうきん》いらないよゥ、雑巾……ええ、もったいないもったいない、えっへっへっへっ、もったいねえもったいねえでみんななめたなんてねえ。はっはっはっはっはっ……旦那のお供して、吉原へ、繰りこんだことがござんしたっけなあ。旦那も若え時分だ……あっしも若え時分で威勢がいいや、『金、まいろう』なんておっしゃってねえ、えっへっへ、大見世でござんした、へえ。旦那のお供なればこそね、あんな大見世へあがれます、とても手銭じゃねえ。へえ……旦那の敵娼《あいかた》はね、ちょいとオツな敵娼で……へえ、色こそ浅黒いけどちょいとまるぽちゃなねえ、オツな女……ふっふン、あたくしの敵娼……おもいだしたよ旦那あ、あっはっはっ……あんな長え面《つら》の女ってえなあないねえ、馬が円行灯《まるあんどん》くわいて、下へ鰻をぶらさげてるような長え面《つら》だ。上見て真ん中見て下見てるうちに真ん中忘れちまうてえなあ、あいつの面のこって、あっはははは、真ん中(なんだか)わからねえてえなあ、あれからはじまったんだ。あっははっは、いいえさ、いいえ、まったくさあ……そうそう、あんときも、あたくしゃあしくじっちゃった、ほーら、旦那、おぼえてますか? え? お引けんなるときにねえ、あの廊下のところで、若い衆《し》が変なことを言いましたろ? あっしが啖呵《たんか》ァ切ったろ? 『ふざけたことをするなあっ、おれをだれだとおもう』って、啖呵切るとね、旦那がおいでんなってねえ、『まあ金よせえ、腹も立つだろうけども、かようなとこで大声《たいせい》を発してはよくない』って、えっへっへえ、『なにを言やがんでえ、てめえなんざあ、うっふ、ばか……っ』(と殴りかかる仕草で酒をこぼす)あっ、はっはっはっはっはっ……あっしあね、若え衆《し》の頭ァ、ぶったつもりなんだよ、それが、旦那の頭ァぶっちゃった、あはっはっはっはっ……あんな、おどろいたこたあなかったねえ、奥さんにねえ、お詫びをしていただいて、勘弁して、あはっはっはっはっ、あはっはっはっ、あははは……」 「いいかげんにしなさい。がぶがぶがぶがぶ水を飲むように……なんだ黙ってればいい気ンなって……金ッ、よさんか……金ッ、これっ」 「へい……すみません。よします……へいあいすいませんでどうも……徳利ィ、そちらへ、お返しします……旦那ぁ、すみません……よしましたあ……(調子が変わって)大将、よしたよ……(キセルに火をつけ)なにを言ってやんでえ……しみったれなことを言うない……ふん……旦那ぁ、旦那ぁ……麻布の旦那ぁ……(腕をまくって)大将、だんつく、あなたねえわっしのがき[#「がき」に傍点]の時分からのことをご存じでしょ? あっしァねえがき[#「がき」に傍点]の時分から小遣いもらったのを貯めといて、芋屋へ行って芋のしっぽをかじって育ってきた人間じゃあねえんだあっしゃあ……小遣いもらやあ貯めといて、酒屋へ行って桝《ます》の角《すみ》からきゅうゥとあっしぁ、あおっちゃったんだ、あっしゃあ。なんでえ、一杯《いつぺえ》や二杯《にへえ》、酒飲んだがどうしたってんだい。めでてえ酒だよ、こんな職人がどこにある。下流しから、料理から、出前持ちまでするんだッ、なんでえっ」 「なんだ金、よさんか。主人公に対してすまん。そうか、こちらがしくじったか? よォしよし、勘忍しろ、金、許せ。よせよォ、金、あとで話……金、よせってば……そ、そ、金……いいかげんにしろっ、ばかっ」 「ばかたあなんでえ……ばかたあなんでえ大きな面《つら》ァするねえっ、旦那旦那って持ち上げりゃあいい気ンなって、てめえなんざあ旦那面ァあるかい」  これでもくらえとそばにあったお膳を、ぱあっと放った。どたりィばたりという騒ぎ。 「出てけえっ」 「こんなうちへてめえのほうで、いてくれったっておれのほうでいるかいっ」  って飛び出していく……。 「旦那さま、金がいまだに帰ってまいりません」 「帰ってまいらんなあ、困ったなあ」 「しかたがございませんから、あの、休業をいたしまして……」 「ばかなことを言いなさい。なんだ、店を開《あ》けたばかりで休業ができますか」 「できますかとおっしゃって、金が帰《かい》ってまいらん……」 「まいらんといって、売りこんだ店でないからそんなわけにいかん。口入屋《くちいれや》へそいって……」 「あんな、口入屋はまいったって、鰻|割《さ》きの職人なんてのは、今日が行って今日があるもんじゃあございません」 「ございませんといって、おまえみたいに言ったって……なんだ? うん? 金《きん》のとこから使いがまいった?……き、金が帰《かい》ってきたのか?……おっほ、奥ゥ、金が帰ってきたそうだ。うん……あ、はいはい、はい(手紙を受けとって)ああ、いやあ、たとえねえ、なんでも、金が帰《かい》ってくれればなあ、いいんだ……吉原《なか》行って馬ァ引ぱって帰《かい》ってきた……金を払ってやれ、叱言《こごと》を言うな、なんにも言うな……金か、こちらへ入れ」 「……なんとも申しわけがござんせん、へえ。まるっきり知らないんでござんす、へえ。今朝ねえ、起きたんですよ。目がさめるとねえ、そばに赤い布《きれ》をかけた姐《ねえ》さんが寝……あッ、こいつぁしくじったなっとおもってねえ。いま帰《かい》ってきて、お花さんに聞いたんですよ、そうしたらねえ、あっしが旦那に毒づいたって……そんなばかな話ァねえでしょ。なんのために旦那にねえ、毒づくなんてわけがねえ。あっしあねえ、旦那あ、すみません、どうかご勘弁の……」 「おまえはなあ、まことにいい職人だが、その酒のためにしくじる。気をつけてくれなきゃ困るじゃないか。……あっ、お客さまだっ」 「へいっ、いらっしゃいまし」  と、お客がくると一所懸命に働いて……腕がいいときてる。 「奥、え? 金の働きぶりを見ろ、へっへえ、今朝出してやった金は無駄ンならんなあ、うん……金、火を落としたらこっちへこい。あっはっはっ、ご苦労ご苦労。疲れたろう? う? うん、今日はなあ、客に出さん前になあ、不足でもあろう、二本とっといたあ、うん。これを飲んでなあ、機嫌よく寝てくれ」 「いええ旦那ぁ、冗談言っちゃあいけません。もう、ええ金毘羅さまへもう三年のあいだ……」 「いいや、好きな酒だから断たんでもよいぞ、え? 断ったか? そうか、あっははじゃあそれに越したこたあない。やすむか? あっはっはっそうか、じゃあ花ァ床《とこ》をとってやれ……いいやあ、いやあ、遠慮をするな、うん……くせになっていかん、とらせろとらせろ。ああ、そうか、やすむか? はい、おやすみなさい。あっはっはっは、ううん、酒を飲まんとあのとおりだ。ううん、金が飲まんのにわしが飲んではすまんようにおもうけども、奥、一本つけてもらうか」  旦那は一杯めしあがって、奥さんが床をとって、これから寝ようとすると、カラカラカラカラカラカラカラカラカラッ……ばたッ。 「しいッ、しいッ」 「なんでえ『しいしいしいしい』と……猫じゃあねえやいっ」 「(手燭を持って)……おい金だぞ、どうもあきれたもん……ああ金のやつだ。どうした?」 「どうしたって旦那の前ですけどもねえ。あっしゃあねえ、へっへっえ。ああ、おどろいたねえ、いいえねえ寝ようとおもったんで……寝ようとおもったんだけど息苦しくって寝られねえんで……片口に一杯ねえ、いまきゅうゥッといただいてねえ、そいから、もう一杯いただこうとおもったら片口が転がっちゃったんで、へッへ、旦那ぁ、片口ィ、捜してください」 「……出てけえッ」  うわァーッてんでまた飛び出す。  そのあくる日もそのとおり。仏の顔も三度、もう帰《かい》ってはこられません。 「旦那さま、金がいまだに帰《かい》ってまいりません。今日《こんにち》は帰ってくる気遣いはございませんから、休業をいた……」 「奥ゥ、おまえはどうでもかまわんがなあ、その夜が明けると休業にかかっておるが、え? その、売りこんだ店でないからそんなわけにいかん」 「いかんとおっしゃっても金が帰《かい》……」 「金が帰《かい》らんければわしがするッ」 「わしがするとおっしゃっても、蚯蚓《みみず》を見ても心持ちが悪いとおっしゃってるあなたに、鰻がいじれますか?」 「いじれますかっていじらんければしょうがない。それほど気ンなるなら、お灯明《とうみよう》でもあげて、え? 客の来ないように祈んなさい、たわけっ……いまさら汁粉屋の話をしてどうする? え? おまえは……それ見なさい、客が来てしまったじゃないか。……はい、はい、おいでなさい」 「ええ、こちらの開業式にいただきました。あっはァうまかったあ、よく聞いたらねえ、ええ、神田川の金さんがきてるんだって、へっへっへえ、町内じゃあ評判。いま二階へ上がりましたろ? え? あいつねえ鰻っ食いでねえ、えっへっへ、ちょいと箸を入れたばっかりで、こいつぁどうとか、なんかあ言うやつなんで、ええ。荒いとこを、二人前……」 「はい、焼きましょう」 「ええ、鰻《うお》を見てえとおもうんだが、どこにござんす?」 「あ、あそこに、ございます、ごらんください」 「え? そこ……ああっとっ、なるほど、ねえ、へえー職人もいいがあ、鰻《うお》もいい……ああッ旦那ぁ、いま、ちょいとこっちへ、それそれ。ちょいちょいと上げて見つ[#「見つ」に傍点]くれ」 「いや、それを焼けとおっしゃれば、かならずそれを焼きます。ほかのを焼く気遣いはござらん」 「いえー柄を見てえとおもう、ちょっと上げて見つください」 「いえ、素人方はなあ、その鰻の顔をみんなおんなしようにおもうけども、商売人が見るとちがっとおる。ご疑念とあらば印《しるし》をつけましょう。嬢、嬢の白粉《おしろい》持ってまいれ」 「白粉をどうなさる?」 「鰻の頭へ白粉を塗る」 「えへッ、ばかなことをしちゃいけません。おたの申します」 「はいッ……花ァ、おまえな、突き出し物を持って、酒を持って、え? 客が降りてこんように、その梯子段の上で立っておれ。嬢、おまえはなあ、客が厠所《はばかり》へ行ってこちらへ来んようにそこでくいとめろ。表半分しめなさい。なんだおまえは……なんか言うけど、金がおらんければできんて、な? できんことがあるか、おなじ人間のやることだ。おまえたちはわからんがなあ、え? 鰻の急所っていうものはここにあるんだ。いいか? (と、鰻を狙って)わしは金のやっとるのを見とる。え? なんでも、ものってえいうものは研究で、この……(捕えようとするが逃げられ、目で追う)、見るという……(また逃げられる)、こっちへ、ついて……(とんとん叩き)笊《ざる》ゥ持ってこい笊ゥ……わしが追うからしゃくいなさい……よいか? まいるぞ、ほらほーら、ほッ……(舌打ちして)、こっちへ笊を貸せ笊を……さあ追いなさい追いなさい追いな……しょっと……(と、すくい)はッはッは、大きいのが三匹入った、な?……いよッ(一匹をつかむが、つかんだ両掌のあいだから、すり抜ける)笊ッ、笊ッ……こりゃいかん……糠《ぬか》を持ってこい糠を……(両腕で囲って)ぱらぱらっとふれ、このぬるみ[#「ぬるみ」に傍点]があってはいかん、な? そこ、そこを、ぬ……あ、こらッ……(と、頭へかかった糠を払い)、また、えらくどうも、糠をかけたなあ、わしの頭へ糠をかけてどうするんだ? 鰻の糠味噌をこさえるんじゃあないぞ。かよういたそう、わしがこう、つかむ、鰻《やつ》首を出すからなあ、奥、あの薪を持ってまいってなあ、頭をたたけ。ぞべぞべ[#「ぞべぞべ」に傍点]せんと、手伝いなさい」 「でございますから鰻屋なんて商売は、生きもんの命をとるのでございますから、あれほどおよし遊ばせ……」 「いまさらそんなことを言ってどうする、手伝いなさい」 「はいはい、まいります。あなた、よろしゅうございますか? まいりますよ、(袂を押え、薪を持って身構える)さあ……」 「なんだ仇討《かたきうち》だなまるで……まいるぞっ、まいるぞっ、奥まいるぞォ、よく見てろ。いよッ、とっとォとッとォ……こ、これこれ、こ、この隙を……この隙を、この隙を狙って、奥、この隙を……」 「この隙とおっしゃっても、あなたのおつむっ……」 「あ痛いッ……ばかっ、余の頭をぶつやつがあるか。錐《きり》を貸せ錐を……口ィ口ィ(と、口にくわえ)……はッ(と、捕え)……やあッ、うん……(力をいれて錐を刺す)はあッ、はあっ、はあっ、奥ゥ、うちとめた。顔の汗をふけッ。(肩で息をし)これまでだ金がおらんければ困ることは……これから先はなあ、金がおらんでも……もう……こう(と、割《さ》こうと庖丁をいれる)……あ、首が取れてしまった……うん、うん(と、再び錐で刺し、割く)むむむお(と、親指を口にくわえ)血止めっ……、血止めッ……これこっちの、こっちの鰻が逃げ……な、な、貴様たちはなにを……隙があって(と、逃げ出した鰻をつかむ、両掌の隙からぬるぬる逃げだし、交互に頭をつかむ)これこれ、前のものを片づけろ、その、履物を出せ履物を……どこへまいるかわかるか?……前へまわって、鰻に聞いてくれ」 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 八代目桂文楽の極め付け、ほぼ半世紀のあいだ文楽の肉体へ沁みこみ、演じられてきた名品。明治維新後に作られた噺で、三遊亭円朝が、ある日、弟子数人を連れて、市ヶ谷御門の中を通ると、武家屋敷の黒塀に「この中にしるこあり」という貼紙のあるのを見つけ、ものは試しと入ってみると、これが武家の商法で、たいへんに面食らった。この体験をもとに「士族の商法」(別名『素人汁粉』)という一席にまとめあげた。これが初代円馬と初代遊三によって二《ふた》通りの演出の「素人鰻」に発展していった。本篇の文楽のものは、初代円馬、円左、三代目円馬と伝えられた型。  鑑賞のポイントは、神田川の金が酔ってゆく件《くだり》で、その酔態の過程の変化を、表情の抑揚、声の高低、仕草、間で描き出していく。後半の鰻をつかまえる悪戦苦闘の動き、両手の親指を鰻の頭に見立て、指間をするりするりと抜け出す、その様子を面白く、見せる噺でもある。この部分だけを独立させたのは、五代目三升家小勝で、別に「鰻屋」という題名になっている。元武士の鰻屋の主人《あるじ》、たしかに鰻をつかまえることでは素人だが、客が来て、女中に酒、突き出しを持たせ、客が二階から降りてこないように見張らせ、娘に厠所へ来た客が調理場へ近づかないように食い止めさせるなど、その指揮ぶりは元武士の才腕を十分に発揮している。しかし、指揮と実戦の違いを、主人は時代の移り変わりのなかで、身をもって体験した。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   二十四孝 「おうッ、ごめんねえ」 「大きな声だなあ、だれだ? 熊だな」 「ああ、いたいた、あいかわらずつまらねえ面《つら》ァしてるね、ご隠居」 「なんてえことを言うんだ。人のうちへ来たら、立ってねえで座るもんだ。どうせわたしの顔はつまらないよ」 「まったく、そうおもってみるせいか、ひどくつまらねえ面だ……へえ、座ったぜ。なんか食わせるか?」 「なにも食わせやしねえ。そのかわり、叱言《こごと》を食わせてやるよ。……おれがいまさらあらためて言うこたあねえが、この長屋十八軒あって、子供のたくさんいるうちもあるが、みんな静かだ。そこへいくと、おまえのうちてえものは、三日にあげず喧嘩《けんか》だ」 「いやあ、そんな、三日にあげずてえこたあないよ」 「そんなにはやらねえか?」 「いやあ、毎日だあ」 「なお悪いや。なんだって毎日喧嘩するんだ?」 「わけ? そいつを聞かれると困るんだがね」 「じゃあ、今日はどうしたんだ?」 「どうしたもこうしたも、今日っくれえ、あっしゃあ、腹たったこたあありませんよ。仕事が早くかたづいたんで帰ってきますと、魚屋の金公ンが、『今日は鰺《あじ》のいいのがあるから買ってくんねえ』てえから、鰺を十ばかりもらった。『湯から帰ったら、こいつを塩焼きにして一杯《いつぺえ》やるから頼むぜ』ってかかあに言い残して出かけたんですよ」 「それで?」 「帰って見ると、十ばかりあった鰺が影もかたちもねえ」 「どうしたい?」 「かかあに『魚《さかな》が見《め》えねえぜ』ったら、『へえー、そういやあ音がしてたけども、猫でも持ってたんじゃあないかしらん』てんでしょ。ばばあに聞いたら『おや、知らないよ』てんで……それからあっしが裏口へ飛び出して、ひょいと庇《ひさし》を見ると、隣の泥棒猫が、あぐらをひっかいて、ばくばく食ってやがる」 「猫があぐらをかくかい?」 「それが大あぐらをひっかきやがってね、生意気に鬚《ひげ》ェはやして……」 「なにも生意気なことはない。猫は鬚がはえてる」 「そいつを見て、癪にさわったから、出刃庖丁を持ち出して、これを逆手《さかて》ににぎると『やあやあ、卑怯なり泥棒猫、これへおりて尋常に勝負、勝負っ』と声高らかに呼びかけた」 「そんなことを言って、猫に通じるか?」 「むこうはにゃん[#「にゃん」に傍点]とも言わねえ」 「なにをばかなことを言ってる」 「とんでもねえ猫だ、てめえが魚を食っちまったんだから、こんどは猫を食っちまおって……」 「猫なんぞをおまえ食うのかい?」 「ええ、食いますとも、こうなりゃあ。でも鼬《いたち》をとっつかめえて食ったことがあるが、あんまりうまくなかった」 「変なものを食うな」 「大きな口を開《あ》いて飛びかかろうとしたがどうも庇《ひさし》までは飛びあがれねえ」 「あたりまえだ」 「それじゃあてんで、出刃庖丁を物干し竿の先へ結《いわ》いつけて、屋根じゅうひっかきまわすと、向こうでもおどろきゃあがって、残った魚をくわえて、つゥーと、こんどは屋根のてっぺんへ上がっちめえやがって、ここまでは竿がとどくめえて顔をしやがって、げらげらと笑った……」 「猫が笑うか」 「こうなりゃあもう、飼い主が相手だとおもいましたから、隣のうちの前でどなってやった。『ええっ、ぜんてえ、てめえのうちがよくねえ。高慢な面《つら》ァして猫なんぞ飼やあがったって、ろくなものを食わせねえから、猫が近所じゅう泥棒してあるくんだ。猫に稼がして、てめえとこはめしのお菜《かず》にするんだろう? こんな手くせの悪《わり》い猫がいたひにゃあ、長屋十八軒、枕ァ高くしてめしを食うことができねえ』って」 「変なことを言っちゃあいけないよ。枕ァ高くして寝ることができねえってえのはあるが、めしを食うてえのは聞いたことがねえ」 「ぐずぐず言やがんなら、おれが相手ンなるから出てきやがれってんで、どなったがね、近所じゃあしィーんとして、鳴りをひそめてやがんの、えへへへ、あっしの威に恐れて……」 「嘘をつけ、むこうで気狂《きちげ》えみてえなやつだから、相手にしねえんだ」 「すると、うちのかかあが出てきやがって、『なにをおまえさんばかなことを言うんだ。お隣には、ふだんからいろいろご厄介になってるのに、猫が魚をとったぐらいのことで、そんなことを言うもんじゃあないよ。たかが猫がしたことじゃあないか。猫のしたことだよ』てんで、むやみと猫の肩を持ちやがる……こうなると、あっしだっておもしろくありませんからね。こんどはかかあに言ってやった。『この女《あま》め、てめえだって人間に籍があるってえのに、なにも猫の肩持つこたああるめえ。そうやって肩持つところをみると、てめえ、隣の猫とあやしいな』てんで……」 「猫とあやしいてえ、そんな話があるか」 「あっしは、だから、かかあとばばあに言ってやったんで……『ぜんてえ、てめえたちがまぬけだから、こういう騒ぎが持ちあがったんだ。猫があれだけの鰺をまさかいっぺんに持っていったはずはあるめえ。それを人間が二匹もいやあがって……』」 「おいおい、乱暴だな、言うことが……人間が二匹てえのは……」 「いいんですよ、あんなやつらは二匹で……、それから、てめえの出てくる幕じゃあねえ、引っこんでやがれってんで、いきなりあっしはそこでかかあの横面《よこつつら》をぽかっ……」 「どうした?」 「ぽかっ……と撫《な》でた」 「撫でた? ははあ、殴ったな?」 「まあ早く言えば」 「おそく言ったっておんなじだ」 「不思議なもんですね。去年までは、ぽかりといくと、そのはずみで二まわりくらいとんでひっくり返ったんですが、このごろはあっけねえ、ぽかりとやると、どたりとその場へ倒れちまう。ぽかどた[#「ぽかどた」に傍点]ってえやつ、ああ弱くなっちまったんじゃあ、来年はもう引退ですかねえ」 「なにを言ってるんだ。角力《すもう》じゃああるめえし……じゃあ、おかみさんも泣きわめいたろう?」 「ええ、泣きましたねえ。わーわーわーわーってんで……しかしねえ、うちのかかあてえものは、面ァまずいが、泣き声がいいんでしてね、あっしゃあ、あの泣き声で飼っとくんでさあ」 「それじゃ小鳥だよ、ばかっ」 「すると、その泣き声にびっくりしやあがって、うちから、ばばあがでてきやがってね、『おや、おまえは、また嫁をぶったんだね。なにかてえとおめえは嫁をぶつが、そんなにその子をぶちたけりゃ、あたしをおぶち』って、都々逸みてえなことを言いますからね、おあつらえならってんで、拳固《げんこ》をふりあげて……」 「あきれたやつだ。殴ったのか? 年寄りを……」 「いえ、殴ろうとおもったけども、なにしろひょろひょろしたばばあだからねえ。下手《へた》に殴ってこわしたひにゃあ、あとが厄介だとおもったから、この畜生めッ……と、拳固はふりあげたが、しまっちゃった」 「うん、そりゃあ感心だ、おもいとどまったか?」 「いや、あらためて蹴とばした」 「いやはや、どうも……じつに言語道断だ、自分のおふくろを蹴とばすとは、あきれたやつだ。おめえのようなやつには店《たな》ァ貸しておくわけにはいかねえから、店ァあけろ」 「なんだい? 店ぁあけろってえのは」 「ああ、お入用《いりよう》の節は、いつなんどきでも、すみやかに明け渡しをいたしますという、店請《たなうけ》証文が、こっちに入っている。さしあたって入用なことはねえが、貴様のような親不孝者を置くと長屋の名折れになる。店をあけろ」 「大きな声だな、どうも……じじいのくせに腹あしっかりしてんな」 「なんだ?」 「店ァあけろてえのは、家をあけるのか?」 「家をあけろ」 「お? すごいじじいだね、……お、そりゃあいけねえや、じゃあ、あやまら……」 「なんだ、だらしのねえやつだ。……なんだ、あやまるんなら、ちゃんとあやまれっ」 「じゃあ、すいません」 「じゃあ、とはなんだ」 「ごめんよ。ねえ、ごめんねえ」 「なんだ、子供の喧嘩じゃねえや。なんだ、ごめんねえとは……ちゃんとあやまらねえか」 「へえ……お爺ちゃん勘忍してちょうだい」 「ばかにすると殴るぞ。両手をついてあやまるんだ」 「なんだって?」 「いままでは、重々《じゆうじゆう》心得ちがいをしておりました。これからは、了見をいれかえて親孝行にはげみますから、どうぞお店《たな》へおいてくださいまし」 「ええ、そのとおりでござい」 「なにを言ってるんだ。あやまるのに、そのとおりてえやつがあるか。困ったもんだ。まあいいや……おまえのおとっつぁんてえものは、食べる道は仕込んだが、人間の道というものを教えねえから、おめえのようなべらぼうができあがっちまったんだ。昔から、親不孝するようなやつにろくなやつはいねえ。いまのうちにせいぜい親孝行しておけ。孝は百行《ひやつこう》の基という……」 「へーえ、そうですかねえ」 「無二膏《むにこう》や万能膏《ばんのうこう》の効目《ききめ》より、親孝行はなににつけても……」 「してみると、親孝行は、あかぎれやしもやけにも効きますか?」 「なにをばかなことを言ってるんだ……孝行のしたい時分に親はなしというぞ」 「そうですかねえ」 「さればとて、墓石《いし》に布団も着せられず」 「ふーん、なるほど」 「わかったか?」 「わかりません」 「ひとが話をしているのに、なにを聞いてる?」 「おまえさんのあごがぴょこぴょこ……動く……」 「この野郎、ひとが叱言を言ってりゃ……あごの動くのを見てやがるっ」 「まあまあ怒っちゃあいけねえや……じゃ親孝行しろとご隠居さんは言うのかい?」 「そうだ、子と生まれて親を大事にするのが人の道だ。昔は、孝行するとお上から青緡《あおざし》五貫文のごほうびをくださったてえほどだ」 「へーえ、親孝行なんて儲かるもんなんですねえ」 「なにを言ってる。儲かるってえやつがあるか。なんでもいいから、親を大事にしろ」 「ああ、そうか。大事にすりゃいいんだな。じゃあうちに大きな葛籠《つづら》があるから、あんなかへ古い綿《わた》でも敷いて、ばばあを入れてどっかへ頂けましょう」 「ばかっ、そんなことで大事にしたことになるもんか」 「だって親孝行ってえのはやりつけねえもの、どんなことをすりゃあいいんで……」 「どんなことと言って……そうさなあ……昔から、親孝行な方はいくらもあるが……なかでも有名なのが二十四孝だ」 「ああ、知ってる」 「えらいな、知ってるか?」 「ええ、あの……きれいなお姫さまが出てきますね、八重垣姫ってんでしょ……『おまえの姿を絵にかかせ』なんてえやがってね」 「おまえの言うのは、それは芝居の『本朝二十四孝』という。わたしの言うのは唐土《もろこし》だ」 「あ、もろこしか。じゃあ団子よりほかに知らねえや」 「なんだ、しょうのないやつだ……この中で、二、三おまえにわかりやすいのを話をして聞かせる……王褒《おうぼう》という方があってな」 「ああ、赤い魚だね、頭の角張《かくば》った……」 「あれは|魴※[#「魚+弗」、unicode9b84]《ほうぼう》だ、王褒、お、う、ぼ、おゥ」 「うぷッ……人間の面てえものは、うっちゃっとくとのびますね」 「殴るぞ、ばかにしやがって、おい。ひとにものを聞いといてまぜっかえすやつがあるか」 「おうぼおゥてんだな、ええ、わかった。そん畜生がどうした?」 「そん畜生とはなんだ……この方に一人《いちにん》のおっかさんがあった」 「へえ」 「たいそう親に孝をつくしたが、とる年でおっかさんが亡くなった」 「捜したらいいだろう?」 「そうじゃあない。死んでしまったのだ」 「ああ、くたばったのか」 「ぞんざいな口をきくな……泣く泣く野辺の送りをすませ、それからというものは毎日母の墓前へながいこと涙をこぼして、まだ名残《なごり》を惜しんでいる。と、ちょうど初七日のこと、夏のことで一天にわかにかき曇って初雷《はつらい》がきたな」 「岡持に入れて持ってきたんで……」 「それは誂いだ、雷さまが鳴ってきた、王褒のおっかさんてえ人は雷が大嫌い、そのとき王褒が裸になって、母の石碑にすがりついて『母上ご安心なさいまし、王褒これにおります』と言って、亡き母にまで孝をつくしたというな」 「冗談言っちゃあいけねえ。この野郎はばか野郎だ。だっておまえさん、雷の鳴るときにゃあ臍《へそ》でも取られちゃあいけねえてんで、裸になってるやつさえ着物を着るんだ。ごろごろ鳴ってる最中にすっ裸になって、そこへ雷が落っこったらどうする、え? おうぼう(ほうぼう)火傷《やけど》をすらあ」 「なにを言ってるんだ……おまえのような者ならば、落雷のために命《めい》おわるかもしれんが、それが雷が落ちないというのは、孝行の威徳によって天の感ずるところだ」 「なんだい? 天の感ずるところって……」 「天が憐《あわ》れんでこれを助ける。孝行の徳だ」 「へーえ、不思議なもんですねえ。ご隠居まだありますかい?」 「孟宗《もうそう》てえのがある」 「もうそう[#「もうそう」に傍点]よりは食っちゃあ淡竹《はちく》のほうがうめえってね」 「孟宗というのは人の名前だ」 「うーん」 「この方が大の親孝行だ。寒中にな、おっかさんが筍《たけのこ》が食べたいとおっしゃった」 「おっしゃりやあがったねえ。寒中、筍なんぞありっこねえ。そんなばばあは、とても面倒みきれねえから絞め殺せ」 「乱暴なことを言うな」 「で、どうしました?」 「おまえの言うとおり寒中で雪の降ってるときに筍というんだから、こりゃあ無理な話だ。しかし、どうか差しあげたいものだと、鍬《くわ》をかついで竹やぶへ行って、あっちこっち捜してみたが、どうしても筍がない。これでは母に孝をつくすことができないてんで、天を仰いで、はらはらと落涙におよんだ」 「へーえ、まぬけな野郎だねえ。筍がねえんだったら、やぶをにらみそうなもんじゃあありませんか。天を仰ぐなんて、まるっきり見当ちげえだ。ははあ、見当ちげえのことを、やぶにらみってえのは、これが元祖ですか?」 「くだらんことを言うな、少し黙っておいで……ああ、残念なことであると、さめざめと泣いていると、足もとの雪がこんもり高くなった。そこを鍬で払いのけると、ころあいの筍が、地面からぬーっと出た」 「ほう、いい仕掛けになってますねえ」 「仕掛けじゃあない、ほんとうの筍が出た」 「うぷッ、そんな……だってばかばかしいや。いくら親孝行だって、天をにらんで涙をこぼしただけで筍がぴょこぴょこ出てくるんなら、八百屋は買い出しになんか行かねえよ。みんな竹やぶへ行って、わーわーわー泣くねえ」 「さ、その出ないはずのものが出るというのが、孝行の威徳によって天の感ずるところだ」 「あっしも、そんなことだろとおもってたが、なんでえ都合が悪くなると、すぐ感ずるんだからなあ、ずるいや……じゃあ、とにかく感ずるところとしときましょう。で、それを食わしたらよろこんだでしょう?」 「ああ、たいそうなよろこびかただ」 「そうでしょうねえ。あんまりうめえから、もっとおかわりをくれと言ったら、もうそう(孟宗)はねえって……」 「なにをおまえ言うんだ」 「しかし、こいつぁおもしれえねえ……まだほかにありますか?」 「王祥《おうしよう》という人がいた」 「ああ、寺の?」 「和尚じゃねえ。王祥という名前の人だ。この人は継母《ままはは》につかえて大の孝行、いたって家が貧乏。これも寒中のことだ。重病のおっかさんが枕べで鯉が食べたいとおっしゃった」 「ぜいたくなことをおっしゃったねえ。唐土《もろこし》のばばあてえものは、どうしてそう食い意地がはってんだい? で、買って食わしたのかい?」 「もとより貧乏だから買うことができない。そこで、釣り竿を持って池へ釣りに行ったんだが、厚い氷がはっているから釣ることができない。しかたがないから、裸になって、この氷の上に腹ばいになって寝たんだ」 「へえ、つまり氷の上に寝るのが趣味なんだ」 「ばかっ、そうじゃあない。身体の温か味で氷を溶かそうてんだ」 「冷《つべ》てえね、そりゃあ……で、どうしました?」 「そのうちに氷が溶けてな、そこから鯉が飛び出したので、寝ているおっかさんにこれを食べさせたところ、これまで草根木皮の力もおよばぬ病が、その鯉を食してから全快をしたというな」 「うふっ、笑わしちゃあいけねえ。そんな話があるもんか」 「どうして?」 「だって、うまく鯉が飛び出すだけの穴があいたなんて……だいいち、氷が溶けるほど人間が寝てごらんなさいな、人間のほうが先へ冷《つめ》たくなっちまうじゃあねえか。てめえの腹ンとこだけ溶けるならいいが、身体ごとすっぽり池の中へおっこっちゃって……てめえの方があえなくそこで往生(王祥)しちゃう」 「なにをくだらねえことを言ってるんだ。おまえのような不孝者ならば、一命をおとすかもしれないが、これは、孝行の威徳が、天の感ずるところでおっこちない」 「あああ、親孝行なんてものは、都合のいいようにできてるんだねえ。ちょいと具合が悪くなると、天の感ずるところ……てんだからねえ。まだありますか?」 「まだある。呉猛《ごもう》というのがある」 「ああ、牛蒡《ごぼう》ね」 「そうじゃない。呉猛だ……この方に一人《いちにん》のおっかさんがおった」 「ちょいと待っとくれよ。さっきから聞いていると、唐土にはばばあばっかりしかいねえんですかい?」 「そんなこともないが……で、この呉猛の家がいたって貧乏だ」 「ふーん、ばばあと貧乏でつながってんだな」 「夏になっても蚊帳《かや》をつることができない」 「なに言ってやんでえ」 「どうした?」 「どうしたもこうしたもあるもんか。さっきから貧乏だ、貧乏だって、貧乏のところだけ力をいれやがって……それもいいや、夏になって蚊帳がつれねえたあなんでえ……唐土まで行かなくったって、江戸にだって、つらねえうちは、あらいっ」 「どこのうちだ?」 「おれんとこだい」 「つまらねえことでえばるなよ……毎晩蚊にさされて、どうしても眠ることができない。なんとかしておっかさんだけでも蚊に食わせたくない。一晩ゆっくり眠らせてあげたいと、子供のことでほかに分別がないから、酒屋へいって|※[#「さんずい+胥」、unicode6e51]酒《したみ》という安い酒をもらってきて、裸になってこれを身体へ吹きつけ、『どうか母を刺さずに、わたしにたかって腹を肥やしてくれ。打ちも叩《たた》きもしない』と、夜っぴてうつ伏せになって寝た」 「蚊が出ましたろうね。講中を組んで、わーっとたかって刺し殺した」 「ところが、その晩にかぎって一匹も出ない」 「あれっ? おかしいじゃねえか。蚊は酒が好きだってえじゃねえか」 「さあ、そこだ」 「どこです?」 「捜すんじゃあねえ、出るべきはずの蚊が出ないというのが、つまり、孝行の威徳によって……」 「おーっと、天の感ずるところだ」 「そうだ」 「へへへ、もうこんどこそおまえさんに感じさせちゃあおもしろくねえから、さきに、感ずっちまった、あははは、感ずりそこなったなあ、ざまあみろ」 「なにを言ってるんだ」 「けども、その呉猛てえやつは、利口じゃあありませんね。あっしならそんなことはしませんね」 「ほう、どうする?」 「二階の壁へ酒を吹きます」 「うん」 「蚊がよろこんで、みんな二階へ上がってしまうでしょ?」 「うんうん」 「蚊がみんな上がりきったところで、そーっと梯子をとる」 「呆《あき》れた奴だ」 「まだほかにありますかい? その感ずるやつが……」 「なんだい? その感ずるやつてえのは……このほかに郭巨《かつきよ》という人がいた」 「ああ、漬物屋にあるやつ? らっきょでしょ」 「郭巨だ……この人にも一人《いちにん》のおっかさんがあった」 「またばばあですかい」 「女房に子供がいた……いたって貧乏だ」 「そうでしょうね、食いつぶしが多いから……で、ばばあはなにを欲しがった?」 「いや、欲しがらない。おっかさんはお年を召して、なにも召しあがらない。そこで、嫁の乳を差しあげた。ところが母に乳を飲ませると、子供にやることができない。子供に飲ませれば母に乳を差しあげることができない。子のかけがえはあるが、親のかけがえはない。わが子があるために母へ十分に孝行をつくすことができない。夫婦相談の上、ふびんではあるが、子供を生き埋めにしようということになった」 「ひでえことをするねえ、冗談言うねえっ」 「おいおい、お待ち、そう怒ってもだめだ。その昔の唐土の話だから……山へつれてって、子供を埋めようというんだが、さすがに親子の情にひかれて、一鍬いれては涙をうかべ、二鍬目には落涙し……」 「三鍬いれては、くしゃみをし……」 「と、鍬の先にガッチとあたったものがある。掘り出してみると、それが金の釜だ」 「へっ、甘酒屋の焼け跡だね、金の釜だとおもったが、ブリキの色つけだろう」 「いや、釜ったってめしを炊く釜じゃない。金の塊を一釜、二釜という……金の延べ棒だ」 「ふーん」 「これに『天、郭巨に与うるものなり、他の者これをむさぼるなかれ』と書いてあった。すぐにこれをお上《かみ》へ届けると、おまえに授かったものだというので、これを頂戴して、昨日までの貧乏がたちまちにして大金持ちになったという」 「はあ、しかし、あてずっぽうに掘ってよく金の釜を掘りあてましたね」 「そこが天の感ずるところだ」 「あ、いけねえ。感じようとおもっているうちに、さきへ感ずかれちゃった、こすいぞ」 「こすいってやつがあるか……まあ、おまえもこれからあんまり乱暴なんぞしないで、親孝行をしなよ」 「親孝行てえのは、そういうことをすりゃあいいんですかい? よく、わかりました。へえ、ようがす。じゃあね、これからさっそく、うちのばばあも、あっしゃあ孝行しちまわあ」 「だいいちおまえ、親をつかまえてなんだ、そのばばあてえのは、もっと丁寧に言え」 「丁寧に? じゃあ母上とかなんとか……」 「母上?……どうもあまりあらたまって変だが、悪い言葉じゃあないからよかろう」 「そうですか、じゃあこれから、母上にね、親孝行のほうにとりかかるから、おどろくな」 「まあ、せいぜい大事にしな」 「おう、おっかァ、いま帰った」 「どこへ行ってたんだい?」 「隠居のところよ……それより、これから親孝行にとりかかるから、びっくりするなよ」 「なんだい? 親孝行にとりかかるてえのは……」 「うちの母上はどうした? 母上は?」 「ははうえって、なんだい?」 「ばばあだよゥ」 「その隅にいるよ。ばかばかしい」 「ばかばかしかあねえや……なるほど、こんな隅っこでかたまってやがら……痩せこけちまって、ろくに肉なんかついちゃあいねえや。ガラだね、まるで……これじゃあ目方で売ってもいくらにもなりゃあしねえ……おう、母上、母上……居眠りしてやがらあ……うすぼんやりしちゃあいけねえ。今日からおめえに、おれは親孝行するから、おめえもそのつもりで覚悟しなくっちゃあいけねえぜ……鯉をおめえにおれが食わせよう、なあ……どうだ、食いてえだろう?」 「……? 鯉を食わせる?」 「どうだよ、おどろいたろう……食うか、鯉を」 「めずらしいことがあるもんだ。煎餅のかけら一つでも食えと言ったことがないのに、鯉を食えだなんて……。せっかくだがおれはなあ、川魚は泥臭えから、昔から嫌《きれ》えだ」 「嫌《きれ》えか?……じゃあ筍ならどうだ。食うか?」 「もう歯がなくなっちまって、堅いものはだめだ」 「じゃあ、鯉なら柔らけえから食えるだろ?」 「嫌《きら》いだてんだよ」 「だって我慢すりゃ食えるだろう。え? たんと食わなくったっていいや、こっちもおめえ、都合があるんだから……」 「頼まれてもいやだよ」 「じゃあ筍を食いねえな」 「堅えから食えねえ」 「のんじまえばいいじゃあねえ……少し食いねえ、頼むから……後生だから……」 「くどいよ。嫌《きれ》えなものはいやだよ」 「勝手にしゃあがれっ、狸ばばあめっ、せっかく、人が食わせようとおもやあ、嫌《きれ》えだの、歯が悪《わり》いだの、すべったころんだ言やあがって……こん畜生め、食わねえったって食わさねえじゃあおかねえぞ……口を割って無理にねじこんで、踵《かかと》で蹴こむから……そうおもえ」 「なに言ってるんだよ。そんな乱暴なことして親孝行になるもんかね」 「なに言ってやんでえ、よってたかって人の親孝行の邪魔をしやあがって……おうおう、辰、辰公じゃあねえか?」 「おう、うちにいたのか?」 「どこへ行くんだ?」 「これからむしゃくしゃするから一杯《いつぺえ》やりに行こうってんだ」 「どうしたんだ、いま時分?」 「なーに、いま、おやじと喧嘩して飛び出してきたんだ」 「どうして?」 「どういうもんだか、うちのおやじときたひにゃあ頑固でしょうがねえんだよ。仕事を早目に切りあげて、うちへ帰って一杯《いつぺえ》やろうとしたら『てめえみてえな卵の殻《から》が尻《けつ》へくっついてるやつが、明るいうちから酒なんぞくらって生意気だ』とこう言いやがる。むやみに人を子供あつけえにして癪にさわるから、『なに言ってやんでえ、この耄碌《もうろく》じじいめ、勝手にしやがれ』ってんで、いまうちを飛び出してきたんだあ」 「この野郎、親不孝なやつだ。こらっ、てめえは親不孝だぞ」 「うふっ、笑わしちゃあいけねえや。てめえこそ名代の親不孝じゃあねえか」 「おれは名代の親不孝、てめは新名題の親不孝だ」 「なんだい? 新名題てえのは役者だな、まるで……」 「なんでもいいから、そこへ座れ」 「なんだい?」 「どうもおめえのような者はないな。言語ひょうたんのやつだ」 「なんだ?」 「なんでもいいから、すぐに店《たな》をあけろ。おめえのような親不孝なやつを長屋に置いとくわけにいかねえから、店をあけろ、店をあけろっ」 「店をあけろって、どうするんだ?」 「おめえの住んでるうちをあけるんだ」 「大きなお世話だ。あれはおれのうちだ」 「おめえのうちでもかまわねえ。あけろ、あけろっ」 「そんなわからねえやつがあるもんか」 「よく聞けよ。昔から孝は……ひょっとこの基だ」 「なんだい?」 「無二膏や、絆創膏《ばんそうこう》や按摩膏《あんまこう》、親孝行はどこへつけても……」 「なんだい、薬屋の看板か?」 「そうじゃあねえや……こうこうの漬《つ》かる時分に茄子《なす》はなし」 「へえー」 「さればとて、南瓜《かぼちや》は生《なま》で食われねえ」 「なんのことだ? さっぱりわからねえや」 「そうだろう。おれにだってまるっきりわからねえ……もろこし……もろこしだ。もろこしに四十孝てえのがあった。この中で……なあ……ぽうぽうてえ人があった」 「ぽうぽう?」 「この人に一人《いちにん》のおっかさんがいて、いたってうちが貧乏だ……てんだ。これで、もろこしは、貧乏とばばあがみんなつながってんだ。おぼえてろい。で、ある雪の降る寒中に、このおっかさんが鯉が食べたいとおっしゃった。なにしろ親孝行な人だ。よろしゅうがすてんで鍬を持って裏の竹やぶへ行ったんだ」 「え? おかしいじゃあねえか。鯉が食いてえってのに、竹やぶへ行ってどうする?」 「黙って聞いてろ……あっちこっちと掘ってみたがどうしても鯉が出ねえ」 「あたりめえだ」 「これじゃあとても親孝行ができねえ。どうしたらよかろうと、天をにらんで、からからと笑った」 「なんだい?」 「足の下の雪がこんもり高くなったから、鍬で払いのけてみると、ころあいの鯉が飛び出した」 「嘘をつけ」 「この鯉をおっかさんに差しあげて孝行をしたってんだ。どうだ、おどろいたろう」 「だっておめえ、竹やぶゥ掘って鯉が出たのかい?」 「さあ、出ねえところを出るのが天の感ずるところだ。これすなわち、てんかん[#「てんかん」に傍点]てえやつだ」 「なんだか話がちっとも、まとまらねえなあ」 「まとまらなくってもいいから、とにかく親孝行をしろ」 「こりゃあおどろいたなあ。おめえに親孝行の意見をされるとはおもわなかったぜ……そうか、じゃあ飲みに行こうとおもったが、うちへ帰っておやじと仲直りでもするか」 「そうしろ、そうしろ、親孝行をすれば、お上《かみ》より青緡五貫文のごほうびがもらえる」 「くれるか?」 「やりてえけれども、いま銭がねえから、いくらかおれに持ってこい」 「なにを言ってやんでえ」 「あははは、おどろいて帰っちまやあがった……なあ、婆さん、おめえ鯉を食わねえか?」 「またはじめやがった。いやだよ」 「しょうがねえな。これじゃあ親孝行ができゃあしねえ。どうしたら?……ああ、いいことがある。おい、おっかァ、子供をつれてこい」 「どうするんだい? うちに子供なんかいやあしないよ」 「じゃあ、隣の子を借りてこい」 「隣の子をどうするのさ?」 「生き埋めにするんだ」 「なんだって? おまえさん、気でもちがったのかい? いいかげんにおしよ」 「ばばあも、おめえも、おれが親孝行して、銭儲けをしようとすると邪魔ばっかりしやあがって、どうしてそうさからうんだ……あっ、そうだ。まだあった。親孝行が……おい、酒はあるか? ねえ? なかったら一升ばかり買ってこい。なんでもいいから買ってこい。ええ? 親孝行するったっていくらか元《もと》を掛けなくちゃあなあ……婆さん、もう寝なよ」 「まだ日暮れにはだいぶあるよ」 「じゃ、雨戸を締めちまえ」 「戸を締めたって表はまだ明るいよ」 「表は月夜だとおもえっ」 「まだ眠くないよ」 「眠くなくたっていいから、さあさあ、寝ちまいな。こっちはまじないにとりかかるんだ。親孝行てえのはむずかしいもんだ……ああ、買ってきたか。よしよし。こっちへよこせ。婆さんが蚊に食われねえようにしてやるから……ふーっ、ふーっ……ああいい匂《にお》いだ。この匂いじゃあたまらねえ……けれども、この身体へ吹いておくやつが、だんだん消えちまうとつまらねえ。おんなじことなら、腹のなかへ吹きこむほうがもちがいいだろう。腹のなかなら匂いだってすぐ消えやあしめえ。このほうが蚊のためにもおれのためにもいい……ああ、うめえ、うめえ。なるほど親孝行てえのはやってみると悪くねえもんだなあ。こんなことならもっと早く親孝行にとりかかりゃあよかった。これなら、おらあ仕事をやすんで毎日親孝行をやってらあ、隠居も無駄には年齢《とし》をとってねえ……ああ、腹のへってるところへ吹きこんだら、よけいきいちまった。どうもありがてえ……あーあ、すっかりいい気持ちになった……」 「おまえさん、どうしたんだねえ、裸でこんなところへ寝ちまってさあ」 「いいから、みんな寝ちまえ。……おれはもう親孝行のほうで頑張るから……ああ、ありがてえ、親孝行でござい……グーッ、グーッ……」  夜ががらりと明けると……、 「ちょいと、起きな起きな。いつまで寝てるんだ」 「うう…ん、あ…ああ、あはは、おっかァ、てえしたもんだなあ。おれが酒飲んで、すっ裸で寝ていたのに、ゆうべにかぎって蚊が一匹も食ってねえ。うーん、これがすなわち、天の感ずるところだ」 「なに言ってんだよ。あたしが夜っぴて煽《あお》いでいたんだ」 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 寄席は以前(江戸末期から明治初期にかけて)、娯楽としてのウェートの他に、大衆を啓蒙する…ものを教える役割を担《にな》っていたことは否めない。いわゆる耳学問が通例であった。噺家が高座で、家主や隠居や先生になりかわって、八っつぁん、熊さん、与太郎に聴かせるように、わかりやすく、おもしろおかしく世の中の条理を浸透させた。  さて、この「二十四孝」は、中国の元時代(一二七一—一三六八)に撰録された孝子物語集で、わが国へは室町時代に翻訳され、徳川幕府が国民道徳として儒教を採用するとともに、広く奨励され、普及された噺である。噺の主眼は、そうした教訓・説諭にあるのだろうけれど、こう残酷で、非人間的な親孝行を押しつけられては、熊さんならずとも反発し、くだらないとおもうほうが自然で、健康ではないか。仮に家主の言うことをその場その場でうなずいてはみても、最後には熊さんの味方になってしまうところが、大衆の賢明さであり、強さではないか。『落語・大衆芸術への招待』で加太こうじ氏は、サゲの説明で、「このつづきがあるなら、熊さんは『なにをよけいなことをしゃあがる、このたぬき婆あ』といって朝飯をかっこんで弁当を持って仕事にいったであろう。(中略)形式的な親孝行を暗に否定しながら母のありがたさを感じさせるようにしくんである」と書いている。  この噺、内容は古めかしくて今日《こんにち》頂けないが、サゲのひと言には、落語のすばらしさがみちみちている。「天災」[#「「天災」」はゴシック体]参照。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   売り声   先々《さきざき》の時計になれや小商人《こあきうど》  あの豆腐屋が来たから何刻《なんどき》だとか、あの八百屋が来たから何刻だよ……と、そうなるのはたいへんですが、昔はみんな町内を売り声でもって、いろいろな商売が往来したものです。  売り声というものはむずかしいもので、豆腐屋は、 「トーフー」  と言えばよさそうだが、家の中にいては豆腐と聞こえないそうで、なれた方は、 「エーウーイ」  これで、豆腐に聞かせるそうで……、なかには、 「アヤーウーイ」  なんて、あやしいのがある。  納豆屋は、 「なァッとなッとォ…なァッとォ……」  と、糸を引いたようにやらないといけません。 「なッとなッとッ……」  なんてえのは、納豆がこちこちしているようで……。   一声《ひとこえ》と三声《みこえ》は呼ばぬ玉子売り 「タマーゴー」  と申しますと、 「ドーレ」  道場の取りつぎが出て来るようでいけません。三声でも具合いの悪いもので、 「タマゴタマゴタマゴー」  あとからだれか追っかけてくるようで、これは、二声《ふたこえ》に限ります。 「タマゴー、タマゴーォ」   大根とつくべき文字につけもせず、いらぬ牛蒡《ごぼう》をゴンボーという…… 「ダイコンやダイコン、ダイコンやダイコン」  これではごりごりしてス[#「ス」に傍点]がありそうで、そこで、 「デェーコ、デェーコ」  なんとなく、泥がついて、水々しく聞こえます。  牛蒡の売り声も一声《ひとこえ》では具合いが悪い。 「ゴボッ」  なんか掘っているようで、これを続けて言うともっと具合いが悪い。 「ゴボ、ゴボ、ゴボ、ゴボッ……」  井戸の中へ徳利でも放りこんだようで……、そこで、大根のいらない「ン」の字をいれて、 「ゴンボー、ゴンボー、ゴンボ」  一声《ひとこえ》でも二声でも売り声のむずかしいのが、麩《ふ》でございます。麩屋さんですね。一声ですと、 「フウ」  なんか吹いているようで、二声でもおかしい。 「フウ、フウ」  なんか冷《さ》ましているようで、三声でやると、猫の喧嘩《けんか》みたいになりまして、 「フウフウフウ」  屋の字をつけるとなお悪い、 「フヤ、フヤ、フヤ」  鼻の障子がないようです。ですから、「ござい」という言葉をつけます。 「えー、フ屋でござい」  一声半《ひとこえはん》という売り声がございますが、これは、唐辛子屋。 「トンゲェー、トンガラシェー」  頭へトンゲということをつけます。  夏になると、金魚とか、鈴虫とか、心太《ところてん》とか、それだけで季節の移り変わりがわかりました。心太屋もやはり、一声半で売り歩きます。 「ところォてんやァ……、てんやァ…い」  苗《なえ》も売りにきました。苗屋は、声を自慢にして歩いています。 「苗やァ苗、隠元《いんげん》の苗やァ…夕顔のォ苗……」 「白粉《おしろい》の苗ありますか?」 「今日はァ持ってェこない[#「ない」に傍点]……」  持ってこない苗《なえ》なんてえのはない。  定斎屋《じよさいや》というのもありました。箪笥《たんす》の細長いようなものを担いで、かたんかたん、かたん、音をさせて……盲縞《めくらじま》の半纏《はんてん》にねずみの股引をはいて、脚絆《きやはん》がけに草鞋《わらじ》、炎天を笠もなにもかぶらないで歩いて、渋っ紙のような色をしている。 「定斎屋でござァーい」 「ああ、定斎屋さん、定斎をのんでるから、あんなに丈夫なんだよ」  もっとも、患ったときは、出てきません。  金魚屋の声もまことに涼やかで、五月ごろから浴衣《ゆかた》がけに置き手拭というのをしまして、一町一声……ながくのばして、 「メダカー……キンギョーォウ」  この売り声を聞くと、自然と眠気《ねむけ》を催します。  これと逆なのが魚屋、死んでいる魚《さかな》を生きているように、 「オーイワシッコオッ」  はねっ返るように大きな声で売り歩きますから、眠っていても、びっくりして目をさまします。  これをあべこべにやったんでは具合いが悪い。魚屋の売り声で金魚を売ると、 「メダカッキンギョッ」  これでは金魚がびっくりして目をまわしてしまう。魚屋の陰気なのはまた具合いが悪い。 「イ…ワショ…ォ…」  これでは、生きてる魚も死んでしまう。 「オーイワシッコオ、オーイワシッコ」  と、魚屋が向こう鉢巻で威勢よく売り歩いていると、すぐあとから、 「フルイ、フルイ、フルイー」 「おい、おい、よせやいっ、人の商売へケチをつけるね。てめえ、うしろからつけてきやがって、古い古いってやがら、魚|河岸《かし》から買い出してきたばっかりで、ぴんぴんしている魚だ。こん畜生っ、おれの鰯《いわし》が売れねえじゃねえか。もっと裏のほうかなんか行ってやれ」 「そうはいきませんよ。あたしだってこれ商売ですからね。篩《ふるい》屋なんだから、裏のほうなんざだめですよ。やっぱりこれ表通りでなきゃあこういう物は買ってくれるところはないんだから。あたしも商売……」 「篩屋か、へんな商売が来たな、おれは生《なま》ものを売ってるんだ、あとから『古いー』とついてこられちゃたまらない。向こうへ行ってやれ」 「あたしはいつもここらを売って歩くんで、そんなに気にすんなら、おまえさんがほかを売って歩いたらいいでしょう」 「生《なま》もののあとだから具合いが悪いと言ってるんだ、わからねえ野郎だな、おめえなんぞは骨董屋の店先なんぞへ行ってやれ。じゃあ、おめえ先でやれ」 「あたしはあとでも先でもこれさえ売ればいいんですから、じゃあ……フルイ、フルイフルイー」 「オイワシッコオ……だめだ、古い鰯になってなお悪いや。ほかへ行かねえと張り倒すぞ」  魚屋と篩屋と喧嘩になった。そこへ古金屋《ふるかねや》が仲裁に入った。 「お待ち、お待ち、なんだって商人《あきんど》が喧嘩してんだ。どっちも商売だ。出商人《であきんど》が往来で喧嘩すりゃあお互いにお得意さまを一軒ずつでも損するじゃないか。あたしが仲人《ちゆうにん》になって仲を扱う、悪いようにしないから……まあ、魚屋さん、おまえさん、先へ立ってやんな、篩屋さんも……あたしがそのあとを行くから……」 「じゃ、まあお願いします」 「オーイワシッコオッ」 「フルイー、フルイー」  そのあとから古金屋が、 「フルカネー、フルカネー」 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 江戸市内の季節感・生活感を伝える�売り声集�。マクラ噺で、往来で商売する噺「うどん屋」[#「「うどん屋」」はゴシック体]「かぼちゃ屋」「豆屋」「孝行糖」などに挿入される。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   船徳 「若旦那、ちょっとこっちへいらっしゃい」 「へえ」 「へえじゃございません。困ったもんですな、どうも。河岸へ行っちゃああいつらと一緒んなって悪戯《わるさ》をしていなすっちゃあ。あたしが、こうしてお世話をしているのも、大旦那さまの手前、およばずながらお詫び言でもしてえと心配をしているんで……。それなのに、このあいだも湯へ行って、ひょいとあなたのうしろ姿を見ると、ほんの筋彫りだけれども、刺青《ほりもの》をなすったようだが、若旦那、いったいどういうご了見なんで?」 「それについちゃあ、ちょいとおまえさんにお願《ねげ》えごとがございますんで……」 「なんですねえ若旦那。お願《ねげ》えごとがございますって、あなた、口のききようからしてこの節はすっかり変わっちまって、やっけえだの、じゃあねえのということが、ちょいちょいわたしの耳に入りますが、じつにどうも困ったもんで……で、お願いというのはなんなんで……」 「いやほかでもないんだがね、どうせおやじは勘当を許す気遣いはない。こないだだって番頭の清吉にちょいとそとで会ったところが、とてもお詫びはかないそうにもございませんと、こう言うじゃねえか。なんでも、わたしが三尺締めて歩いてんのを、どっかでおやじが見かけてね、身装《なり》までああいう下品のことを好むようじゃ、とても商人《あきんど》の家へは入れられない。親類から夫婦養子をして家を継がせると、こうまで言われちゃしかたがない、わたしも覚悟をきめちまったよ」 「なんです、その覚悟をきめたてえのは」 「おまえさんとこの稼業《しようばい》をやらしてもらいたいとおもってね、どう、ひとつ船頭にしてもらいたいんだ」 「若旦那、あなたみたいな細い身体《からだ》でねえ、船頭なんぞになれやしません」 「なれやしねえったって、おんなし人間じゃねえか、みんなやってんじゃねえか」 「みんなやってるったって、そればっかりはお考え直しになったほうがよござんすよ。また、暑い時分はこれでいい稼業のようにも見えますがね、寒くなって雪でも降ったり、北東風《ならい》でも吹く時分になってごらんなさい。『これから堀まで仕事があるんだ、行ってくれ』などと言われると、それこそ身を切られるようなおもいで、艪《ろ》を押したり、棹《さお》を突っ張らして、『ああ、船のなかの人は暖かくして、これから遊びに行くという楽しみがある、それにひっかえ、こっちは送ってって、また寒い川のなかを船漕いで帰らなきゃならない。なんてつらい稼業《かぎよう》だろう、ああいやだいやだ』とおもうことがいくらあるか知れませんよ。それでも、どうやらこうやら、まあこんなちっぽけな船宿の一軒も持てるようンなればいいほうです。ま、悪いことは申しませんから、船頭ンなるなんていう考えはおよしなさいまし」 「そうかい。おまえさんがだめってことならしかたない、お暇をもらって……」 「暇をもらうって若旦那、そいじゃなんだかわたしがあなたを雇ってでもいるようですね」 「うん、よそへ行って船頭ンなるよ」 「困りましたね、まあ、あなたがたってなりたいと言うものなら、おとめするのもなんですが……若旦那ほんとうに辛抱ができますか?」 「するとも。……それじゃね、店の若い者をみんなここへ呼んどくれ。……わたしが仲間に入ったしるしにね、ひとつ、ここでぱあっと散財をしましょう」 「散財は結構ですがね若旦那、入費《にゆうひ》がかかりましょう?」 「そりゃ承知のとおりで、いまわたしは一文なしだ、そこんところはおまえさんが一時立て替えるんだよ」 「あなたのおっしゃることは、いちいちどうもしまりませんね。まあようがしょ、若い者を呼びましょう。お清、お清、……返事ばかりするない、呼んだらすぐ来ねえかい」 「はーい」 「若《わけ》えやつらが河岸にいるから、呼んどいで。大急ぎの用があるって、おれがそう言ったっていうんだ」 「はーい。……熊さーんっ、八っつぁーんっ、熊《くま》ン八《ばつ》つぁーん」 「また呼んでやがら、ちぇっ、無精な呼び方があるもんだ。熊《くま》ン八《ばち》だってやがら。よせやい、別々に呼べ。なんだい、めしかあ?」 「呼びさえすりゃおまんまだとおもってんだね、食い意地がはってるよ、ほんとうに。おまんまじゃないよ、親方が呼んでるよ。みんなに叱言《こごと》を言うんだって、こわい顔してる」 「わかったよ。すぐ行くからって、そう言ってくんねえ。おい、親方が叱言《こごと》だってさ」 「嘘だよ。お清の言うことなんかあてになるもんか。あんな法螺《ほら》吹きはありゃあしねえや。こねえだだってそうだ。おれが河岸で褌《ふんどし》を洗ってたら、あいつが、『燃えだしたあ、燃えだした』って言うんだ。おだやかじゃねえから、おらあ飛んでったんだ。『どこが燃えだした?』と聞くと、『竈《へつつい》の下が燃えだした』って言うんじゃねえか。『ばか、いいかげんにしろ』って、河岸へ帰ったら、褌が流れちまってた。それっきりおらあ、褌をしめてねえ」 「汚《きたね》えな」 「嘘じゃないよ……親方ぁ、みんな、あんなことを言って来ませんよゥ」 「野郎どもっ」 「おい……おい、聞いたか、あの『野郎どもっ』ってえ声を? え? 叱言だよ……おう、伊之、おめえ、なんか心あたりはねえか?」 「えっへっへっへ、どうもすまねえ」 「よせよ、おい。すまねえって、なんかやったのかい?」 「よしゃあよかったんだよ、こねえだ、あんまり暇だったから、新艘《しんぞ》を大川まで出したんだ。気が張ってねえときはしかたのねえもんだね、舳先《へさき》を橋杭《はしぐい》にぶつけちまってね、先のほうを少し削《けず》っちまったんだ。すぐに大工《でえく》のほうへまわしときゃあよかったんだが、気がつくめえとおもって、先のほうを荒縄で巻きつけといたんだが、親方ぁ商売気ちげえだ、あれがばれたかな」 「それにちげえねえや。それだよ、きっと……それにしてもおかしいな。みんなに叱言っていうなあ……おい、寅、おめえ、なんか親方に叱言を言われるこたあねえか?」 「あはは、どうもしょうがねえ」 「しょうがねえって、なんかあったのかい?」 「十日ばかり前だったが、ちょっと祝儀をもらったもんだからね、いつもごちそう酒ばかりでうまかねえや。たまには手銭で一杯《いつぺえ》やりてえとおもってね、『ぼうずしゃも』へ行って、すっかり酔っぱらっちゃって、隣の客に喧嘩ふっかけてね、徳利三本と皿四、五枚かいちまったんだ。さては親方の耳に入《へえ》ったかな」 「それだよ、それにちげえねえや……ここでぐずぐず言ったってしょうがねえや。向こうは叱言を言おうと待ってるんだ。こういうときはね、叱言を言われねえうちに、こっちが先へつぅーとあやまるってえやつだ。もうこれしかほかに手はねえんだ」 「では、なにぶん頼まあ」 「じゃあついてこい。どうも手数がかかるやつらだ。……へい、親方、どうもあいすみません」 「みんなこっちへ入《へえ》れ」 「へい、みんなこっちへ入《へえ》れとよ」 「えっへっへ……入《へえ》らねえほうがいいや。叱言《こごと》はあんまりそばへ行かないほうがいい。叱言は、こうやって頭を下げてりゃあ、上のほうを通っちまうから……」 「あんなことを言ってやがら……へえ、親方、どうもあいすいません。伊之の野郎でござんす……あんまり暇だってんでね、新艘をいたずらしちまやぁがったんで、舳先を橋杭へぶつけて、先のほうを少し削っちゃったてえんです。だから、やったらやったでしょうがねえ、なぜ大工のほうへまわしとかねえてんでね、いま叱言を言ったとこなんで……気がつくめえなんてんで、荒縄で巻きつけといたなんて、そんな横着なことをしといちゃいけねえって、いまさんざっぱら叱言を言ったとこなんで……へえ、お腹もお立ちでしょうが、今日のところはあっしに免じてひとつご勘弁|願《ねげ》えてえもんで……」 「伊之、なんだっておめえは、いつもどじ[#「どじ」に傍点]なんだ。客があったらどうするつもりなんだ? なぜ大工のほうへまわさねえ。いつやったんだ? おれはちっとも知らなかった」 「えっ? 畜生、おしゃべりだねえ、こいつぁ、おい、親方は知らねえんじゃねえか」 「知らねえったって……そうだろうとおもったから、先に言ってあやまったんじゃねえか……じゃあ親方、寅のやつで、へえ……ちょいと祝儀をもらったもんですから、いつもごちそう酒ばかりでうまくねえから、たまには手銭で一杯《いつぺえ》やりてえてんで、『ぼうずしゃも』へ行って、すっかり酔っちまって、隣の客に喧嘩ふっかけて、徳利三本と皿を四、五枚かいちまったてんですが、それが親方の耳に入《へえ》ったんだろうってね」 「どうもうちにゃあろくな野郎がいねえな。どうしててめえたちはそうなんだ。いま聞きゃあ『ぼうず』で飲んで暴れりゃ、うちの暖簾《のれん》にさわるんだぞ、飲んだくれ野郎め、おい、寅、てめえってやつは……いつやったんだ? ちっとも知らなかった」 「えっ?……こん畜生、みんなしゃべっちまやあがった。親方ぁ知らねえや……てめえばかりいい子になりゃあがって、こんなおしゃべりはねえなあ」 「まあいいやな。ぐずぐず言ったって、できたこたあ、しょうがねえや。これから気をつけろ。そんなこって呼んだんじゃねえんだ。ここにいる若旦那だ。おとめしたんだがどうしても船頭ンなりてえと、こうおっしゃるんでな。それで、おまえたちを呼んだんだ」 「えっ、若旦那が船頭に? おい、聞いたかよ、そうじゃねえかとおもってたね。なにしろ、こないだうちから、船いたずらしてましたからね。若旦那、おなんなさいよ。ありがとうござんす。そいつはなんにしてもおめでとうございます。たいへんな、ご出世で、まことに結構」 「なにを言ってんだ。財産のある商家の若旦那が船頭ンなって、なにがめでたい」 「へえ、じゃあご愁傷さまで」 「ご愁傷てえやつがあるか。まあ、できるかできねえか、とにかく面倒みてやってくんねえ」 「ええ、かしこまりましたとも……ねえ若旦那、あなたが船頭ンなりゃあ、わっしたちだって肩身が広《ひれ》えや。それにあなたなんざあ柄がいいや、オツなこしらえでもって、艪《ろ》へつかまって、裏河岸をひとまわりしてごらんなさい。どう考《かん》げえたって、芝居に出てきそうな船頭ができるね。いいえ、ほんとう……柳橋の芸者衆がほっとかないよ……音羽屋っ」 「ばかっ、てめえたちがそんなことを言うから、若旦那がよけいにのぼせて船頭になりたがるんだ。そうと、若旦那、船頭ンなりゃ、若旦那ってえわけにもいかねえや、まあ、徳兵衛という立派な名前もあることだし、おめえたちの仲間になりゃあ徳なら徳と、こう呼んじゃあ……いいでしょう?」 「ああ、そうしておくれ」 「こいつは弱ったね」 「なにが?」 「なにがって、いままで浴衣の一枚ずつもくださったり、祝儀だって人一倍はずんでくださった若旦那をだなあ、仲間に入《へえ》ったからって、すぐ名前の呼びつけはしにくいじゃねえか」 「なに言ってやんでえ。そんなことを言ったら若旦那だってお困りなさらあ……あっしは呼びつけにしますぜ。え? やってみろ? いまですかい? いまねえ……そうですか、ええ、呼びつけにしますけれどもね……いえ、できねえことはねえけれど……やい、やい、やい、やいってんだ」 「なんだ、それは?」 「いえ、あっしだって恩人を呼びつけにするんですから、やい、やいってんで景気づけをしなくっちゃあ……では、若旦那、はじめますよ。ええ、やい、やい、やい、やいってんでござんす」 「なに言ってるんだ」 「むずかしくって、どうも……これがずつと離れてたらすぐにできるんだが……おーい、おーい、へっへっへ……いまやるよ。ほんとうに。おーい、へへへへ、徳やーいてんで、ごめんなさい」 「あやまってやがらあ」  とうとう若旦那、船頭になった。「竿は三年、艪は三月《みつき》」というが、たいへんにむずかしいもので……。  四万六千日——。暑いさかり。  浅草の観音さまに、この日一日お詣りをすれば、四万六千日お詣りしただけのご利益があるというので、この日は人出でにぎわう。 「暑いね。お詣りもいいがね。この埃《ほこり》をあびていくのがいやだね。こうしようじゃないか。柳橋に大桝《だいます》てえ船宿を知ってんだが、あそこへ行こうじゃねえか」 「およしよ。いやだよ。おまえさんはすぐ船に乗りたがるけど、あたしゃ船は嫌《きら》いなんだから……」 「けどさ、この暑さだよ。今日はあたしにおまかせってんだ。君はね、臆病だから……あたしがついてるから大丈夫だよ……こんちは」 「おや、いらっしゃいまし。まあよくいらっしゃいました。どうぞ、お布団を……まあお暑いじゃあございませんか。ここんとこあんまりおいでがないから、どうなすったかとお噂申しておりました。お連れさま、どうぞお入り遊ばして、どうぞどうぞ……まあ、六千日さまで、お詣りに……そうでございますか……ねえ、旦那、先日の妓《こ》がね、もういっぺんあなたにお目にかかりたいと、わざわざ訪ねてきましたの……いえ、ほんとなんですよ」 「おい、お、おかみ、変なことを言っちゃあ、あたしゃ友だちといっしょなんだよ。あの……さっそくだが、大桟橋まで船を一艘仕立ててもらいたいんだが……」 「まあ、ありがとう存じますけれど、なにしろ、今日《こんにち》は、六千日さまで、お船はみんな出払っておりますんで、お気の毒さまでございます」 「そいつぁまずいね。友だちがいやがるのを無理につれて来たんだから、それじゃあ、あたしの立場がないじゃねえか。あっ、そういえば、おかみ、河岸に一艘|舫《もや》ってあったぜ」 「あら、ごらんになったんですか。お船はございますんですけど、お役に立つ若い者がおりませんので、ほんとうにごあいにくでございます」 「そいつぁまずいなあ……そこんとこをなんとかしてもらうのが、馴染《なじ》みじゃねえか。なあ、おかみ、そうでしょ……おいおい、おかみ、嘘《うそ》言っちゃいやだよ。若い者がいねえって、その柱に寄りかかって居眠りしてるじゃねえか? 若い衆なんだろ? あっはっは、とっときだね? お約束だね? こうしよう、手間はとらせない。あっちへやってもらったら、すぐに返すから、貸してくれよ、いいだろ?……ねえ、おい、若《わけ》え衆、若え衆」 「へっ、ただいまっ……あっ、あーあ……あっ、お客さまだ。へっ、いらっしゃいまし」 「若い衆、あの、お約束だろうけどもねえ。ちょいと大桟橋《おおさんばし》までやってもらいたいんだ。すぐ帰すよ、いいだろう?」 「へっ、ありがとう存じます。ただいますぐにまいりますから……」 「ちょいと徳さん、徳さん、お馴染みのお客さまなんですからね。もし途中でまちがいでもあるといけませんからね」 「へえ、おかみさん大丈夫ですよ。やらしてくださいよ。近ごろじゃあね、腕がもうびゅんびゅん唸《うな》ってますから、この前みたいにひっくり返すようなことはござんせん」 「おい、おいっ」 「え?」 「えじゃないよ。いまあの男の言ったことを聞いたかい?」 「なにが?」 「なにがって、近ごろじゃあ、腕がびゅんびゅん唸ってます。この前みたいにひっくり返すことはござんせんてえ……じゃあ、前にはひっくり返したんじゃねえか」 「大丈夫だよ。嘘だよ。船なんてものはねえ、ひっくり返そうたってひっくり返るもんじゃないよ。君は臆病だね。この若い衆はね、寝てるとこを起こされたもんだから、寝ぼけたんだよ……ねえ、おかみ、大丈夫だねえ」 「ええ、まあ、大丈夫でござ……」 「へっへえ、大丈夫でござんす、ただいますぐまいりますから……」 「さあ、さあ、早くおいでよ。さあ、手をとってあげるから……大丈夫だよ。そこは、少ししなったって……ほうら、どっこいしょのしょっ……どうだい、いい心持ちだろう?」 「いい心持ちだろうって、まだ、いま乗ったばかりで船は動いちゃいない」 「えへ、なにを言ってんだよう……おかみ、乗せました、乗せたよ。火箱は来てるよ……。おまえさんは、船は嫌いだ、嫌いだって言うけど、これから蔵前通りを歩いて行ってごらん。暑いし人出だってたいへんだ。そこへいくと、船は埃をあびないし、涼しいし、水の上すーっといく気なんてじつにいいもんだから……どうでもいいけど、若え衆はどうしたんだい? 暑いからすぐ出してもらいてえんだが……厠所《はばかり》へでも入ってるんじゃねえかい? おかみ、お手数でも見てきておくれよ……ねえ、もうちょっとの辛抱だよ。これで船が出れば、涼しい風がくるし、それに船てえものはお腹が空くから、向こうへ行って酒はうまいし、食い物はうまいし、きっとおまえも好きになるよ……おかみ、どうしたい、船頭は? えっ、厠所にいない? なにしてるんだろう? 蛇形の単衣《ひとえ》に白玉の三尺、芥子玉の手拭でむこっぱち巻き、ちょっと威勢がいいとおもったがね、いやにぐずだね、早く大川へ出なくちゃ暑くてしょうがねえや。あっ、あんなとこから出てきやがった。どうした、若え衆、やに遅いじゃあねえか」 「へえ、ちょいとただいま、髭《ひげ》をあたってましたんで……」 「色っぽいね、どうも。おい聞いたかい? 客を待たしといて、髭をあたるもないじゃねえか」 「へい、あいすみません。そのかわりひとつ威勢をつけまして……」 「早くやれっ」 「へえ、……じゃあおかみさん、行ってまいります……いよッ(竿で川底を突く)……いよッ……いよッ」 「徳さん、徳さん、腰、腰を、腰を張って」 「(ぐいッと力を入れ)いよッ……いいーよッと」 「おい、おい、若え衆、なにを唸《うな》ってるんだよ。いくら唸ったって出るわけはねえ。船はまだ舫《もや》ってある」 「へっ? あっ、どうもあいすいません。ちょっとあわてたもんですから……では、縄をときまして……」 「殴るよ、ふざけると……いつまで寝ぼけてんだい、しっかりしろっ」 「あいすいません……へえ、よッ……えへへ、出ました」 「あたりめえじゃねえか」 「旦那、お危のうございますから、お気をつけ遊ばして……」 「やだよ、おれは。聞いたかい? お危のうございますからてえのは、おだやかじゃないよ、君」 「大丈夫だよ、洒落《しやれ》ですよ、ねえ若い衆……まあ、文句は言ったものの、若い船頭はいいね、なんといってもきれいごとだ。いくら腕がよくってもね、年寄りの船頭はいけませんよ、水っぱなかなんかたらしてるのは痛々しいや。どうだい、え? いいもんでしょ。船の具合いは?」 「おまえは好きだから、一人でそうやって喜んでますがね。あたしゃあんまり好きじゃないからべつにうれしかあないよ。おまえ船頭は若いのがいいってえが、この船頭は船頭にしちゃあ少し色が白いんじゃないか?」 「おう、若え衆、いつまでもそう竿ばかり突っぱってねえで、いいかげんに艪《ろ》とかわったらどうだなあ」 「へっ、ここんとこを出ますあいだ……よッ……え、こんにちは、お日がらもよろしくて……」 「おい、若え衆、挨拶なんかどうでもいいよ。おっ、船がまわるよ」 「へえ、ここんとこは、いつも三度ずつまわることになってまして……」 「おい、若え衆、三度っつまわるって喜んでちゃあいけませんよ。おい、どうなるんだっ」 「ああっ、立っちゃいけませんよ。だ、だし抜けに立っちゃあだめですよ……いよっ、よいしょ、よいしょ……お詣りもたいへんでござんすね、こう暑くちゃあ……もし、そちらの太った旦那、あなた、もう少しこっちへ来てくださいよ。太ってて、先のほうへいかれたんじゃ、梶がとりにくくってしょうがねえ。素人は、なんにも知らねえから困っちまうな……わからねえんだから……竹屋のおじさーん、竹屋のおじさーんっ、あのお客をね、大桟橋まで送ってきますからあー」 「徳さん一人かぁーい? 大丈夫かぁーい?」 「おいッ、おれはあげてもらいたいなあ、おい、いま変なことを言ったよ」 「大丈夫だよ、うるさいね君は。……若え衆、大丈夫だよね?」 「へえ、大丈夫でござんす……えへ、この前、ちょいとまちがいがあったもんですから……それでああやって心配して……」 「この前ちょいとまちがいがあったって、どんなまちがいがあったんだい?」 「ええ、たいしたこたあねえんでござんすがねえ、子供を連れたおかみさんを、川ん中へ落っことしちまって……」 「そら危ねえなあおい……そらずっと前の話なんでしょ? この節ぁそんなこたあねえんだろうね?」 「へえ、大丈夫です。どうぞ、ご安心なすって、大丈夫でござんすから……」 「ご安心なすってって、ご安心はしてるけどねえ、若い衆、どういうわけのもんだい、この船てえものは、ばかにまた端《はし》へよるね。まん中へ出ねえじゃねえか。おい、石垣へくっつきそうだよ」 「へえ……さよでござんす。この船てえものは、石垣が好きでござんして……」 「蟹《かに》みてえな船だな。おい、おい、ほんとに石垣へくっつくよ。あー……とうとうくっついたよ。くっつきましたよ」 「へっ、くっつきました」 「おい、くっつきましたってすましてちゃしょうがないじゃあないか。どうなるんだ?」 「どうなるんだって、あなた方、そこでさっきから文句ばかり言ってるが、船なんてえものは、なかなかおもうようになるもんじゃございませんよ。そんなこと言うんだったら、あなた、こっちへきてやってごらんなさい。……そのコウモリ傘を持った旦那、ちょいと石垣を突いておくんなさい」 「こんなに用の多い船てえのはないね。突くのかい? 突くよ、そらッ……いよッと、ああ、あああ、だめだいだめだい……石垣のあいだ、おい、コウモリ傘はさんじゃったよ」 「へえ……もう離れたらおあきらめください。もうあそこへはまいりません」 「なんだいおい。行かねえのかいおい……あそこへ傘が見えてて取れねえのは、情けねえ……」 「いいじゃねえか、おまえ、傘の一本や二本、命にはかえられねえや。どうせあれは福引きで当たったんじゃねえか」 「福引きで当たったっておれのもんじゃねえか……だめかい? 取れねえのかい? おい、どこで損をするかわからねえや。ま、しかたがない……」 「どうだい、船の乗り心地は? 具合いはどうだい?」 「具合いどころじゃないよ。運動になるったってなりすぎますよ。のべつにお辞儀ばかりしてるじゃないか」 「おまえばかりお辞儀してるわけじゃない……あたしだってお辞儀してるじゃないか。お互いに失礼がなくっていいや。これなら、向こうへ行ってお互いに食い物がうまいよ。……よくこなれるよ」 「こなれすぎるよ。こんなにゆれちゃあ、臓物《ぞうもつ》までこなれちまうよ」 「ちょいとわたしは、煙草を一服つけたい心持ちなんだがね。その、火箱を取っておくれでないかい。取っておくれよっ」 「君、なにもね、この最中《さなか》に煙草を吸うこともないでしょ……さあ、おつけなさい。さあ、おつけなさいって言ってるのに……この人は、なにをしてるんですよ……わたしがこう前へ出したときにおつけなさいてえんだ」 「おつけなさいったって、あたしがこう出すとひっこましちゃうんじゃねえか。……どうしておまえさんは意地の悪いことをするんだい? 君とは、長年の、つきあいでしょっ……君がそういう、了見ならば……こっちは……こっちで……あっ、ついた。煙草を吸うのにこの騒ぎだ……おい、おいおいっ、この船はどうなってるんだい? おいおい若え衆、流れてるよ。流れて行くよ」 「へえ、なにしろその、目に汗が入っちまって、もうなんにも見えねえんですよ。すいませんが、旦那方、向こうから船が来たら、よけてください」 「おい、なにを言ってるんだよおい……」 「あなた方、水天宮さまのお守り持ってますか?」 「冗談じゃねえや。だからあたしはいやだって言ったでしょう。あたしはね君、厄年なんだから……」 「おい、まいっちゃったよ、この船頭」 「まいっちゃったじゃないよ。あたしゃ、こんな船に乗ったことがないよ。三年ばかり寿命をちぢめちゃったよ。おどろいたね、だいいち桟橋へ着かないじゃないか」 「おい、若い衆、しっかりしとくれよ。もうひとっ丁場だよ。あそこに見えてるじゃねえか。大桟橋だよ、もうわずかだから……若い衆、頼むよ」 「へえ、へえ……もうだめなんで……」 「おい、もう行かないんだよってどうする?」 「どうするったってしょうがないから……水のなかへ入っていくんだよ」 「おい、冗談言っちゃあいけないよ。だから、あたしが、いやだ、いやだてえものをおまえが無理やり乗せたんじゃないか……だからあたしをおぶってっとくれ」 「だけど、ねえ、ここは浅いんだよ。底が見えてるじゃないか……いいよ、おぶってやるよ、尻をはしょって、下駄を持って、忘れもんはないかい? では、あたしの背中にしっかりとおぶさるんだよ。いいかい……大きな尻《けつ》だね。君てえものは男のくせに、いいかい? ちゃんとつかまっとくれ、いいね、よっこらしょっと。……おい、若え衆、おれたちは上がるけどね、おまえさん、まっ青な顔して、しっかりおしよ、大丈夫かーい?」 「へっ……へっ……お客さま、お上がりになりましたらねえ……柳橋まで船頭一人雇ってください」 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 「船宿なんかはとくに食客のいそうな職業である。いままで移り変わりの仕着《しきせ》から小遣いまでくれていた船頭たちと、一緒の食膳ということもならず、三度三度二階へ膳を運んで、ときには謀叛気の起きない程度の徳利も載せてきたりして、湯銭はむろんのこと、貸本屋の見料にまで気を配って、若旦那を退屈させまいとする人情などは、いまでは夢のまた夢である」と、安藤鶴夫著『落語鑑賞』にある。若旦那の場合、深刻[#「深刻」に傍点]な意味でなく、こうした人世の知恵者のいる船頭の仲間入りをしたくなるのもうなずける。それを聞いて「音羽屋ッ」というのもうれしい。もともとは人情噺「お初徳兵衛」の発端で、にわか船頭の箇所は「お厩《うまや》橋のところで船がぐるぐるまわって、どうにもこうにも仕様がなかったが、まあどうやら堀の桟橋へつけました」と至極簡単、それをステテコの円遊が漫画的に改作し、今日のような独立した噺になった。後篇では、徳さんも一人前の船頭に成長し、気風はよし、男っぷりもよく、芸者の色もでき鞘当ても盛んになる……そのうち芸者お初を船で送る途中、夕立にあい、船を舫《もや》って雨の晴れ間を待っているうちに、昔のより[#「より」に傍点]が戻るという濡れ場に重点がおかれ、お初に惚れている油屋九兵衛のために、二人は心中をするということになる。近松門左衛門作の『曾根崎心中』をもとにした長篇である。演出には八代目桂文楽と八代目林家正蔵の二つの型があるが、十代目金原亭馬生は二つの型を混合《ミツクス》して、得意の演目にしていた。夏の風物誌として欠かせない噺。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   お化け長屋 「杢兵衛《もくべえ》さん、聞いたかい? さっきここで家主《いえぬし》がどなってやがったのを……ほんとうにいやなじじいだなあ。こっちも悪いにゃあちがいないが、なにもあんなにとろとろ[#「とろとろ」に傍点]言うにゃあおよばねえじゃあねえか」 「ああ、源兵衛さんかい? 聞いてたかい?」 「うん……なあ、杢兵衛さん、ここの家主ぐれえしゃくにさわるやつはねえなあ。空き家にものをいれたって、『長屋の物置にしようとおもって、ここのうちを空けとくんじゃあねえ。ものをいれたやつは、調べあげて店賃《たなちん》を割り当てる』だってやがる。小憎らしい言い草じゃあねえか」 「まったくだ。おれもよっぽど飛び出して文句の一つも言おうとおもったんだが……」 「言ってやりゃあいいじゃあねえか」 「うん、飛び出そうとおもったんだが、店貸が三つもたまってるからな」 「だらしがねえな」 「ああ、あそこへ顔を出して催促でもされたひにゃあ、かえって気がきかねえとおもったから我慢をしたんだよ。じゃあ、どうだい、物置に使ってるといったんだから、向こうのお望みどおり、ほんとうにあの空き家を物置にしちゃおうじゃないか?」 「だって、あのうちだって、借り手が来るだろう?」 「だから、貸さないようにしようじゃないか。さいわい家主は二十間もはなれて、通りで荒物屋をしているから都合がいい。いいかい、おまえさんは路地の入口だ。おまえさんが向こうで、わたしが奥だ……もし、家を借りにきたやつがいたら、奥が差配だとかなんとか言って、わたしのところへよこしな。おれがそいつをあしらって、貸さねえようにすれば、家主は当分、店賃が一軒分入らねえ。それでおれたちで物置に使おうじゃねえか」 「なるほど、おれァ家主の頭を張り倒してやろうとおもったが、杢兵衛さんはさすがに年の功だ。こいつは、うめえ……じゃこれから、長屋の者に触れておきますから、よろしくたのみますよ」 「ああ、まかせときな」 「少々、うかがいますが」 「え? なんですか?」 「こちらに貸家がございますが、お家主《いえぬし》はどちらでございましょうか?」 「ええ、家主はね、ちょっと遠方《えんぽう》でね、差配が、万事とりしきっているんで……」 「そのお宅はどちらで?」 「この奥で、あの、四つ目垣のちょっとこわれた家があるでしょ? あそこに住んでいるのが、この長屋のいちばんの古株で、あだ名を古狸の杢兵衛さんてえぐらいでね、その人に聞けば、すっかりわかりますから……へっへっへ」 「あの四つ目垣のお宅で……ありがとう存じまして……ええ、ごめんください」 「はい、なんですね?」 「ええ、古狸の杢兵衛さんはこちらでございますか?」 「なんだい、どうも。陰で古狸と言われたこたァあるが、面とむかって、古狸と言われたなあ初めてだ……なんです?」 「あそこの、路地から三軒目の空家《うち》を拝借したいとおもいましてね、入口のかたにうかがいましたら、お宅で万事、おわかりだそうで……」 「えっへっへ、まあ……間取りはね、あたしのところとたいしてちがいません。入口が二畳で、玄関、それから四畳半の、奥が六畳、間《ま》は三間《みま》で……ちょいと縁側もついているし、庭もあり、ようがすよ」 「ええ、いまちょっと拝見してまいりました。つきまして店賃はどういうぐわいで……」 「店賃?……うう……そうですね。まあ二十銭も払ったらいいでしょう」 「二十銭? へえー、またずいぶん安いんですね……で、敷金とか、造作などは?」 「いや、敷金などは、お預かりしたところで、どうせ返さなくっちゃあならないし、面倒だからいりません。造作はいうまでもなく残らずついておりますよ」 「……では、前家賃ということでも?」 「べつにそんなものはいただきませんよ……まあ、住んでいただければ、こっちからいくらか住み賃を差しあげたいくらいのもんで……」 「住み賃? なんだかお話がよくわかりませんが……そんないい家で、造作がついてて、敷金も店賃もないというのは、どういうわけなんでございましょうか? なにか事情があるんじゃあございませんか?」 「ええ、そりゃあ、まあね……引っ越してきたあとで、こんなことがあるなら、なぜ話をしてくれなかったかと、恨みごとを言われるのもいやだから、ちょっとお話をいたしますが……(陰気に声をひそめ)ま、とにかくこちらへ……おかけなさい」 「えへへへへ、そんな声を出さないでくださいよ。あたしゃ、あんまり気の強いほうじゃあないんですから……」 「あの家は、ちょっとうしろに大きな木があって、日あたりが悪いので、まことに陰気でいけない」 「ははあ、それで……」 「いや、そんなことならだれでも住むが、そういうわけではない。……じつはな、以前、あすこにちょっと小金を残した夫婦が入っていたんだが、このおかみさんというのはなかなかの美人で、どちらかといえば、おかみさんが切れ者というか、まあ口も八丁手も八丁、働き者で、長屋のつきあいも如才がなく、そのうえ亭主が稼いでくるいくらかでも貯めて、けっして無駄ということをしない」 「へえ」 「そんなわけで、この長屋ではいちばんの身代になって、この長屋の者で借りのねえやつはねえというくらいだ。それで金を貸してもなかなか情け深くってひどい催促はしないというふうだから、近所でみんなよろこんで借りる。利が利をうむというのだから、ますます金はふえるばかりだ」 「結構なことでございましたな」 「ところが、満《み》つれば欠けるというが、ご亭主がちょっと病にとりつかれたのがはじまりで、枕があがらなくなった。さあ、それがもとで三月《みつき》か四月《よつき》患って、とうとう死んでしまった」 「おやおや」 「その時分にはもうそうとうの身代になっていたから、あとへのこったおかみさんだって困るということはない。奉公人もなく、あいかわらず一人で金貸をしているから別段に、貯まればといって減ることはない」 「なるほど安心でございますな」 「ところが、死んだ亭主がたしか四十いくつで、おかみさんはそのとき三十いくつだ……女|寡婦《やもめ》に花が咲くで、はじめのうちこそ質素にしていたが、百か日がすみ、一周忌がすむというと、襟《えり》白粉《おしろい》をつけ、口紅でもさすというふうになり、ちょっと表へ出るにも薄化粧をして着物を着がえるとかする、だいたいがいい女だ」 「へいへい」 「『石塔の赤い信女が子をはらみ』という川柳《せんりゆう》があるがね。いくら賢《かしこ》いものでもさてこの道ばかりは別なものだ」 「へえ」 「悪いやつにこのおかみさんがひっかかった。迷いてえものはしようがないもので、から夢中。近所の評判てえものはたいへんだ。またこの野郎がひどいやつで、根こそぎ取ったよ。わずか三年ばかりのあいだに何千とあった金をのこらずしぼりとって、しまいにおかみさんのちょっと外へ出る着物まではぎとってしまった」 「へえ」 「すっかり取り上げていよいよもう逆さにふるったって鼻血も出ないというようになったら、ドロンをきめて、いたちの道だ。おかみさんは気ちがいのようになって、うろうろしたがどこへ行ったか影もかたちも見せない。さあいよいよ気が変になって、だんだん痩せてくるばかり、目はくぼみ、頬骨が高くなり、髪をふり乱して……それがまたいい女だけにいっそうすごい。夜中になると、その逃げた男のことを口にして、神だか仏だか知らねえが、一所懸命祈っている、あまりものすごいので両隣のものは引っ越して行ってしまう。それがもう四、五年前の話だ」 「へえ、なるほど」 「とどのつまり、どっと枕について立ち居もままにならないというありさまだ。ある夜のこと、水が飲みたくなって這《は》い出したが、手をのばして流しの水瓶《みずがめ》の水をくんで飲もうとして、転がり落ちた。近所でもひどい音がしたとおもったが、夜中のことだからだれも行きもしなかった。すると長屋に親切な糊売りのお婆さんがいる、朝夕に飯汁をもって行っては世話をやいていた」 「なるほど」 「その翌《あく》る朝《あさ》、お婆さんがいつものように飯汁をもって行くと、この始末だ。お婆さんが『きゃッ』と声をあげたのでみんなが行ってみると、どこで切ったのか顔のところからだくだく血が流れて、唇が切れていて、口から舌が半分だらりと出ている。目は開いたっきり、天眼というやつだ。両方の手はよほど苦しんだものと見えて、きゅーっとにぎっている。見ただけでぞっとするくらいだ」 「へえ、へえ……たいへんなものでございますな」 「もう息が絶えたのかとおもうと、その姿でいてまだ息があるんだよ、それでしきりに逃げた男の名を呼んで恨んでいるのだ。婆さんが起こそうとおもって手をかけると、『口惜しいっ』と言って、ばりばり歯ぎしりをしたかとおもうと、それで一巻のおわりだ」 「へえー」 「もとより親類もなにもない女だし、店請《たなうけ》をした人もいまはどこかへ引っ越して行ってわからない。死骸の引取人がいないから、長屋の人がいくらかずつ香奠《こうでん》を出しあって、かたちばかりの葬式を出し、墓地を三尺四方ばかり買って、そこへ葬ってやった。長屋にもなかなか奇特な人がいて、いまだにおりおり墓詣りをしてやっているものもある」 「へえ、なるほど」 「それから、すっかり造作などを直し、きれいにして貸家の札《ふだ》をはると、すぐに借りに来るものがある。しかしそれがみんな長くいないよ、たいがい二晩か三晩、臆病な人は一晩で引っ越して行ってしまう」 「へえー」 「そんなわけでもうあそこの家もかなり長く空いているんだ。いまじゃあ、だれも借り手がいないんで、長屋じゅうの物置に使ってるというわけだ。それをおまえさんが承知ならかまわないが、また二晩や三晩で引っ越して行っちまうんだったらなんにもならないが……敷金も前家賃もいらないが、住んでみますか? どうです?」 「へえ、そりゃこんな結構な話はありませんが……どういうわけでみんな二晩か三晩で越して行くんでございましょうね」 「それがだ、あたしもあまり不思議だから聞いてみたんだよ……すると、借りた人の言うには……夜もしだいにふけわたり、草木も眠る丑《うし》三つどきになるてえと……びらびらっ……と青い火が燃える」 「うわーっ……わたくし、ほかにも用がありますので……」 「まあ、待ちなさい。せっかく話しかけたんだから……いずこで打ちだす鐘の音か、陰にこもって、ボォーン……」 「へえ……もう、け、け、結構でございます」 「すると、仏壇のなかで、鉦《かね》が、ひとりでにチーン、障子へ髪の毛が、サラサラサラとあたるような音がすると、縁側の障子が、するするするするっと、ひとりでに開《あ》く……ひょいと枕もとを見ると、死んだおかみさんが、血みどろの姿で、越してきた人の顔をうらめしそうにのぞきこんで、けたけたけた[#「けたけたけた」に傍点]っ……」 「へ、へ、へえ……」 「『よく、あなた。越しておいでだねえ』と言いながら、長い細い白い手がぬっと出て、冷たい手で、寝ている人の顔を下から上へ……すーっとなでる」 「きゃーッ」 「あははは、なんて臆病な野郎なんだ。『きゃーッ』てんで、はだしで逃げちめえやがった。あれっ、蟇口《がまぐち》を落としていきゃあがった」 「杢兵衛さん、なんだい、いまの騒ぎは?」 「ああ、いま、怪談ばなしでおどかしてやったあげくにね、幽霊が冷たい手で顔をなぜるてえときに、そばにあった濡れ雑巾で顔をさかなぜにしてやった」 「悪いいたずらをするねえ。野郎、まっ青ンなって、塵溜《ごみため》ェ蹴とばして出てったぜ」 「あと見たら、蟇口を落としていきゃあがった」 「蟇口を?」 「ああ、たいして入っちゃあいねえが、あとで、長屋の者で、すしかなんか、ちょっとつまもうじゃあないか」 「そうか。ありがてえなあ……じゃあ、また借りにきたら、むけてよこすから、頼むぜ」 「ああ、いいとも、どうせあたしゃ、用なしで退屈だから、どんどんよこしてくれ」 「おう、いるかい? 古狸っ」 「あれっ、たいへんなやつがきやがったな、いきなり古狸だってやがら……あたしゃ、杢兵衛ってんだ」 「ああ、てめえが、たぬもく[#「たぬもく」に傍点]か?」 「なんの用だ?」 「おめえは差配か? あそこの貸家を借りようってんだ」 「あたしは、この長屋のいちばんの古株で、長屋の草分けだ」 「なにを言ってやがる。こんな小汚《こぎたね》え長屋に巣をくってやがって、ええ? 表へ這《は》い出すこともできねえ、古狸だなんていわれて、気のきかねえ野郎だ」 「言うことが、いちいち乱暴だな……そんなに、なにも悪く言うんなら、おまえさんこそこの長屋へ来なくったっていいだろう」 「なにもこんなところへおれァ永代《えいたい》居ようってんじゃあねえやなあ、おれなんざあ、いまの親方のうちへ厄介になってるんだ。来月ンなると、女がおれんとこへ来《き》ようってえ約束になってるんだ、なあ。夫婦そろって、おめえ、居候ってえのは気がきかねえから、こんな小汚《こぎたね》え長屋でもいいや、なあ。おれがとぐろ[#「とぐろ」に傍点]を巻いてりゃあ、女が『ちょいとあなたや』かなんかで繰りこんでくるんだぜえ……ふふふふ、いい女だぞ、ほんとうに。水を汲みにきたりなんかするとき、変な目つきをしやがると、ひっぱたくぞ、こん畜生」 「ぷッ……。まあ、変な目つきなんかしねえから安心しろ。ところで、ご案内してごらんにいれてもいいが、まあだいたい間取りはおんなじで、入ったところが二畳、四畳半の奥が六畳……」 「広すぎらあ……まあ、広くって文句は言えねえが……で、なにか? 敷金とか、造作とか、店賃とか、高えことをぬかしやがると、張り倒すぞ、こん畜生」 「おっそろしい気の荒い人だな、どうも……敷金なんぞは預かったところで返さなくっちゃあならないもんだからいらないし……店賃も、払おうとおもえば払ってもよし、また、いただかなくてもかまいません」 「おい、はっきり話をしろよ。いらねえってわけはねえじゃねえか……じゃほんとうに? ただかい? ふーん、ありがてえなあ。そういう家はねえかとおもって捜してたんだ。じゃあ、すぐに越してくるからな。ほかの野郎に貸すんじゃあねえぞ」 「もしもし、お待ちなさい、店賃がいらないということについては……」 「ああ。わかってるよ。どうせ因縁《いんねん》ばなしかなんかあるんだろう? お化けかなんか出る……」 「ええ、そりゃまあね……いずれにしてもあとで恨まれるのはいやだから、どういうわけかという、まあ、あらましをかいつまんでお話をいたしますが……」 「前置きをごたごたならべるない。早くしろい」 「まあ、こちらへおかけなさい」 「なんだ、いきなり声を落としたりしやがって……腹でもへったのか?」 「あの家は、ちょっとうしろに大きな木があって、日あたりが悪いので、まことに陰気でいけない」 「日あたりなんぞどうだっていいや、昼間は外で仕事をしてるんだ」 「そんなことはどうでも……以前、小金を残した夫婦が住んでいたんだが、このおかみさんというのが、なかなかの美人で、切れ者……亭主も稼ぐから、この長屋ではいちばんの身代になった……」 「そりゃそうだろう。だから、てめえなんぞは、なんぞというと泣きついて借りにいっただろう? ずうずうしい古狸だっ」 「いや、あたしはそんなことはしない……でも、長屋の者はじめ近所の者は借りにいったが、そりゃあ、情け深くって、ひどい催促はしないというふうだから、みんなよろこんで借りにいったな……したがって利が利をうむというやつだ」 「へえー」 「ところが、満《み》つれば欠けるというが、亭主が病にとりつかれ、まもなく死んでしまった。亭主がたしか四十いくつで、おかみさんはそのとき三十いくつだ……女|寡婦《やもめ》に花が咲くで、百か日がすみ、一周忌がすむというと、襟白粉をつけ、口紅をさすというふうになり、ちょっと表へ出るにも薄化粧をして着物を着がえるとかする。だいたいがいい女だ」 「うふふふ、無理はねえや、そんな女がひとり身でいりゃあ、世間のやつはうるせえや。てめえは、暮しむきなんぞひきうけられねえから、水汲んだり、薪割ったりして、骨折り仕事から持ちかけたんだろう? この助平狸めっ」 「なんだなあ、口の悪い。そんなことをするもんか」 「かくすない、腰巻ぐらい洗っただろう?」 「冗談言っちゃあいけないよ……ところが『石塔の赤い信女が子をはらみ』という川柳があるとおり、いくら賢いものでもさてこの道ばかりは別なものだ」 「へえー、どの道で……?」 「道を聞いてるんじゃあない。このおかみさんが悪いやつにひっかかった。この野郎がひどいやつで、根こそぎ取ったよ。わずか三年ばかりのあいだに何千とあった金をのこらずしぼりとって、しまいにおかみさんのちょっと外へ出る着物まではぎとってしまった」 「へえ、ふざけた野郎だっ、おれがいりゃその野郎ただおかねえ」 「すっかり取りあげられてもう逆さにふるったって鼻血も出ないというようになったら、その野郎はドロンをきめて、いたちの道」 「ふーん、で、どうしたい?」 「おかみさんは、気ちがいのようになって、うろうろしたが、どこへ行ったか影もかたちも見せない。とどのつまり、おかみさんは、どっと枕について立ち居もままならないというありさまだ。ある夜のこと、水が飲みたくなって這《は》い出したが、水瓶《みずがめ》のとこまできて、転がり落ちた」 「なぜ助けてやらねえ。薄情な野郎だっ」 「夜中のことだ……黙って聞きな、どうも話しにくくってしょうがないな……翌《あく》る朝、長屋の糊売りの婆さんがいつものように飯汁をもって行くと、この始末だ。お婆さんが、『きゃーッ』と声をあげたので、みんなが行ってみると、どこで切ったのか、顔のところからだくだくと血が流れて、唇が切れて、口から舌が半分だらりと出ている。目は開いたきり、天眼というやつだ。両方の手はよほど苦しんだものと見えて、きゅーっとにぎっている。見ただけでぞっとするくらいだ」 「ぷッ……妙な手まねをするな、なぐるぞ」 「もう息が絶えたのかとおもうと、その姿でいてまだ息がある。それで、しきりに逃げた男の名を呼んで……『口惜しいっ』と言って、ばりばり歯ぎしりをしたかとおもうと、それで一巻のおわりだ」 「ふーん」 「もとより親類もなにもない女だし、死骸の引取人がいないから、長屋の人がいくらかずつ香奠を出しあって、葬いを出しましたよ」 「そりゃあそうだろう。みんなちょっかいをだして、袖をひいた連中なんだから……」 「それが四、五年前の話……」 「この野郎、ながながと妙な真似しやがって、おかしな話をしやあがって、『それが、四、五年前の話』……こん畜生、てめえみてえな、暇な野郎はねえな、ほんとうに、いいかげんにしやがれっ」 「まあまあ、せっかく話し出したんだから、おしまいまで聞きなさい」 「もっとてきぱきやれっ、早くやれっ」 「そうがみがみ言いなさんな、それから造作などを直し、きれいにして貸家の札をはると、すぐに借り手がついたが、それが二晩か三晩、臆病な人は一晩で引っ越して行ってしまう」 「なんだろう? てめえがいやがらせをしたり、変なまねするからだろう? この野郎っ、そんなことしやがると、どてっ腹に風穴|開《あ》けるぞ」 「おいよせよ。そんなんじゃない、あたしはそんなことはしない……借りた人の話では……夜もしだいにふけわたり、草木も眠る丑三つどきになるてえと……」 「へっ、よせやいっ、いやに気どって声を低くしやがって……ひっかくぞっ」 「びらびらっ……と青い火が燃える」 「火事か?」 「火事じゃあない。いずこで打ちだす鐘の音か、陰にこもって……」 「ボォーンとくるかい?」 「そのとおりで……」 「まあ、たいてい、相場はきまってらあ。で、どうなる?」 「すると、仏壇で、鉦が、ひとりでにチーンと鳴ります」 「そりゃあおもしろくていいや」 「障子へ髪の毛が、サラサラとあたるような音がすると、縁側の障子が、するするするっと開《あ》く」 「そいつぁいいや。おらあ、夜中に二度ぐれえ小便に起きるからね。てめえで開《あ》けるなあ面倒くせえから、するするっと開《あ》いたときに、小便に行ってくらあ」 「枕もとを見ると、死んだおかみさんが、血みどろの姿で、越してきた人の顔をうらめしそうに見たかとおもうと……」 「どうする?」 「けたけた……と笑う」 「ほう、そりゃあ愛嬌があっていいや。おらあ、『こっちへ入《へえ》れよ』って、いっしょに寝らい」 「『よく、あなた、越しておいでだねえ』と言いながら、長い細い白い手がぬっと出て、冷たい手で、寝ている人の顔をこう……」 「なにをしやがんでえ、こん畜生……雑巾なんぞ持ち出しやがって……てめえの面《つら》ァでも拭けッ」 「あっ、ぷっ、ぷっ、ぷっ……こりゃあひどい」 「お化けはそれっきりか? ああ、結構結構。じゃあな、すぐ荷物持ってくるから、掃除を頼むぜ」 「どうしたい? 杢兵衛さん、うまくいったかい?」 「だめだめ、あの野郎にゃあ、怪談ばなしがまるで通じない」 「冷たい手をやったかい?」 「ああ、やろうとしたら、その濡れ雑巾をふんだくられて、あべこべにこっちの顔をこすられた」 「だらしがねえな……どうする?」 「どうするったって、なにしろ引っ越してくるんだよ。あいつがね……店賃はいらねえって、そう言っちゃったんだから、しょうがねえから、あいつの店賃を二人で出そう」 「冗談言うねえ……そんな、ばかばかしいことができるもんか。その調子じゃ、蟇口《がまぐち》なんぞ落としていかねえな?」 「落としてくどころじゃねえ……あれっ、いけねえ、さっきの蟇口を持ってっちまったぜ」 「ひでえ野郎だなあ。どうするんだよ?」 「どうするったって、しょうがねえやなあ、なるようにしきゃならねえから……」  企《たくら》んだことがすっかりはずれて、長屋じゅう、あっけにとられていると、 「おう、杢兵衛、越してきたぜ。まあ、よろしく頼まあ」 「あれっ、おやおや、ほんとうに越してきやがった。しょうがねえ」  荷物はろくにないので、すぐに片付けてしまって、隣近所へ引越そばを配って、隣の家から火種をもらって、火をおこして……。 「お隣のお婆さん、ひとり者ですからね、なにぶんひとつおたの申します」 「おやまあ、ご挨拶がおくれまして、さっきは、おそばをごちそうさま。こちらこそ隣が空店《あきだな》だとね、どうもぶっそうで困りますから、おまえさんみたいに、威勢のいい兄さんが越してきてくだすったんで、これで安心しましたよ」 「ついちゃあ、これから湯へ行ってきますからね、お願いします」 「ああ、ゆっくり行っておいでなさい」 「灯火《あかり》がついてますから、よろしく……」  いれちがいに仲間が四、五人……、 「おいおい、野郎のところはなんでもこのへんだあな、ここらしいな、聞いてみな」 「あっ、お婆さん、今日越してきたやつは、隣ですかい?」 「そうですよ」 「どっかへ行きましたか?」 「いま、お湯へ行くと言って、出かけましたよ」 「そうですか……ねえ、お婆さん、あっしたちは、あいつの友だちなんですがね、なかへ入《へえ》って待ってますから……」 「ああ、ようございますよ」 「おう、みんな、入《へえ》れ、入《へえ》れ……野郎、なまいきに湯に行ったとよ」 「なるほど、いい家だあ……野郎、うめえところを見つけやがったもんだ」 「それもよ、この家は、店賃がただってそうじゃあねえか。野郎のよろこびようったらねえや」 「でもなあ……あれ[#「あれ」に傍点]が出るだってよ」 「出るかい?」 「出るったって……夜もしだいにふけわたり、草木も眠る丑三つどきになるてえと、びらびらっと青い火が燃えて……いずこで打ちだす鐘の音か、陰にこもって、ボォーン……」 「ふーん」 「仏壇で、鉦が、ひとりでにチーン、障子へ髪の毛がサラサラサラとあたるような音がすると、縁側の障子が、するするするっと開《あ》く、血みどろの女が越してきた人の顔を見て、けたけたけたけたと笑う……『よく、あなた、越しておいでだねえ』なんて……冷たい手で……なでる」 「よせやい、こん畜生め。ひとの顔をなでるない……だけどもよ、あの野郎、怖くねえのかな? ええ?」 「怖くねえんだろうなあ……ふだんからあん畜生は、物心ついておそろしいとおもったことはねえなんて、いばってやがったから……」 「ふーん、ほんとうに度胸があるのかなあ?……ひとつ、おどかしてみようじゃあねえか」 「どうするんだい?」 「みんなでおどかすんだよ」 「ふーん」 「あいつが湯から帰ってくるまでにな……え、玄関の下駄ぁ片付けちゃってな。火鉢の火をうんとおこっしちゃって、灯火《あかり》を暗くして、おれたちは隠れてるんだ」 「ふん、ふん」 「あいつが、うちンなかへ入《へえ》ると、ひとりでに火がおこって、灯火が暗くなってるから、おかしいとおもわあ」 「うん」 「とたんに……おう、ちょいと……辰ちゃん、おまえ、身体が小せえから、その仏壇があるだろ? ああ、その下へ入《へえ》っちゃってな、その戸棚の上が仏壇だからちょうどいいや。まっ暗だし……で、あいつが帰ってきた時分に、チーンと鉦をたたくんだ、いいな?」 「うんうん」 「と、それを合図に、芳さんと盛ちゃんでな、ここに荷を結《いわ》いてきた細引きがあるから、それを障子に結いつけて、縁側の外に隠れてて、するするっと引っぱるんだ」 「うんうん」 「そうするとたんにおれが天井の梁《はり》へ上がっていて、ここにある箒《ほうき》でやつの面《つら》ァなぜるんだ」 「ふふふふ、こいつぁおもしれえや、なるほど」 「やつが『ぎゃーっ』てんで逃げ出すにちげえねえから、その金槌《かなづち》を、寅さん、おめえ、糸で縛ってね、格子の出口ンとこにいて、持って待ってるんだ。あいつが、出ようとしたとたんに、糸をゆるめると、その金槌が、あいつの頭をなぐるという趣向だ」 「こりゃあいいや。やっちゃおう、やっちゃおう」  四、五人の連中がすっかり仕掛けをして、手ぐすねを引いて、しィーんとして待っている。 「ああ、いい湯だったなあ。すっかりいい心持ちだ……どうもお婆さん、ありがとうござんした……えっへっへ、酒でも飲んで景気をつけて、寝ちまうかあ……世間じゃあ、なんでえ、この家は化け物が出るだなんていいやがって、驚くけえ……こちとらなあ、怖えおもいと痛えおもいはしたこたあねえって人間なんだ……おやっ? なんだい、灯火《あかり》はつけといたんだがなあ、いやにうすっ暗《ぐれ》えなあ、あっ、たいへんだ、火がかんかんおこってるぜ。なるほど化け物が出るってえだけに、妙な家だぜ、こりゃあ、うすっ気味|悪《わり》いや……」  仏壇で、鉦がチーン。 「おや? おい、そろそろはじまったのかな? まだ宵じゃあねえか、こいつぁ……そんなこたあねえだろう? なんだい、丑三つどきだってえのに、れき[#「れき」に傍点]がとまどってやがんのかなあ?」  また、鉦が、チーン。 「あれっ……また鳴りやがったよ、こりゃあ驚いたねえ」  障子が、するするするするっ……。 「わあーたいへんだ、こいつぁ、いよいよ出やがった」  ひょいと立ちあがるところを、天井の梁から、箒を濡らしたやつで、顔をすーっとなぜたから、 「きゃーッ」  表へ飛び出そうとすると、出口のところで頭へガーンッ。 「おおっ痛えっ、あ、いててて……たいへんな家だよ……こりゃあどうも、ひでえ幽霊だ、これァ。頭がこわれそうだ……うゥ、痛え……」  親方の家へ一目散に逃げ帰った。 「あははは、どうだい、おもしろかったろう?」 「うん、野郎、いばってやがるが、ざまあねえや」 「野郎、逃げ出していきやあがったが、また、そのうちにかならず帰ってくるから……どうだい、もう少しおどかしてやろうじゃねえか」 「まだ、ほかに趣向があるのかい?」 「うん、いま、表へ按摩《あんま》が通ったろう」 「ああ」 「あの大入道みてえな按摩だ……おーい、按摩さん、按摩さん」 「はい、お呼びになりましたか?」 「こっちだこっちだ……こっちへ入ってくれ」 「お療治でございますか?」 「いや、療治じゃあねえんだ、なんでもいい、おめえはなんにもしなくっていい。ここへじいッと寝てりゃあいいんだ。療治代は払うよ」 「わたくしが寝るだけで?」 「そうだ。じつは友だちをちょっとおどかそうてえ趣向だ。人が入ってきたら、『ももんがあ』てんで、目玉をむいてくれりゃあいいんだよ。療治代は倍はずむから……」  押入れから弁慶縞《べんけいじま》の布団をあるったけ引っぱり出して、これを二枚、縦につないで敷き、これへ按摩が大の字に寝る。ずーっと長くかかっている布団の裾のほうから、一人が右足を出し、もう一人が左足を出す……そとから見ると、一丈二尺ばかりの大入道が寝ている寸法……。 「親方ぁ、親方ぁ」 「なんだい? どうしたんだ。まっ青な顔して入《へえ》ってきやがって……」 「で、で、出たんで……」 「出た? なにが出たんだ?」 「あっしは、も、も、も、物心お、お、おぼえて……こ、こ、怖えとおもったことと痛えとおもったこ、こ、こたあねえんですが、今夜ばかりは驚きました」 「出たか、化け物が?」 「へえ、……お、お、お化けが出ましてあっしが湯ィ行って帰《けえ》ってきまして、すぐなんで……草木も眠る丑三つのころだってえから、こっちは安心をしていたら、宵のうちからとまどいやがって……ええ、仏壇で、鉦がチーンと鳴るんで……」 「ほほう、ひとりで……?」 「ええ、ひとりで鳴るから驚いたんでござんす。すると障子がするするするっ……」 「ふん」 「それからあっしがひょいと立つてえと、天井からなんかが、びしょびしょしたざらざらした手でもって、あっしの面ァなぜやがん……こいつはいけねえとおもって逃げようとおもったら、お化けのやつがあっしの額のところをこつゥん……となぐりやがった。その痛えったら……たいへんな力ですよ、あのお化け……」 「どうしたんだい? なるほど額のところが痣《あざ》ンなってらあ」 「ええ、どうもひでえ……」 「べらぼうめ……化け物なんてえものが、この世にあってたまるけえ。……よし、おれが行って見てやろう」 「へえ、すいませんがいっしょに行っておくんなさい」 「さあさあ、さっさとこい」 「へえ……ここ、ここ、ここの家なんでござんす」 「なんだい? おい、親方の声のようだぜ」 「そいつぁいけねえ、やっこ、親方を引っぱってきやがったよ。これァ少しことが面倒ンなったな」 「ばれねえうちに、逃げちまおう」  足のほうが逃げ出した。 「あっ、親方、たいへんだっ、大入道がいます」 「なんだ? おっそろしく大きな坊主が寝てるじゃあねえか」 「ももんがあー」 「なにが『ももんがあー』だ。……なんだ、おめえは、横町の按摩さんじゃあねえか」 「え? こりゃあ、親方さんで……」 「なに言ってやんでえ。どうしてこんなくだらねえ真似をしてるんだ?」 「へえ、頼まれたもんですから……」 「だれに?」 「へえ、お宅の若い方に……ここに寝ていて、ひとが来たら、『ももんがあー』と目をむけば、療治代を倍やるとこう言いまして……」 「うぷっ……てえげえそんなこったろうとおもったんだ。見ろ、てめえがふだんあんまり強がったことを言いやがるから、仲間が寄ってたかっておどかそうてんで、罠《わな》にかけたんだあ」 「ちぇっ、ひでえことをしやがらあ、畜生め」 「それにしても、頼んだやつらも、按摩さんだけ置きっぱなしに、ずらかるとは、尻腰《しつこし》のねえやつらだ」 「へえ、腰は、さっき逃げてしまいました」 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 高座芸として格好の噺。空家を借りに来る人の出入りを扱った「小言幸兵衛」と同じ型式《パターン》。「小言幸兵衛」が深川洲崎堤の心中沙汰まで飛躍するのにくらべ、こちらは怪談ばなし仕立てで、涼味、現実味《リアリテイ》十分で夏の高座のポピュラーな演目になっている。ただし、時間の関係で、前半の杢兵衛が若い職人に逆に雑巾でさかなでをくう箇所で切るのが普通。また、幽霊(?)に出るおかみさんの逸話《エピソード》は、現在ほとんど泥棒に押入られ、出刃庖丁で殺害される、という型になっている。サゲの「尻腰《しつこし》のねえやつ」というのは、当時の流行語で、正岡容著『明治東京風俗語事典』によれば、【尻腰】気概。決断力。気魄。忍耐力。気力——とある。この噺の母体は、寄席創設期の戯作者、滝亭鯉丈の『滑稽和合人』で、かなり古くから高座で演じられている。大阪では「借家怪談」。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   たが屋  花火というものは、江戸の年中行事で、両国の川開きといって、たいへんなものだったそうです。享保のころに、はじまったそうですが……。昔は、玉屋と鍵屋の二軒の花火屋があったが、玉屋のほうは、天保十四年五月、将軍|家慶《いえよし》公が日光へご参詣のとき、自火《じか》を出したために、お取り潰しになった。それからは鍵屋だけになったが、花火のほうはあいかわらず玉屋と声がかかる。端唄《はうた》にも、「玉屋がとりもつ縁かいな……」というのがあり、小唄にも『あげ汐』に「上がった上がった上がった、玉屋と褒《ほ》めてやろうじゃないかいな……」というのがあって、どういうわけか玉屋のほうが売れている。   橋の上玉屋玉屋の人の声    なぜか鍵屋といわぬ情(錠《じよう》)なし  という同情した狂歌がある。  安永年間、五月二十八日が川開きの当日で、その日の夕方になって、花火の音のするころには屋形船やちょき船が川面にぎっしり繰りこんできて、柳橋寄りのほうのお茶屋の座敷からも、一杯飲みながら花火を見物する人で賑《にぎわ》い、両国橋の周辺は黒山の人だかりで、爪も立たないような騒ぎ、みんな押しあい揉《も》みあいながら夢中で花火を見物している。  その人混みの中へ、本所のほうから徒士《かち》の供侍《ともざむらい》二人、仲間《ちゆうげん》に槍を持たせた侍が馬を乗りいれてきた。 「寄れ寄れ、寄れィっ」 「おい、馬だ、馬だ、そっちへ寄ってくれっ」 「寄れないよ。もう欄干《らんかん》だから、もう寄れないよ」 「もっと寄れよ、欄干の外へはみだして」 「冗談言うねえ、川へ落っこちらあ」 「寄れ、寄れ寄れっ」 「おうおう、こん畜生っ、押すねえ、ほんとうにっ」 「押すねえったって、おれじゃあねえやい」 「だれが押してやがんだっ?」 「向こうだい」 「向こうもくそもあるけえ。ぶったたいて、川ん中へたたきこめっ」 「あれだい」 「あれだあ?……あー、あれじゃあだめだ」 「えーい、どけどけ、えー、寄れっ」  群衆は必死になって馬を避《よ》けようとするが、侍のほうはそんなことに構わず、人混みの中をなおも割ってくる。こうなると、見物人はみんなばたばたと将棋倒しになる。  一方、両国広小路のほうからやってきたのが、たが屋で……このたが屋というのは、ほうぼうの家の桶《おけ》のたがを直して歩く稼業《しようばい》で……道具箱を担《かつ》いで、仕事を終えて、両国橋へさしかかってまいりました。 「あっ、いけねえ。川開きだ、えれえことをしちゃったなあ、もっと早く気がつきゃあよかったなあ。といって、永代《えいたい》橋をまわっちゃあしょうがねえし、こう人混みにまきこまれちゃあ吾妻橋へ引き返すわけにもいかねえや。しかたがねえ、通してもらおう……すみません。通してやっておくんなせえ」 「痛《いて》えなあ、こん畜生……痛えわけだ。こんな大きなものを担いできやがったなあ。おい、その道具箱を、もっと上へ差しあげろい」 「へえ、すいません……へえ、すいません」 「そっちへ寄れえ、そっち……」 「どうもすみません」  人にあっち押され、こっち押されしながら、だんだん橋の中ほどへかかってきます。 「寄れ寄れ、寄れいっ」  侍も人を分けながら、だんだんこれも橋の中ほどまでかかってきた。ちょうど橋のまん中で、侍とたが屋が出っくわした。 「寄れ、寄れ、寄れと申すに……」 「へえ、すいません」  寄れといわれても、爪の立たないような人混みのなかで、道具箱を担いでいるから、たが屋としても身動きができない。侍のほうがじれて[#「じれて」に傍点]、 「ええ、寄れ、寄らんか」  だァーんと……たが屋の胸を突いた。不意なので、たが屋は持っていた道具箱をどしーんと、その場へ落とした。……間の悪いときはしかたのないもので、道具箱のなかに巻いてあった竹のたがが、落ちた拍子に、止めてあった引っ掛けがはずれて、つっつっつっつっと伸びて、この先が馬に乗っていた侍の一文字の笠の縁《ふち》にあたって、笠をはじき飛ばした。侍の頭の上には、茶台みたいなものが載っているだけで、まことに滑稽なかたち。 「無礼者っ」 「へえ、ご勘弁ください」 「いいや、ならぬ。この無礼者め。ただちに屋敷に同道いたせ」 「あ、どうか、ご勘弁を願いとうございます。うしろから押されたもんでございますから、つい……」 「ならぬ、勘弁ならぬ。屋敷へ参れと申すのが、わからぬかっ」 「いえ、屋敷へ行きゃあ、この首は胴についちゃあねえんだ。どうか、ひとつ、ここでご勘弁を……」 「ならぬ」 「へえ、どうも……家へ帰《かえ》らにゃあ、目の見えねえおふくろが路頭に迷わなくっちゃなりません。どうぞ、お助けを」 「なあ、おう、許してやったらいいだろう」 「ほんとうだよ。えー、家には目の見えねえおふくろがいるってえじゃあねえか。それくれえのこたあ、許してやれ」 「この混んでる中へ、入《へえ》ってきたほうが悪いんだぜ。侍《さむれえ》がなんだってんだっ」 「おい、おれの背中で、なんか言うない。言ったっていいが、言ったあとてめえはすーっと首をひっこめるだろう? 侍がおれの顔をじいっと見てるじゃねえか、よせよ」 「かまやあしないよ」 「かまわなかあないよ、なぐるぞ」  うしろのほうの連中はなんだかわからずに……、 「なんだ、なんだ、なんだ」 「いやあ、巾着切《きんちやつき》りがつかまったんで……」 「巾着切りは男かい、女かい?」 「いいえ、お産ですよ」 「お産?」 「そうなんですよ。よしゃあいいのに、臨月《りんげつ》にこの人混みに出てこなくったってねえ。この人混みに押されたうえに、あのぱんぱんという花火の音ですから、赤ん坊だってそううかうか[#「うかうか」に傍点]腹のなかに入っちゃあいられないでしょ」 「あなたのおかみさんですか?」 「いいえ、そうじゃない」 「よく知ってますねえ」 「いえ、たぶんそうじゃないかと……」 「あっ、その背の高い方……なかはなんです?」 「お気の毒に……」 「え?」 「お気の毒だよ」 「へえー、そんなにかわいそうなことが起こってるんですか?」 「いいや、おまえさんが見えなくて、お気の毒だ」 「なにを言ってやんでえ、悔やみを言ってやがら、癪にさわるねえ。なんとかしてなかが見てえもんだ……えーと……そうだ。こうなりゃあ最後の奥の手をだして、股《また》ぐらくぐって、前へ出ちまえ。えー、ごめんよ。ごめんよ」 「あっ、びっくりした。人の股ぐらから出てきやがった……やい、泥棒っ」 「なんだと? この野郎、泥棒とはなんだい。いつおれが泥棒した?」 「泥棒じゃねえか。おれの股ぐらくぐったとき、てめえは股ぐらの腫物《できもの》の膏薬を頭にくっつけてもってっちまいやがって……」 「えっ、股ぐらの腫物の膏薬? あっ、頭にひっついてやがらあ、汚《きたね》えな、おい。返すぜ……えっ、どうしたんです? えっ?……あのたが屋が、あの侍の笠をはじき飛ばしたんで……うんうん、かわいそうに……供侍もえばってるけど、馬に乗ってるやつはひどく意地が悪そうだねえ」 「ねえ、助けてくださいな」 「勘弁まかりならん、くどいっ、斬り捨てるぞっ」 「斬る? えっ、どうしても勘弁してくれないんですか、これほどに頼んでも……いらねえやい、丸太ン棒っ」 「なにっ、武士をとらえて、丸太ン棒と申したなっ」 「なにをぬかしやがる。丸太ン棒てえのは、ただうしろに立てかけてあるだけで、わからねえや。てめえも、おれの言うことがわからねえじゃねえかっ。農工商の上へ立つのが侍だ? へん、侍《さむれえ》も葬式《とむれえ》もあるものか。江戸っ子はなあ、侍なんぞにおどろくもんじゃあねえや、ほんとうに。おらあ、怖いもんなんざあなんにもねえ。死ぬなんぞ、へん、おどろくもんじゃあねえ。さあ、斬れよっ、斬るなら斬ってみやがれっ」  たが屋はやけっぱちで居直ったから、侍のほうがたじろいだ。形勢不利とみた馬上の侍は、ぴりぴりと青筋を立てて、 「斬り捨ていっ」  供侍が、差していた一刀をさーッと抜いた。……とおもいきや、これが三両一人|扶持《ぶち》、ふだん貧乏で内職に追われていて、刀の手入れまで手がまわらないので、すっかり錆《さび》ついている。抜けば玉散る氷の刃《やいば》……というわけにはいかない。抜けば粉《こな》散る赤|鰯《いわし》……ガサッ、ガサッ、ガサッ、ガサッガサッ……ひどい音を立てて抜いた刀で、斬りつけた。たが屋は怖いから、ひょいと首をひっこめると、刀が空を斬って、供侍の身体がすーっと流れた。その隙につけこんで、いきなり利《き》き腕《うで》をぴしりっと手刀で打った。ふだん桶の底をひっぱたいているから、腕っ節は強い。供侍は、手がしびれて、おもわず刀をぽろりと落とした。 「あっ」  と、拾おうとするのを、たが屋が腕をつかんで、ぐっと引っぱったら、とんとんとんと向こうへ流れていくところを、落ちてた刀を拾って、うしろから、「やっ」と袈裟がけに左の肩から右の乳の下へかけて、斜《はす》っかけに斬った。くず餅みたいに三角になった。 「わあーっ」  弥次馬がいっせいに喝采する。 「おう、斬った斬った、えー、どうだい、見事に斬りゃあがったな。えれえもんだ、どうです。ありゃあおめえ、おれの親戚だ」 「嘘つきゃがれ」  こうなると、馬上の侍も黙っていない。ただちに馬から飛び降り、仲間《ちゆうげん》に持たしてあった槍をとると、石突きをついて鞘《さや》を払い、きゅっ、きゅっ、きゅっとしごいておいて、ぴたりと槍をかまえた。 「下郎、参れ」 「なにをっ、さあこい」 「やっ」 「えい」  双方、にらみあいとなった。 「どうです、たが屋の強かったこと、おどろきましたねえ。供侍が三角になっちまった」 「しかし、こんどはいけない。主人のほうは強そうだ。この調子じゃあ、たが屋はやられちまうよ、なんとか加勢してやりたいねえ」 「これが町なかなら、屋根へ上がって、瓦めくってたたきつけるって手もあるんだけれど、橋の上じゃあそれもできゃしねえ」 「かまわねえから、下駄でも草履《ぞうり》でもあの侍にぶつけてやろうじゃねえか」  まわりの弥次馬がわあーわあ、侍めがけていろんなものをぶっつけるが、腕ができてるからびくともしない。たが屋はじりっじりっと押されて、欄干を残してあと一尺というところまで退いた。欄干に身体がついてしまっては、もう避《よ》ける余地がない。このまま、田楽刺しになるくらいならと、くそ度胸をきめて、たが屋が誘いの隙を見せた。侍のほうもまわりの弥次馬がわあわあ騒ぐので、冷静さを失っている。そこへ隙が見えたから、「えいっ」とばかり槍を突き出した。たが屋はそれをひょいとかわして、渾身の力で槍の千段巻きのところをぐいっとつかんだ。 「うッ……」  侍はやりくり[#「やりくり」に傍点]がつかない。しかたがないから槍をはなした。やりっぱなし[#「やりっぱなし」に傍点]てえのはこのこと……。  侍があわてて刀の柄へ手をかけようとするところを、たが屋は片足を欄干にかけて、飛び上がるようにして、 「えいっ」  と、斬りこんだ。勢いあまって侍の首が、中天へ、ぴゅーぅと上がった。  これを見ていた見物人が、 「あ、上がった、上がった、上がった、上がったい……たァがやー」 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 夏の江戸の風物誌。江戸市中百万人といわれる群衆(弥次馬)の中に、はっきりと庶民の顔々を垣間見る思いがする。「この混んでいる中へ入《へえ》ってきたほうが悪いんだぜ、侍がなんだってんだっ」と言ってすっと首をひっこめる男、股ぐらをくぐられて腫物の膏薬をはがされて「やい、泥棒っ」と叫ぶ男、「かまわねえから、下駄でも草履でもあの侍にぶつけてやろうじゃねえか」とけしかける男……等々、この噺の主役はかれらであり、そこに尽きせぬ庶民群像が活写されている。他に深川八幡の祭礼で永代橋の人混みで、橋が落ちて死人が出るという事件を扱った「永代橋」という噺があるが、この「たが屋」、漫談講談調のご都合主義でいただけない。他書の解説文では、この噺、「町人階級の武士権力に対する反抗《レジスタンス》」という観点から論じているが、群衆の中に迷い込んだ一職人が、突発的にたが[#「たが」に傍点]がはずれて侍の一文字笠を飛ばしたことで、正当防衛とはいえ、相手の首を飛ばすほど斬りつけられるものだろうか。これを反抗《レジスタンス》といえるのだろうか。ほんらい反抗《レジスタンス》とは共通の立場に向かっての、共通の目的と意志を持たなければ反抗《レジスタンス》とはなり得ない。このたが屋の行為はスタンド・プレーであり、英雄にこそなれ庶民と同じ立場に立つことはない。生首が宙に飛んで掛け声をかけるなど、とても庶民感情とはかけ離れたものだ。原型は、現在とは逆に、たが屋の首が飛んだのである。  余談だが、同じ武士に歯向かう噺として「禁酒番屋」「石返し」などがあるが、筆者は溜飲が下がるどころか胸騒ぎがして、おだやかな気持ちにはなれない。少ない嫌いな噺の例である。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   夏の医者  辺鄙《へんぴ》な山村で病人がでると、医者のいる隣村《となりむら》まで迎えに行くことになる。隣村といっても、山裾《やますそ》をまわって行くと六里もある。看病を村の人に頼んで、素足に草鞋《わらじ》を履き、襦袢《じゆばん》一枚に菅笠をかぶって、夏のまっ盛り、山道をてくてく歩き出し、汗だくだくで隣村の一本松の玄伯の家へ来てみると、医者は、汚い越中|褌《ふんどし》一つの素っ裸で、網代《あじろ》で編んだ笠をかぶって、裏の田んぼの草を取っている……。 「やあ、先生さま」 「はい……はい、だれだ?……ああ、鹿島村から……」 「とっつぁま塩梅《あんべえ》が悪いで、ちょっくら見舞ってもれえてえがね」 「おう、病人か、よしよし、見舞ってやんべえ。待ちなせえ、もうこれ……二坪ぐれえで草ァしまうから、わけねえ。そけえ掛けて一服やってなせえ……いま、支度ゥぶつから……」  先生、田から上がって手足を洗って、おもむろに支度にとりかかった。手織|縞《じま》の少し黄ばんだ単物《ひとえもの》を着て、小倉の帯をしめ、その上に蝉《せみ》の羽根みたいな羽織を着て、鼠色になった白足袋を履いて、朴歯《ほおば》の少し曲がってきた日和《ひより》下駄をはいて、網代の笠をかぶって、 「ああ、えかく待たした、それじゃあ行くべえか」 「へい、ご苦労さまでごぜえます」 「ああ、そこに薬籠《やくろう》があんべ、それ薬箱だ。それ、おめえすまねえが背負《しよ》ってくれ」 「ああ、ええだ、おらあ背負っていくから」 「じゃあ出かけべえか……えかくまた暑いだねえ、今日も、土用《どよう》の値打ちがあるだよ。おめえ、どこの伜《せがれ》だって、は? 勘太? 勘太て……あああ、太左衛門さんの弟さんだ、うん。瘤《こぶ》の勘太さんていやあ、おらと若えうちは、野良ぁこいた[#「こいた」に傍点]もんだよ、うん。久しく会わねえでいるだ。塩梅悪くちゃいかねえな……ああ、待て待て、そっちへ行っちゃおめえ、山裾をまわっていくから六里もあるべえ。山越えすべえか……この道はまだ通ったこたあねえか? 山ぁ突っ切るでちょっくら苦艱《くかん》だがな、近道だでな、そうだな、四里半べえあるかな、ああ。早えぞ、そのほうがよかんべえ」 「ああ、早えほうがええで……」 「そうか、そんじゃあおら案内《あんねえ》してやんべえ、さあさ、来なせえ」  先生の道案内で、どんどん山を登ったが、頂上へ来たときには、二人とも滝をあびたようにびっしょり汗をかいて、大きな松の切り株でひと休み……。 「ああ、きつかったね、やれやれ、ここで一服やっていくべえ……おう、いい風くるねえここは……(煙草を吸いながら)今年はなにか、麦はどうだ、おめえのほうは? できはよくねえか? おらほうは今年はえかくええなあ、うーん。野菜物《やせえもの》はどうだ? うーん、ちょっくら雨があればええがなあ……こう日照りつづきじゃあだめだあ、うん。今年はもう間に合わめえが、水瓜《すいか》がえかくええちゅうから、おらとこでも来年《れえねん》は水瓜作ってみべえとおもっているがの……うん、なんだ?」 「どうだな先生、汗ぇ入《へえ》ったで、そろそろ出かけますべえ」 「まあだええでねえか……とっつぁま、おらが行ってみりゃあまちげえねえから」 「そんだが気にかかってなんねえ」 「まあま、病人|抱《かけ》えてちゃ無理もねえ、じゃ、よし、出かけるか」 「はあ、そんじゃ……あっ、あれあれ……先生……先生」 「はい、はい……ここだ、ここだよ」 「あんだか……えかく暗くなったでねえか」 「うーん、はてなぁ、いっぺんに日が暮れたわけじゃあんめえがなあ、こりゃあどうしただべえ」 「あんだか、先生、えかく温《ぬく》いでねえけ?」 「うーん、あんだか、変な臭いがする?」 「先生あんだか、はあ、足もとが見えなくなったようでえ」 「どうした?……待ちなせえよ(両手でまわりをさぐって)あっ、こりゃいかねえ。やあ、この山にゃ年古く棲《す》むうわばみ[#「うわばみ」に傍点]がいることは聞いていたがなあ、ことによるとこれァうわばみ[#「うわばみ」に傍点]に呑まれたかな、こりゃ……」 「嫌ァだ、なあ。これ、腹へ入《へえ》っとるかなあ」 「さあ……なあ。この塩梅じゃあもう入《へえ》ったかな?」 「入《へえ》ったか、って……、どうするだな」 「どうするったって、このままにしていると、おめえもおらも溶けちまうべえ」 「嫌だなあおらあ。溶けるなあ嫌だあな、先生。どうするべえな、先生」 「まあまあ、そう騒ぐなよ。騒いだっておめえ、出られるもんじゃあねえで。困ったなあ、刀を差してくりゃよかったな……腹をおっつぁべえて出るだが、切れ物はねえし。……あっ、そうだ、おめえが背負ってる薬籠があんべえな、え? 薬箱が、それ出しなせえ……中に下剤が入《へえ》っとるからな、くだしかけてみべえ。うまくいかば、くだされるか、わかんねえから……」  これから、大黄《だいおう》という粉の下剤を取り出して、そこいらへばらばらふり撒《ま》くと、この薬が効いてきたとみえ、うわばみ[#「うわばみ」に傍点]はのたりのたり、のたくって苦しみだした。 「わっははは……先生(身体を大きく揺らして)、えかく荒れるでがすなあ」 「(身体を大きく揺らして)やあ、ええ塩梅だ。少しのあいだ我慢しろ、こりゃ薬が効いてきただぞ……こりゃ。ああ……あれあれ、見なせえ。むこうに明《あ》かりが見えべえ、あれが尻の穴にちげえねえ、まあちっとだ……」  そのうちに、どーッと、二人は草ん中へほうり出された。 「やあ、先生、どこだ?」 「いや、ここにいるだ。早く来《こ》うや」  二人は手を取って、山を転がるように降りてきた。 「やあ、おじさま、行ってめえりやした」 「臭《くせ》え……どうした、えかく臭えでねえか」 「やあ、臭えにもなんにも、山越えしたら……よかんべえちいでなあ、途中で、うわばみに呑まれたあ」 「あれ……? どうした?」 「どうしたって、医者|殿《どん》ちゅう者はえれえもんだねえ、薬まいてなあ、先生もおらも、くだされたな」 「そうけえ、そりゃまあよかったな。先生も無事にござらしたか……」 「へえ、ええ……あれ? 先生いねえ……溶けたかなこりゃ」 「あんだ? 溶けたてえ」 「こけえ来てから溶けたわけじゃああんめえに……あっ、井戸|端《ばた》にいなさるわ」  先生頭からざあざあ水を浴びているところ……、 「いやあ、はっはっは、ああ、えかく臭えだで、ちょっくら水ぅ浴びやした……いやあ、こうだな身装《なり》で、まあごめんなせえ……ああ、お久しぶり。あんたも変わりねえで、結構だ。弟さんが塩梅が悪いち、よしよし、見舞ってやんべえ」  これからすっかり診察をして、 「なあんのこりゃ、案じるほどのこんじゃぁねえ、こりゃあ物あたりよ」 「あれ、物あたりてえ?」 「あんぞ沢山《えかく》、食ったじゃねえけ?」 「えかく食ったて……あっそうだ、萵苣《ちしや》の胡麻《ごま》よごしを食いやした」 「お? 萵苣の胡麻よごし……」 「はあ、とっつぁま、えかく好物だで……」 「どのくれえ食った? ふん、ふん……それがいかねえ、そんだにえかく、食《や》るで。夏の萵苣は、腹《はれ》へ障《さわ》ることあるだでやあ、物あたりだ。ああ、わけねえ、こりゃあ薬二、三|貼《ちよう》のみゃあよくなるで、あの、薬籠出せや、おら調合《こせ》えてやるから、薬箱を」 「薬箱?……うわばみの腹ん中で、先生に渡したっべえに……」 「……そうか、いかねえ、腹ん中へ忘れてきた。あれがねえじゃ、おらも商売困るだでなあ。じゃ、ええわ、ちょっくら行って来べえ」 「先生っ、どけえ行くだな」 「あに、まいっぺん行って、おらうわばみ[#「うわばみ」に傍点]に呑まれべえ、うん。そんで薬籠を取って、また帰《けえ》るからなあ、うん。なあに、案じるこたあねえ、大丈夫《だいじようぶ》だ」  元気のいい先生、また、どんどん山へ登って、頂上へ来て、ひょいっと、向こうを見る。土用の最中《さなか》に、うわばみは下剤をかけられたあとで、もうすっかり衰弱をしちまって、眼肉は落ちる、頬の肉はこける。大きな松の木へ首をだらりと下げて……、 「うーん、うーん……」 「やあっはは、ここにいなされたけぇ、あんたが穴へでも入《へえ》っちまっちゃあ、おらあどこを捜すべえかとおもった。ええ塩梅だ。あのなあ、おれ、さっき呑まれた医者だがなあ、あんたの腹ん中へ忘れ物をしてきただよ。すまねえが、まいっぺん呑んでもれえてえがなあ」 「……もうだめだ」 「うん?」 「……もうだめだよ」 「あんでえ、もうだめだとは。そんだなことを言わねえでよ、まあいっぺん、おらを呑んどくんなせえよ」 「いやあもういやだ……夏の医者(萵苣)は腹へ障《さわ》る」 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 六代目三遊亭円生所演の名品。松の枝へ顎《あご》をのせ「……もうだめだ」といやいや[#「いやいや」に傍点]をする蟒《うわばみ》の可愛いこと。また医者の職業《プロ》意識に徹した逞しさも、真夏の田舎の風景に調和《マツチ》して、ほのかなユーモアを漂わせている。下剤に用いられる�大黄�は、昔の有名な下し薬で、上方噺の「地獄八景」のサゲに、「大黄(大王)の粉だ」「道理で地獄(至極)利きがよかった」と引用されている。大阪種。ほかに医者が登場する噺に「代脈」「金玉医者」(別名「藪《やぶ》医者」)「泳ぎの医者」「疝気《せんき》の虫」「入れ眼」「宗漢《そうかん》」などがある。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   佃祭《つくだまつり》  江戸の三大祭りというと、神田明神、赤坂の山王さま、深川の八幡さま……これは、将軍家が吹上からご上覧になったというので、俗に上覧祭《じようらんさい》ともいい、将軍家からもいくらか祭りの経費が出た。それでなくても、賑やかで、威勢のいいことの好きな江戸っ子のこと、祭りになるといっそう気負って派手にして、祭りのあとで入費の埋め合わせがつかないで、娘を女郎に売らなければならないというようなことが、いくらもあった。祭りというものは、たいへんにさかんで……清元の「神田祭」に、 [#ここから1字下げ] 一年を今日ぞ祭りにあたり年、警固手古舞《けいこてこまい》はなやかに、飾る桟敷《さじき》の毛氈《もうせん》も、色に出にけり酒機嫌…… [#ここで字下げ終わり]  佃島には、住吉さまがあって、毎年この夏祭りがたいへんに賑い、島国なので気がそろっていて、よくできている。この祭りへ行く人は、渡し船で渡って、踊り屋台を見たり、地走《じばし》りが出たり、飾り物をいろいろ見物して、深川八幡の暮六つの鐘を聞いて、みんな船場《ふなば》へ駆けつける。暮六つがしまい船なので、桟橋はもう人でいっぱい。ふだんは二艘交代でやっているが、祭礼の当日は十艘からの船が出て、それもだんだん出て行って、最後の一艘だけになった。そのしまい船へいちばんあとから乗ろうとすると、うしろから袂《たもと》をとって引き降ろされた……。 「旦那さま、お待ちなすって」 「ああ、なんですか、急ぎますから、どうぞ袂をはなしてください。……船頭さん、その船を、ちょっと止めておくれっ……なんの用だか知らないが、この船に乗りおくれると、わたしは家へ帰ることができないから、袂をはなしておくれ……おーい、船頭さん、ちょっと待っておくれっ……あっ、船を出しちまいやがった、ああー、もう帰ることができゃあしない……」  ひょいと振り返って、袂を押さえている人を見ると、年のころ二十五、六、丸髷《まるまげ》に結《ゆ》った色白の女……。 「なんだ、見おぼえのない人だが、迷惑千万な、おまえさん、人ちがいじゃないか?」 「いいえ、人ちがいではございません。まことにおみ足《あし》をお留め申しまして、申しわけがありませんが、あの……旦那さまは、三年前に、本所一つ目の橋の上から身を投げようとした女を、五両のお金をお恵みになりまして、お助けになったおぼえはございませんか?」 「ああ、あ……そうでしたか。差しあげた額は忘れましたが……三年前に、一つ目の橋で身投げを助けたことはあったが、あれはおまえさんでしたか?」 「やっぱり旦那でございましたか。ありがとうございました。あたくし、その折のふつつか者でございます」 「ああ、おもいだしました。いやあ、すっかりおみそれいたしました。……あの時分には、島田を結《ゆ》っていらした。いまは頭も丸髷《まるまげ》になって。その時分、白歯《しろば》だったが、いまはかね[#「かね」に傍点]をつけていらっしゃるし、その時分は若くてきれいだったが……いや、いまもきれいですがな。しかし、しまい船が出てしまって、島に親戚もなく、困りましたな」 「そのご心配にはおよびません。あたくしのつれあいが船頭をいたしております。いつ、何刻《なんどき》でもお船は向こう河岸へ出します。往来ではお話もできませんから、汚い家《うち》ではございますが、どうぞ宅《たく》へお立ち寄り願います」 「そうですか。あの、旦那が船頭さんで……いやあ、それを聞いて安心しました。じゃ、ちょっと寄らせていただきましょう」  連れられて行ってみると、入口に、祭礼の提灯《ちようちん》に灯がはいり、家《うち》は古いが、きれいに手が行き届いていて、花筵《はなむしろ》が敷いてある。 「さあ、どうぞこちらへお上がりくださいまし、むさ苦しい家《うち》でございますが、お暑うございますからご遠慮なくどうぞ……その節はお助けくださいましてありがとうございました。まだわたくしが、ご主人に奉公している身でございまして、五両のお金を落としました。言いわけなさに死のうとしたところをお助けいただきました。そのご恩はけっして忘れたわけではございませんが、年の若い時分、うれしいのと、きまりの悪いのとで、ついお名前もおところもうかがうのを忘れまして、お礼に出ることもできず、どうかもう一度お目にかかってお礼を申し上げたいとつねづねおもっておりましたところ、はからずも渡し場でお姿をおみかけしましたので、これぞ神仏《かみほとけ》のお引き合わせと、前後もわきまえず、お引きとめいたしまして、なんとも申しわけございません」 「いいえ、どうぞお手をあげてください。へえー、そりゃどうも不思議でしたね。わたしはすっかり忘れていたくらいですからね。いやあ、そうですかい、まああのときにあなたが死んでおれば、いまここでこうしてお目にかかれなかったわけですな。あなたがご主人のお金をなくしたために死のうとおもった、あなたが正直な方だということが、そのときよくわかりましたよ」 「いつも、夫《やど》と旦那さまのお噂ばかり申しておりまして、……もうおっつけ帰ってまいりましょうから、どうぞお茶をひとつ召しあがって……」 「さようでございますか。おもいがけないことでとんだお邪魔をいたしました。ではお茶をいただきます」  と、話をしているうちに、表でわーわっという人声。おかみさんもなにか知らん、お祭りのことだから喧嘩《けんか》でもはじまったかと、心配しているところへ入ってきたのがご亭主、年のころ三十近い、色黒のがっちりした体躯で。 「おおっ、お帰んなさい。……あの旦那さま、夫《やど》が帰ってまいりました。……おまえさん、ちょっと上がってくださいよ」 「上がるどころじゃあねえっ、たいへんなことができたんだ」 「どうしたんです?」 「いま、しまい船が沈んじまったんだ。あんまり人を乗せやがるんで、おっそろしい騒ぎだ。助け船を出さなけりゃならねえんでみんな出かけたから、おれもちょっと行ってくる。なんだかお客さまがあるようだが、あとでお目にかかるから、着物をそっちへとっておいてくれ」 「じゃあ、怪我《けが》をしないよう気をつけて……」  亭主は褌《ふんどし》一つで飛び出た。 「旦那、お聞きでございますか、あのいまのしまい船が沈んだそうでございます」 「へえー、おどろきました。あたしは、あの船にさっき片足かけて乗るところを、あなたに袂を引っぱられて乗りそこなった。あなたに会わなければ、わたしもいま時分、船といっしょに沈んでいるところ……じゃあ、あたしはあなたに助けられたようなもの。自慢じゃあないが、あたしは泳ぎは知りませんしね。金槌《かなづち》の川流れ……それっきりですからね。そういえば、しまい船は人を積みすぎてましたからね、こべりへ、すれすれまで水が来てましたからねえ、死んだ人も大勢いるでしょうな」 「ああ、おそろしい騒ぎになりましたこと、なにしろ暮れがたで、祭りどき、女子供が多うございますから……、夫《やど》が帰れば、くわしいことがわかります。どうぞまあ、お祭りどきの、手作りの|煮〆《にしめ》でございますが、ひと口召しあがって……」 「いや、それはどうかごめんこうむりましょう。お酒どころではない。いまの話を聞いたんであたしは変な心地になりました、おつもりにしましょう」  しばらくして、亭主が帰ってきた。 「どうしたい、おまえさん」 「どうもこうもないよ。女子供が多いんで、助け船も間に合わず、ガバッといったから、一人も助かったものがいねえんだ。泳げるやつが飛びこんだって、一人に五、六人泳げねえやつがまつわりつくから、助けに飛びこんだやつまで死んじゃったよ。船場へ行ってみな、死骸の山だよ。引き取り手がきたら、どんな気持ちになるかとおもうと、人事とはおもえない、いやあな気持ちになって帰《けえ》ってきた。お客さまがおいでのようだが、どこのお方だ?」 「三年前、一つ目の橋でわたしを助けてくださった旦那だよ、ちょっとご挨拶しておくれ」 「ご挨拶ったって、裸じゃしょうがねえ。待ちなよ」  裏へ飛んで行って、井戸端で、頭から新しい水をザ、ザーと五、六杯浴びまして、さっぱりした浴衣《ゆかた》と着替えて、手ぬぐいをわしづかみに、 「旦那、お初にお目にかかります。あっしは船頭の金五郎と申します。碌《ろく》すっぽう、口もきけねえ男でございますが、どうぞ、ご懇意に願います。三年前には、こいつが危ないところを助けていただきまして、いろいろありがとうございます。旦那、烏《からす》の鳴かねえ日はあっても、旦那の噂の出ねえ日はねえんでございます。いつでもこいつは涙をこぼしちゃあ、ありがてえ旦那だ、一度お礼を申し上げなきゃあならねえと、泣いておりますから、あっしが叱言《こごと》を言うんでございます。てめえのようなわからねえ女もねえもんだ。命の親の旦那さまの、せめてお名前かおところを聞いておかねえで、どうたずねていいか、お礼を申し上げてえといったところが、お目にかかれねえじゃあねえか。こうなりゃ、神さまでも頼むほかねえからと、神さまを拝もうとおもうんですが、あっしは、ふだん、無精者で、心やすい神さまが一人もいねえし、しかたがねえから、毎朝起きると大神宮さまを拝むんですが、それもなんと言って拝んでいいかわからないので、……旦那、見てくだせえ、大神宮さまに『一つ目の旦那さま』と、紙へ下手な字で書いて貼ってあります。あれを二人で一所懸命拝んでおりました。そのおかげで、今日お目にかかれました。これから、ご恩返しと申しましても、貧乏人ですから銭っこじゃできませんが、身体を張ることなら、あれしろ、これしろとご遠慮なく言いつけてくださいまし。命にかえてもご恩返しをいたしますから、末々目をかけお使いのほどを願います」 「恐れ入ります……いや、どうぞお手をあげてください。あたしは、神田お玉ヶ池におります、小間物渡世をしております次郎兵衛と申す者でございますが、助けた助けられたはございません。いま沈んだというあの船へ、もしおかみさんに会わなければ、わたしが乗るところでございました。それを、おかみさんに桟橋で袂《たもと》を引っぱられ、無理に引き降ろされたんです。してみれば、わたしがこんどおかみさんに命を助けられたわけで……五分です、つまり、お互いさまですよ」 「おめえが助けた? そうかい。そりゃあ旦那、ようございましたねえ。いいえ、それはね、うちのやつが助けたんじゃありませんよ。旦那のような方が、ガブリいくようじゃ神も仏もあるわけのもんじゃございません。天道さまが助けたんだ。こんなめでてえことはありませんね。どうか旦那、今夜一晩、こんな汚いところですが、お泊まりなすってってください」 「ありがとうございます。せっかくでございますが、うちを出るとき、しまい船で帰ると言って出てまいりましたので、まことにあいすいませんが、船を向こう岸へ出していただきたいのですが、いかがでございましょう?」 「さあ、それは弱りましたねえ、旦那。それはお宅でもご心配でしょうが、こう騒ぎがあったあと、すぐ船を出すってえのは、仲間のつきあいで、具合いが悪いんですよ。じゃあ、会所《かいしよ》の鎮まるまで、どうかひと口召しあがっていてください。おめえだってそうだ、お頼みしねえかよ」 「どうぞ、旦那、あたくしは両親がないもので、旦那さまをほんとうの命の親のようにおもっております。どうぞ、夫《やど》も申しますようにごゆっくりなさいまして、また、夫婦になったいきさつも聞いていただきとう存じます」 「いやあ、それはありがとう存じます。あたしもゆっくりしていきたいが、うちの家内がちとやきもちやき……いや、つまり心配症なもんですから……いずれ日をあらためて……」 「はい、わかりました。じゃあ、船場が片づいたら、なんとでも船は出しますから、ひとつお近づきのしるしにいきましょう……お酌しないか、おい」 「さあ旦那。おひとつどうぞ……」  次郎兵衛さんのほうはこれでよろしいのですが。  神田お玉ヶ池の次郎兵衛さんの家のほうは、たいへん……。おかみさんは日が暮れても帰ってこないので、出たり入ったりしていると、表ではとりどりの評判、佃で船がひっくりかえって、人死にがあった。五十人もあったろう、百人もあったろう。人を頼んで聞いてみると、しまい船が沈んで、助かった人は一人もいない。船場は死骸の山で、たいへんな騒ぎ……。これを聞いたおかみさんは、部屋へ駆けこんで、おっかさんの膝の上へ、うわっーと泣き崩れた。近所の者も見かねて、気の早い人は、二、三人揃って悔やみに訪ねてくる。こういうときには、当家の人は気抜けがしてなにもできない、はたの人がしてやるよりしょうがないというので、飛んできて、簾《すだれ》を裏返して「忌中」の札をはって、葬儀屋から大きな早桶を運んできて、家《うち》のまん中へデーンとすえつけてしまう。 「吉つぁん、次郎兵衛さん、亡くなったってえなあ」 「そうだってさあ、わからねえもんだね。けさ、湯で会ったんだよ」 「あれ、おめえがか?」 「うん、これから佃へ祭りに行くんだが、行かねえかって誘われたんだがね。今日は切り上げ仕事があってどうしても手がはなせねえって断わっていいことをしたよ。断わらなけりゃあ、おれも、やっぱり、土左衛門でいまごろ上を向いて、あれだよ」 「そう言われてみるてえと、次郎兵衛さん、影が薄かったよ。ところで、今月の月番はだれだい?」 「与太郎だ」 「あいつじゃ連れてったってしょうがねえだろう」 「だって月番だもの、お辞儀だけでもさせなきゃあ……いりゃあいいけども……入り口から声をかけてみよう。与太郎いるかい?」 「おー」 「出てきたよ、いた、いた、こっちへ来《き》な。……あの、次郎兵衛さんが、亡くなったよ」 「えーそうかい、どこでなくなった」 「こういうやつだよ。どこで亡くなるってやつがあるもんか、死んだんだよ」 「え、こんどはじめてかい」 「いくども死ぬやつはないよ。これから、悔やみに行くんだよ」 「へえー」 「悔やみに行くんだよ」 「死んだところへいやみを言ってどうするんだ?」 「悔やみだよ。おまえは月番だが、向こうへ行ってただお辞儀してりゃいいよ。変なことを言って、げらげら笑うのはいけないから、黙ってな」 「えー、こんばんは」 「えー、ごめんくださいまし」 「へい、どうも、おっかさん、このたびはどうもとんだことでございます。おかみさん、なんとも申し上げようがございません。けさ、湯で会ったんですよ。で、これから佃へ祭りに行くんだがって誘われましたがねえ、あっしは仕事が忙しいって断わっていいこと……あの、あ、なんですねえ、まあ……ほんとうに、なんで……まるで夢のようで、なんともはや申し上げようがないんで……まだご病気とかなんとかでしたら、またなんとかなるんですが……ああいうなんですとどうにも……ほんとうに、ええ、あとあと、あまりお気病《きや》みになりまして、お身体でもなんでしたら……たいへんでございますから、ほんとうにまあ、申し上げようがありません……あたくしで別にお役に立ちませんが、なにかご用がありましたら、なにかこの……あたくしでできることでしたら、どうも……たいへんな騒ぎで……さようなら」  口のなかで、なんだかわけがわからないことを言って帰る。 「ごめんなさい。このたびはおっかさん、とんだこってござんした。あっしは聞いてびっくりしちゃった。あんないい旦那が亡くなるなんて、そんな、て、神も仏もねえもんだって……どんな人だって、お宅の旦那を悪く言う人はありませんよ。そりゃ、人には親切ですしねえ、ほんとうにあんないい方はありませんよ。世話好きでございますしね。いやあ、あたしなんぞは、なにおいても飛んでこなきゃならない、というのは、お宅の旦那さまに仲人をしていただきまして、いまのかかあをもらったようなわけで、これから先、もうあんないいかかあはもらえねえとおもって、重々恩に着てます。いいえ、ほんとに、なんですよ。朝はあれで早く起きますしね、器量《きりよう》だって、あのくらいなら別に悪いというほうじゃありませんし、縫い仕事なんかはね、よそへ出したこたあねえんですよ、たいがいのものは自分でやりますし、あの、煮炊きだってね、客が来たときだってよその店屋物《てんやもの》とるよりもね、あいつのこしらえたほうがうめえんですよ。読み書きってえほどのことはありませんが、あたしより、なんで、いえ、こうやっといてくれってえと、ちゃんと書いときますしね、あれでちょっとくらいの帳面はつけますからね。ほんとうにね、夫婦|喧嘩《げんか》なんか一ぺんもしたこたあねえんです。で、近所じゃそねみやがってね、夫婦みてえじゃねえ、色《いろ》みてえだなんてやがって……へへ、また、なんて言われたってね、夫婦仲がいいてえいうのは、別にだれに聞かせたって悪いことじゃねえんですからね、あたしはあれをいたわってやりますし、あれはあたしを慕《した》ってきます——妻は夫をいたわりつ、夫は妻にしたいつつ……あれなんです。あっしは、もっともね、喧嘩しねえってえな、あんまり浮気をしませんからね、うちを空けたことなんかねえんですよ。まるっきりねえことはありませんがねえ……あ、今年のね、花時分でしたよ。友だちに誘われまして、ひと晩、吉原へ行っちゃったんです。で、明くる日|帰《けえ》ってきます前に、女が仮病かなんかつかってふて寝かなんかしていると、どこか悪いのかと、入《はい》りいいんですがね、外からのぞいてみると、あいつは火鉢の前で一所懸命針仕事をしているんですよ。入《はい》りにくいもんですね、女の人にはわかりませんね。それでわざっと大きな声を出しましてね、『ごめんください』そらっとぼけて入って行ったんですよ。えへへ、火鉢の前へ座りますと、『ゆうべどこへ行ってきたんですよっ』とかなんとか言われちまやあ、さっぱりとしちゃいますが、言わねえんですよ。ちょいと顔を見ては針仕事をしているんですよ。てへっ、無言の行ってやつでね、真綿で首をしめられてるようなわけで、こっちは油汗がタラタラ出てきまして、そのうちにね、『昨晩はどちらでお浮かれでしたか?』と切り口上だ。つらかったねえ。『ゆうべは友だちのつきあいで、へべれけに酔っぱらって、おそくなって泊まっちゃったんだが、さみしかっただろう、勘弁しておくれ』とこう言いますとね、『どういうご婦人が相方《あいかた》に出ました?』と言いやがるんですよ。『へべれけに酔っぱらってるから、女の顔なんかおぼえていないよ』と言うと、『いくらお酒を飲んでらっしゃっても、相方の顔ぐらいおぼえているのが人情じゃありませんか』『そんなどころじゃねえ、まるっきり知らねえ』ってますとね、『二人で一緒になってはじめてうちで一人で寝てみたけど、ゆうべっくらいさみしいおもいをしたことはありません。それを知らないで、おもてで浮気なんぞをしてらして、ほんとうに罪な方ですわねえ』って言《い》やがって、股《もも》のところをギューッてつねりやがって……つねっても根が惚れてますからねえ、つねったあとをさすってやがんです……さよならっ」 「なんだいありゃあ…たいへんなやつが来たもんだなあ。ありゃ悔やみじゃないよ、ノロケだよ、最初《はな》っからしまいまでかかあのノロケを言って帰《けえ》ってしまいやがったね……おい、お婆さん、糊屋の婆さん、こっちへおいで」 「ごめんください、おっかさん、このたびはとんだことでございます。おかみさん、なんとも申し上げようがございません。あたしゃ、孫を連れて風呂へ行っておりますと、嫁が飛んでまいりまして、『お婆さん、たいへんだよ、次郎兵衛さんの船が沈んで……』って申しますから、『おや、そうかい』てんで、孫を逆さまに抱いて、飛んでまいりました。ままになるものなら、あたしなんぞ、先がないのですから代わってあげたいものとおもいますが、そうもまいりません。このあいだお説教を聞きにまいりましたら、坊さんというものはうまいことを言うもんですね。『明日あるとおもう心の仇桜、夜半《よわ》に嵐の吹かぬものかは』、南無阿弥陀仏……」 「おい婆さん、そこでお説教やってはしょうがないなあ、あとがまだつかえてるんだ……与太郎、こっちへ出てお辞儀しな」 「こんばんは……どうもありがとうござい……」 「ありがたかないよ」 「ええ、ありがたかないんですが、あたしがいまうちにいると、吉つぁんと留さんが来てね、次郎兵衛さんがなくなったというんで、どこでなくなったのか、捜しに行こうっと言ったら、死んじゃったんだって言う、いまはじめて死んだのかって言ったら、いくども死ぬやつはない。大笑いなんで……」 「笑いごとじゃないんだよ」 「それからね、あんなねえ、いい人がね、死んじまうなんて、それはずるいや……」 「ずるいてえのはない」 「生きてるうちはあたしにいろんなものをくれたよ。これからなんにももらえやあしない」 「そんなことを言ったってしょうがないよ」 「ほんとうにどうも……すいません」 「あやまってやがら、ばかだな。こうしててもしょうがない。……ねえ、おかみさん、お悔やみのところあいすいませんが、長屋の者はここで陰通夜をいたしまして、あとの半分はあした朝、薄明るくなったころ死骸を引きとりに行こうとおもいますが、このうちはおかみさんとおっかさんだけだから、どっちもいっしょに行っていただけないでしょうから、あたしたちで死骸を引きとってまいろうと存じますが、大勢の死骸のなかから、よくまちがった死骸を持ってきて葬式をしたなんてえことがありますから、旦那のお身装《みなり》をうかがっておきたいんですが、旦那が出て行くときは、どういうお支度で?」 「ありがとう存じます。出てまいりますときに、いつになくあたくしの顔をじっと見ておりましたが、にやりと笑って出てまいりました。いまおもえば、あれが最後の見納めでございます。とほほほ……」 「いえ、どういう身装《なり》で?」 「身装は、薩摩《さつま》の細かい飛白《かすり》に、透綾《すきや》の羽織、紺献上の五分詰まりの帯をしめております。煙草入れと扇子を腰へさしております。下駄は白木ののめり[#「のめり」に傍点]を履いております。しかん[#「しかん」に傍点]という下駄でございます。白《しろ》鞣皮《なめし》の鼻緒がすがっておりまして、柾《まさ》は十三本通っております。桐は会津でございます」 「え、話は細かいですね。だけど待ってくださいよ。死んだんですからねえ、おまけに水へ入《へえ》ってさあ……うまく透綾の羽織着て、煙草入れと扇子を腰へさして、柾の十三通った下駄を履いて、きちんと行儀よく死んでてくれればいいがね。船がひっくりかえって、水を飲み、苦しいからあがく、羽織は脱げちゃう、下駄はどっかへとんでいっちゃうてえと、身体のうちでなきゃあならねえんですよ、いちばんいいのは、どっかね、お灸のあとがあるとか、ほくろがあるとか、えぼがあるとか、あざがあるとか、古い傷あとがあるとか、そういうところはねえ、ふだん裸になっているところを見ているおかみさんがよーく知ってるわけなんですが、身体のうちになにか印《しるし》になるものはありませんかね?」 「ええございます。もしもわかりませんでしたら、左の二の腕をごらんください」 「へえ、左の二の腕ってえますと、これから上のほうですね、お灸ですか、ほくろですか、ひっつれでもあるんですか?」 「�玉命《たまいのち》�と、あたくしの名が入墨《いれずみ》になっています」 「どうも、ごちそうさまでございます。聞いたかい? 人は見かけによらないものですねえ。あの堅い次郎兵衛さんが、おかみさんの名前を入墨に彫ってるとさあ、それまで聞けばたくさんだ」 「じゃあ、半分陰通夜をしろ。……南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……」 「お寄りくださいませんか、あそこですよ、あたしの家は。あの二軒目の、たいそう灯火《あかり》がついて人が出たり入ったりしているが……あそこですから、ちょっと寄ってください」 「いいえ、そうしてはいられないんですよ、こういう騒ぎのあと、すぐ出てやらねえと仲間が、なんだかんだうるせえんですよ。こんな身装《なり》をしておりますし、ここまでお送りしたのは、お宅をおぼえようとおもいまして、ええ、もうわかりましたから、こんどかかあと二人でゆっくりおたずねに出ますから、奥さまにもお目にかからず、今夜はここでお別れをいたしますから……」 「そうですか、せっかくここまで来てくださって……まあ、無理にお引き止めをしてご迷惑がかかっちゃいけませんから、では、おかみさんによろしく」 「じゃあ、ごめんください」 「おや、おや、おや、おや、なんだい? 簾《すだれ》が裏返して『忌中』と……さあ、たいへんだ、一日家をあけたばかりで、おっかさんでも死んだのかしら? こっちが命拾いしたばっかりなのに、なんということだ……はい、いま帰りましたよ」 「うわーッ……」  入口にいた長屋の者は飛び上がって、土間へぺちゃんと座りこんでしまった。 「どうした? だれか来たのか? どうした? どうした?」  親戚の者が出て行くと、土間へ腰を抜かして座りこんでいる長屋の者が、大きな口を開《あ》いて表を指さしている。 「えへっへっへっへっ……」 「どうかしたか?」 「ジ…ジ…ジ…ジィ……」 「蝉みたいだね、おまえ見てやってくれ」 「だれか来たの? だれが……うわっはっはっは……」 「どうしたい、おなじようなやつが二人できちゃったよ、おい、どうした? うわーッ、……で…で…で、出たあー、……どうぞ浮かんでください、浮かんでください。……南無阿弥陀、南無阿弥陀仏……」 「浮かんでくださいじゃあありませんよ。お長屋の方、大勢集まって……おっかさんいますね? 家内もいますね? いったいだれが死んだんだ」 「おまえさんが死んだんだよ」 「え? なんだい、この早桶は?」 「おまえさんが入るんだよ」 「そそっかしい幽霊だな、自分の死んだのを忘れちゃいけねえ」 「むやみに上がっちゃあいけませんよ。まあおどろいたねえ、おまえさんはほんとうに次郎兵衛さんかね……? おや、足もある。これはまあ、どうしたんだろうね……」 「どうしたんだろうってえのはこっちのほうが聞きたいよ」 「こりゃ、おまえさんが、佃の祭りへ行って、船がひっくりかえったという騒ぎ、それで、おまえさんが帰って来ないから、てっきり死んでしまったとおもって、一同がいま陰通夜をしているんだ」 「あ、そうですか。よくわかりました。ご心配をかけて、お長屋の方、どうも申しわけございません。いや、じつは、あの船に乗ろうとしたのですが、三年前に本所の一つ目の橋から身投げをしようとした女を、五両のお金をやって助けたことがありました。その女の人に乗った船から引き降ろされましてね、そこのうちでお酒をごちそうになったりして、あの船へ乗らずにすんで、助かりました」 「……ひとの気もしらないで、うちでこんな騒ぎをしているのに、おまえさんお酒を飲んでるなんて、……相手が女だから金をやって助けたんでしょう。なにをしてたんだかわかるもんかっ」 「おかみさん、やきもちをやいたってしょうがない。おい、みんな聞いたかい? えらいもんだね。情けは人のためならずてえがほんとうだねえ。ああ、いいことはしておくもんだねえ。次郎兵衛さんの真似はできないねえ。……なにしろこんなめでたいことはねえ。せっかくの早桶が無駄になっちまった。糊屋の婆さん」 「はい、なんだね」 「おまえさん先がねえんだろう? どうだい、あの早桶をもらっていったら……」 「いいかげんにしておくれ、縁起でもない」  長屋一同、大笑いをして引きあげた。  はじめからおしまいまで、隅っこのほうでこの話をじーっと聞いていた与太郎。情けは人のためならず……人間はいいことはしておくものだ。人を助けておけば、いずれ自分も助けられる。なるほど、と感心をして、家へ帰ったが、銭がないから、道具屋を呼んできて、家財道具を売り払い、五両の金をこしらえて、これを懐中《ふところ》へ入れ、毎日、身投げを捜して歩いた。あいにく時化《しけ》だとみえて、なかなか身投げに出くわさない。  ある晩、永代橋へかかると、橋の上に、年のころは三十二、三、大丸髷《おおまるまげ》の、鬢《びん》のほつれが顔にかかり、袂《たもと》をふくらまして、水面を望んで、西へ向かって手を合わせている女を、てっきり身投げと見てとったから、与太郎はよろこんで、いきなりうしろから抱きついた。 「おかみさん、お待ちなせえ」 「なにをするんですよ、はなしてくださいよ」 「おかみさん、五両のお金に困って、こっちから身を投げるんでしょう?」 「そうじゃあありませんよ、歯が痛いから戸隠さまへ願をかけてるんです」 「そんなことを言ったって、おまえさんの袂に石がいっぱい入ってるじゃないか」 「いいえ、これは戸隠さまへ納める梨でございます」 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 三代目三遊亭金馬が十八番《おはこ》にしていた。大看板の噺家が物故すると、こうした噺もまた同時に冥界へ持って行ってしまう。学究的で判りやすい金馬の高座は、サゲの「戸隠さまへ納める梨」についても、マクラでちゃんと説明する。 「その、神さまにもいろいろ専門がございます。……戸隠さまってえのは虫歯の神さまです、歯科ですな。歯の悪い人は、梨《ありのみ》へ、上下《うえした》から何枚目と、生まれ月日と、書きまして、橋の上から戸隠さまへ願かけまして、これを流します。で、治るまで、梨をたべない……と虫歯が治るってんですが、昔の人の言ったことに、迷信と片づけられないことがずいぶんございます。梨の芯で歯をみがくと歯がきれいになります。歯のお医者さまに伺いましたら、なんでも酸味で歯をみがきゃァきれいになンだよってました。それだけ歯が減るんだそうで……それをたべないから、虫歯が治ると、うまく考えたもんですなァ」  という具合いである。そしてまた、やかん頭のいかつい風貌から、船頭の女房、次郎兵衛の女房、そしてのろける弔問客の女房の、三人三様のいじらしく、けなげな、女の色気を描き分けた芸の力が、いまも鮮明に残っている。  佃島渡船転覆水難事件は実話である。そのためか落語にはめずらしく、生々しいドキュメント手法《タツチ》で噺が展開する。ただし、原典は中国の明時代、『輟耕録《てつこうろく》』に収録された「飛雲の渡し」とか。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   あくび指南  いろいろな稽古事があるなかで、なにか変わった、いままでにない稽古事をしてみようという方がいるもので、ある町内に喧嘩《けんか》を教える……「喧嘩指南所」という看板を出した。またこれを見た人が、 「おう、おもしれえなあ、喧嘩指南所……へっ、じゃあおれがひとつ喧嘩を教わってやろう」  これが喧嘩のひとつも教わろうという人ですから、入ってくるなり喧嘩腰で、 「やいっ、喧嘩を教《おせ》えるってえなァてめえかっ」 「ばか野郎っ、なんてえ言いぐさだ、ええ? 世の中にてめえほどのばかがあるか。喧嘩を教わるのはてめえだろ? おめえは弟子で、おれは師匠だ。その師匠をつかまえて、てめえってえやつがあるか、ばか野郎、帰《けえ》れっ」 「なにをゥこの野郎、大きなごたくを並べやがったな、てめえは弟子だあ? けっ、なあにをゥぬかしやがんでえ、べらぼうめえ、笑わせやがらあ、なにを言ってやんでえ、かぶっかじりめ。なにが弟子で師匠でえ、まだおめえからものを教わろうときめたわけじゃあねえやい。ものを教わらなきゃあ師匠でも弟子でもねえや。こん畜生ァ大きなことをぬかしゃあがって、野郎、まごまごしやがると張り倒すぞ」 「はははは、すこゥし待ちな、いいから待ちなよ、はっはっ……おまえを仕込んだらものになるだろう」  また、釣りを教えてやろうと、粋な人が「釣り指南所」という看板をかける。さっそく行ってみると、釣り竿をもって二階へ上げられて、 「さあさあ、針をずっと下へ垂らしなさいよ。手前が下で糸を引きますから、あたりというものをよくおぼえてくださいよ。……さあ、これはいかがで?」 「なるほど、引いてる、引いてる。師匠、このあたりはなんでございます?」 「これは、鯊《はぜ》でございます」 「ははあ、なるほど鯊《はぜ》ってえのはこんなもんですかねえ。……おや、つぎはぐっときたね……うッ、こりゃあ、すごい引きだッ、おっとっと……」  師匠が下で力いっぱい糸を引いたので二階から落ちかかり、 「あっ、あぶない、こりゃ、おどろいたあ、いまのはなんてえ魚で?」 「へえ、そういうのは河童《かつぱ》ですからお気をつけなさい」 「おう、安さん」 「え?」 「すまないが、ちょっとつきあってくれ」 「つきあえ? なんだよ」 「じつはね、ちょいとひとつ稽古してみてえものがあるんだ、いっしょに行ってくれえ」 「稽古? へえー? なんでえ、なにを稽古するんだよ」 「この十軒ばかり行くてえと、左側に『あくび指南所』てえのができたんだ。で、そこへ行っておれはひとつあくびを稽古しようとおもうんだがなあ」 「ちぇっ、だからおめえは変わってるってんだ。あきれけえったな、おめえは……稽古するったって、よりによって、あくびの稽古なんてまぬけすぎるじゃあねえか。あくびなんてえものは、うっちゃっといても、なにかのはずみで出るんだ。あんなものは稽古しなくってもできるよ。世の中にあくびを銭出して稽古するばかがあるかい、ふん」 「そりゃあ、おめえのように言っちまやあ話はおしまいだ。なるほどおめえの言うとおり、あくびなんてえものは、うっちゃっといても出るよ。そりゃあ、なんかのはずみでも出るよ。出るけれども、向こうで銭をとって教えるんだから、どっかちょいとオツなところがあるんだよ。いっしょに行ってくれよ」 「よせよ、世の中にあくびにつきあうなんてえやつがいるかい、ばかばかしい。なあ、稽古したきゃあおめえひとりで行きねえ、おれはまっぴらごめんだ」 「だからさ、おまえは稽古をしなくてもいいんだ。おれだって初めて行くんじゃねえか。一人じゃあ間が悪いや。そばに友だちがいてくれるなとおもえば、こっちも気が強いてえやつだ。そばにいてくれりゃあいいんだ、な、頼むよ」 「いやだよ、ばかばかしい、ほかのものならともかく……」 「そんなことを言うなよ……おれだって、ずいぶんてめえにゃあつきあってることがあるぜ。二、三年前によ。踊りを稽古してえと言うんで、とめたけど、つきあいだとおもうから、おめえといっしょに横町の師匠のところへ行った。また師匠も師匠だ。『寅さん、あんよを上げるんですよ』と言ったら、おめえもまたずうずうしいね。上げたのを見ると、大きなあんよだ。まあ、ふつう九文ぐれえまではあんよの部へ入れてもいいが、おめえのは、十三文甲高、大きなやつをぬーっと上げたのを見て、おれは、ぞーっとしたね。そのとたんに、おめえ、尻もちをつきゃあがって、猫が逃げ出す、近所のひとは、おどろいて表へ飛び出す……」 「おいおい、つきあうよ。なにも古いことをひっぱり出さなくってもいいだろう?」 「じゃあつきあってくれ……ここだ」 「なぁーるほど、『あくび指南所』と看板に書いてある」 「ごめんくださいまし」 「どーれ……どなたじゃな? あいにく取り次ぎの者もおらんでな、どうぞお入り……」 「じつは、なんでございます。町内の若い者でございますが、へえ、えっへへ、ひとつ稽古をしていただきたいとおもいまして……」 「ははは、お稽古、では、どうぞこちらへ……ああ、そちらの方、あなたもどうぞ……」 「へ? へえへえ、この野郎は稽古はしねえんで、へえ。お稽古をお願いするのはあたしだけで……」 「では、お連れさんはそちらで少々お待ちくださいまし。いえ、たいしてお手間はとらせません。すぐでございますから……。ところで、どういうあくびを稽古なさいます?」 「どういうあくび? あくびにもいろんなのがあるんでしょうか?」 「そりゃあございますよ。春夏秋冬《はるなつあきふゆ》、四季のあくびがあります。早いお話が、秋ならば月を見ながらあくびが出る、冬ならば炬燵《こたつ》のなかであくびをしたとか。いろいろございますが、どういうあくびをお稽古なさいますか?」 「へえ、どういうのって……初めてなもので、様子がわかりません。なるべくやさしいのをお願いいたします」 「なるほど、やさしいの……ではこういたしましょう。いま申し上げた四季のなかで夏のあくびをひとつご指南いたしましょうかな。これがいちばんお楽でしょう。……まあ、夏は、日も長く、退屈もするからというので、まず船中のあくびですねえ。では、お稽古にかかりましょう」 「へえ、では、どうかひとつお願いいたします」 「よくこちらをごらん願います。ええ、右の手にこう煙管《きせる》を持って、で、左の手は、この膝の上へこう置きます。身体はあまり大きく動かさないように……これは、舫《もや》ってある船ですから、そのおつもりで……『おい、船頭さん、船を上手《うわて》のほうへやってくんな。水神へでも行って、ひとっ風呂とびこんで、日が暮れたら、堀から上がって、吉原《なか》へでも行って、粋な遊びの一つもしてこよう。船もいいが、一日乗ってると、退屈で……退屈で……(あくびをして)あああ、ならねえ』……とな」 「むずかしいねえ、こりゃあ。なんでも稽古をすりゃあむずかしいってことは聞いてましたが、これはたいへんだ。どうも一度や二度じゃおぼえられそうもねえや。へえ、すいませんがもう一度お願いいたします」 「なんべんでもやりますが、あまり長くないですから、なるべく早くおぼえてくださいよ。いいですか……心持ちはというと、八つ下がり、大川の首尾《しゆび》の松あたりに船を舫って、胴の間に客一人、艫《とも》のほうに船頭が一人、ぼんやり煙草を吸っている……という心持ちですよ。お断わりしておきますが、船は漕いではおりません。舫った船ですから……よろしいですか? 身体をこう少しゆすってな、これは船にゆられている、船に乗っている気分で……『おい、船頭さん、船を上手のほうへやってくんな。水神へでも行って、ひとっ風呂とびこんで、日が暮れたら、堀から上がって、吉原《なか》へでも行って、粋な遊びの一つもしてこよう。船もいいが、一日乗ってると、退屈で……退屈で……(あくびをして)あーあっ、ならねえ』……とな」 「だんだんむずかしくなりますねえ」 「ではこういたしましょう。とにかくひとつ、やってみていただきましょう。で、いけないところはあたくしがお直しをいたしましょう。そのほうが、ことによると早くおぼえられるかもしれません」 「ははあ、やってみとうござんすねえ……へえ、すいませんが、煙管をあいにく忘れてきたもんで、それ、ちょっと貸してください」 「ええ、どうぞ、お使いください」 「では、さっそく一服……へへへへ、だから、言わねえこっちゃあねえんだ。なんでもぶつかってみなくちゃあわからねえ。どっかあくびのやり方がちがうんだって……ねえ、ありがてえ」 「そう煙草ばかり何服も召しあがってはいけません。煙草は、一服にかぎるので……」 「ああ、そうか」 「はじめる前に、こう身体をゆすぶってな……やってごらん……いやいや、それではゆすぶりすぎる」 「波のきたところで……」 「余計なことをしてはいけません」 「へえ、どうもむずかしいもんで……ええ、はじめは、なんと言うんでしたっけね?」 「船頭を呼ぶので……」 「ああそうか……やいやい、船頭っ」 「それじゃあまるで喧嘩だ。退屈をしているんですから、もっとこう下っ調子で……『おい、船頭さん』……とな」 「ああ、そうか……おい、おーい、船頭さんか……」 「そんなところへ節《ふし》をつけてはいけません。もっと、やんわりと『おい、船頭さん』……とな」 「なるほど……おい、船頭さん、船を……なんて言いましたっけな」 「上手のほうへやってくんな」 「へ、その、う、うわてのほうへやってくんねえー、へっ、笑わしやがる」 「笑わしちゃあいけませんよ」 「水神へ行って、ひとっ風呂とびこんで、日が暮れればもうこっちのものだ。堀から飛びこんで……」 「堀から上がるので……」 「こんどは上がるのか……堀から上がって、吉原《なか》へでもわーっとくりこんで……」 「なんです。わーっとくりこむってのは、『吉原へでも行って、粋な遊びの一つもしてこようか』とな」 「ところが、なかなかそうはいかね……このあいだ、一貫二百勘定がたりなくって、えらい目にあった」 「そんなことは、どうでもよろしい。あくびのほうは……?」 「ああ、そうか」 「忘れてしまってはいけません。やってごらんなさい」 「ええ、……船もいいが一日乗ってると、退屈《てえくつ》で……退屈《てえくつ》で……」 「なんです? 退屈《てえくつ》って、もっと上品に」 「えへっへっへ、船もいいが、退屈で……退屈で……そりゃ、まったく、一日乗っていれば、どう考《かん》げえたって退屈《てえくつ》にちげえねえ」 「理屈を言ってはいけません」 「……船もいいが、一日乗ってると、退屈で……退屈で……(無理にあくびをしようとして)ハークショーッ」 「ばか野郎っ、どうもあきれたもんだ。けっ、なにを言ってやんでえ。教わるやつも教わるやつだが、教えるやつも教えるやつだ。いい年齢《とし》をしやあがって、てえげえにしろよゥ。なんだあ? 吉原へ行って、粋な遊びだってえ? 生意気なことを言うな。ごろ寝ばかりしてやがるくせに……なんだと? 船もいいが、一日乗ってると、退屈だ……なにを言ってやんでえ。稽古しているてめえたちはいいだろうが、そいつをばかな面ァしてここで待ってるおれの身になってみろ。退屈で……退屈で……(あくびをして)……あーあっ、ならねえ」 「ああ、あのお連れの方はご器用だ。見ていておぼえた」 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] ホイジンガーが「人間は遊ぶ動物である」と規定してから広まったレジャー時代の人間像を〈ホモ・ルーデンス〉というらしいが、この噺の中の人間などはさしずめ〈超ホモ・ルーデンス〉と呼ぶべきであろう。しかし、この噺はホイジンガーなどがまだこの世にいない、人知れずあくびのでるような時代だった。大川の首尾の松から御厩河岸《おんまやがし》を望んだ広重の一枚絵がある、その点景に収まったような一篇である。ほかに、町内の若い衆が、女師匠をはりあう音曲噺「稽古屋」「汲《く》み立て」がある。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   水屋の富  江戸時代には、本所、深川あたりでは、ほんのわずかの掘り井戸しかなく、飲み水にはたいへん不自由していた。この時代には、水屋という商売があって、多摩川上流の水を、船へ汲《く》みこんで運び、河岸へ着いた水を、この水屋が桶《おけ》へ担いで家々をまわって売り歩いていた。水をあつかう商売のこと、一年じゅう休みなく、朝から晩まで、天びんを肩に担いで、夏の炎天下、ぎしぎし、油汗を流して町内を売り歩くという、ずいぶんつらい稼業で……。  商売を休むには、だれかに代わりを頼む。その代わりの者が不実な者だと、自分の得意客をとってしまう。仲間に客をとられたくないから、少しぐらい身体が悪くても、無理しても出る。もう年はとってるし、もうそろそろ稼業をやめたいとおもっている。その水屋が、あるとき、富の札を一枚買った。  さて、その富の当日は、ぜひ休もうと、どこの町内はだれ、どこの町内はだれと、代わりの者をいれて、客をしくじらないように手配をして、買ったからには、むろん自分が当たる了見で、一所懸命に祈っている。  そのころ、ほうぼうに富があったが、湯島天神の千両富というのが、一番大きく……文政年間の千両というのは大金、当日、水屋が来てみると、境内は、みんな血まなこになって集まってきた連中が、おれが取る、われが取ると、気ちがいのように騒いでいる。 「おう、千両富も、いずれだれかが取るんだが、まあ、どの人に当たるだろうな?」 「ええ、わたくしに当たります」 「え? おまえさんに当たる? どうしてわかってるんだ?」 「へえ、わたしには、ちゃんとわかってるんで……神さまへ願《がん》をかけましたからね。『千両富が当たりますように』ってね。願をかけると、昨晩、枕もとへ神さまが出ましてね、『おまえに千両富、当ててやる』ってね、神さまがにやっと笑った。……ええ……もう当たることになってますから」 「べらぼうめえ。おめえたちに当たってたまるけえ、おれに当たるんだ」 「おいおい、喧嘩《けんか》しちゃあいけない」 「じゃあ、おまえさん、千両当たったら、その金をなにに使う?」 「そうさな。おれに当たりゃあ、あの角の空店《あきだな》を買いとって、質屋でもはじめるな。こうしておきゃあ、おれが質置くときに都合がいいや」 「おやおや、当たっても、まだ質を置きにいく気でいやがる。松つぁん、おめえはどうだね? 当たったらどうするね?」 「おれかい、おれは、その金をにぎって、日本じゅう見物して歩かあ」 「益《ます》さん、おまえは?」 「おらあ、当たったら、江戸じゅうの食いもの屋を一軒ずつ食って歩くね」 「食い意地の張ったやつだな。おい、そっちの人、おまえさんは?」 「あたしゃ、毎日一貫ずつちびちび使って、命が先になくなるか、金が先になくなるか、ためしてみる」 「ちぇっ、そんなけちけちしたことを言うなてんだな。おれなんざあ、金をうけとると、すぐその足で、吉原へくりこんで、大門をしめ切って、小判をまいて、紀国屋文左衛門の向こうを張ってみせらあ。みんな来て拾いねえ、おれもいっしょに拾うから」 「なんだ、だらしがねえ」  わいわい騒いでいるうちに、 「突きどめっ」  という声。口富《くちとみ》、五十両……中富《なかとみ》、二百両……ときてて、あとが突きどめ、千両ということになる。この声を聞くと、さしもの騒ぎも水を打ったようにしィーんとしてしまう。  富の札というのは、小さな札で、それを稚児が出て三尺七寸五分の長い錐《きり》で、箱のまん中にあけた三寸四方ぐらいの穴から、一枚の札を突き出してくる。箱が重いから二人がかりでごうごうと振って突きあげる一枚を、何番何番……と呼びあげる。  すると、当たったのが例の水屋で、当たるつもりで買ったとはいいながら、夢のようで、さっそく社務所へ行って、すぐに金をうけとると何割か引かれるが、とにかく千両足らずの金をもらいうけて、いそいそと家へ帰った。  もとより裏長屋、うちへ入って、どっかり千両の金を積んで、さあ、この金で、さしあたってどうしようという見当はつかない。しばらくは、それをじっとながめていたが、どうしてこの金を使おう、家でも建てようか、それもおかしかろう。ぶらぶら遊んでいるのもむだなはなしだ。やっぱりもとの水屋をやっていよう。けれども、金を背負って、水を担いでも歩けない。さあ、困った。家に置いておくにしろ、戸締まりはろくになし……神棚へのせておけば大丈夫、神さまが番をしてくれるから、金を包んだ風呂敷包みを神棚の上へのせてみたが、棚がやわだからとてものっからない。だいいち、つきあたりが神棚、表からがらり入ってきたやつに気づかれる。弱ったなあ。戸棚のなかへ入れておいて、泥棒が入ってきて……、 「なにもねえうちだが、着物の一枚や二枚ぐらいあるだろう」  と、戸棚をあけてひっかきまわしているうちに、どっしり重いものがある。風呂敷をあけてみると、金が出る。そのまま、背負っていかれては、たいへんだ。といって、急に、締まりをすると、 「いままで締まりがなかったのが、錠がおりてるぜ」  と、ふてえ了見のやつは気がつく。おれが富に当たったということもいずれ知れるから、かえってうちに金のあるのをみすかされるようなものだ。女房子はむだなもんだとおもって、ひとり身でいたが、こうなってみると、女房がないのは不自由だなあ。いっそ水屋をよして、どこへも出かけず、この金をぼちぼち使っていようか。いやいや、よしちまってから、泥棒に金でもとられて、得意客はなし、商売なしになってしまったら、あぶはちとらずだ。ああ、金持ちというものは心配なものだ。と……うちのなかをうろうろしていたが、やっと考えついたのが……、六畳の畳を上げ、根太《ねだ》板をはがして、縁《えん》の下に、横に丸太が一本通っていて、そこへ二重に包んだ金包みを結《いわ》いつけてぶらさげて、また上へ根太板を打ちつけて、畳をもと通りにして、表へ出て、いったん戸を締めて、自分で、 「ええ、ごめんください。お留守ですか?」  ああ、見えない、これなら大丈夫……これで安心して稼業に行ける。そのうちに女房をもらい、金の使い道でも考えよう。まあ、それまでは、知らん顔して水屋をしていよう。  翌日、早く起きて、すぐ縁の下をのぞいて見たが、まっ暗でわからない。そこで物干し竿を持ってきて、縁の下をかきまわしてみると、コツンとあたった。 「ああ、あるある、これなら大丈夫」  と、竿をかたづけ、ご飯を食べ、草鞋《わらじ》を履き、水桶を担いで、 「ええ、隣のおかみさん、行ってきます。どうかお頼み申します」  と、表へ出たが、また金が気になってきた。 「ああ、向こうからきた男は目つきがよくない……おや、すれちがっていったが、様子がおかしい、ひょっとするとおれのうちへ行ってなかへ入《へえ》りゃあしねえか。あぶねえ、あぶねえ」  と、家へひき返す。 「ああ、長屋の路地へ入ったな。これだから油断ができねえ。おれが富に当たって、金をうけとったのをたしかに見ていたやつにちがいない……おやっ、筋向こうのうちへ入った。はてな? あそこのうちで心やすい人かな?……ああ、出た、出た。これから、おれのうちへ入るかしら? まさか縁の下には気がつくまい……ああ、出てきた、出てきた、おれんちは素通りだ、ああ、安心だ」  こんな調子だから、水屋の商売に出ていても、心配で、大急ぎで帰ってきて、物干し竿を持ってきて、うちの縁の下をかきまわす。竿の先へ、コツン、コツンと手ごたえがあると、胸をなでおろして、竿をかたづけて、めしを食って寝てしまう。また朝起きると、物干し竿を縁の下へ突っこんで、つっついてみて、 「ああ、あった、あった」  とひと安心して、それから商売に出かける。  毎日毎日やっていると、ちょうどその向かいに住んでいる、これもひとり者で、なにをするという稼業もない遊び人が、 「どうもこのごろ、向かいの水屋のそぶりがおかしい。出ていくときも、帰ってからも、物干し竿を縁の下へ差しこんでは、なにかガチャガチャやっちゃあ、にこにこしているが、なにかあるんだろう。それに、このごろやつの様子がちがっている。なにか縁の下に入ってるにちがいない」  と、水屋が、桶を担いで出て行ったあと……長屋の様子を見ると、出商売の者ばかりで、だれも見ていないのをさいわい、裏口をあけて物干し竿を持ってきて、縁の下へ突っこんでかきまわしてみると、コツン、コツンと、竿の先へあたるものがある。はてな、なんだろう? と、竿の先のあたったあたりを見当つけて上へあがり、畳をあげ、根太《ねだ》板をはがして、のぞいてみると、風呂敷包みがぶらさがっている。とりだしてみると、ずっしり重い。 「こいつは、しめた」  と、そっくり盗んで行方《ゆくえ》をくらましてしまった。  夕方になると、水屋が帰ってきた。 「お隣のおかみさん、ありがとうございました……留守にはだれも来ませんでしたか? ああ、そうですか?」  いつものように物干し竿を持って、いつものようにガチャガチャかきまわしたが、 「おや、ないぞ」  上へ上がって、畳をあげてみると、根太板のはがした跡があって、金の包みは、かげもかたちもない。 「おや、金は盗まれたな……ああ、これで苦労がなくなった」 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 人間の不条理を皮肉り、欲心に一瞬の真実を感じさせる好篇。富に取材し、富に当たる噺は「御慶」[#「「御慶」」はゴシック体]「富久」「宿屋の富」等、多いが、秀れていることではこの噺に止《とど》めを刺す。三代目柳家小さんがよくやった。原話は文化十年刊『百生瓢《ひやくなりふくべ》』所載の「富の札」。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   紙入れ  町内で知らぬは亭主ばかりなり……という川柳がある。 「新さん、いいじゃないか。なにをびくびくしてんだね。先刻から、ちっとも落ち着いちゃいないじゃないか」 「おかみさん、もし、こうやって差しむかいでやってるところに、旦那がお帰りになりゃしないかとおもって……」 「大丈夫だってえば……旦那は今夜は帰らない。だから、泊まったっていいやね。それともなにかい、あたしがこんなお婆ちゃんだもんで、嫌《いや》んなったのかい?」 「そんなことを言っちゃあ困りますよ、おかみさん。あっしはまあ、悪いとは知りながら、ついこんなことになりまして……いろいろご厄介になっているうえにこういうことになって、もしも旦那に知れたら、申しわけなくって……」 「へえー、じゃあ、旦那にご厄介になったからあたしはどうでもいいてえの? 旦那がどうこうしたって、みんなあたしの差し金じゃあないか……『新吉にああしておやんなさい、感心なんだから……』って、みんなあたしが陰で糸を引いているんじゃないか……そんなことを言って、今夜ほかにお約束でもあるんだろう? そのほうへ行くのを、あたしから使いが行ったもんだから、なんとか文句をつけて、逃げようってえ算段をしてるんだろ?」 「とんでもございません。それがその……もし……?」 「この人はなんてまあ意気地がないんだろう、大丈夫だよ。お帰りはないとわかってんのに……いま一本さしたからね、もう一本飲んで、ね? やすめばいいじゃないの……ね?」  おかみさんが、新吉の手をとったとたんに、表の戸がドンドンドンドン……。 「おい、あたしだ、開《あ》けとくれ」 「さあ、たいへんだっ……」 「新さん、そんなところでなにをぐるぐるまわってんだよ。さあ、早く裏からお逃げ……」  おかみさんは、新吉を裏口から逃がしておいて、それからおもむろに旦那をうちに入れて、落ち着き払った顔でいるが、逃げた新吉のほうはまっ青になって……、 「ああおどろいた。おどろいた。命のちぢまるおもいってえのはこれだね、悪いことはできないもんだ。だから言わねえこっちゃあねえ。どうも今夜は胸さわぎがしたんだ。ぐずぐずして、旦那にみつかったら、それこそたいへんな騒ぎだ。なにか忘れ物はなかったかな?……羽織は着ている、下駄も履いてる、煙草《たばこ》入れも持っている、と……あっ、紙入れ、紙入れを忘れてきた。さあ、たいへんだ。あの紙入れは、旦那にいただいたものなんだから、ひと目見ればわかっちまう……それに、なかを開けて見られたら……おかみさんからきた手紙が入っている。紙入れに手紙と、こう証拠がそろっちゃあもうだめだ。ちぇっ、しかたがないから、逃げよう。今夜、夜どおし逃げたら、かなり遠くまで逃げられるだろう。そうだ。夜逃げをしよう……だが、待てよ。もし、もし旦那が紙入れを見つけなかったら……なにも逃げなくっても、……ともかく、あすの朝、もいっぺん行って様子をみよう。それで、旦那の顔色が変わってて、『この野郎、よくもっ』って言われたら、それから逃げてもおそくはない。そうだ、そうしよう」  度胸はきめたものの、その晩はおちおち寝られない。夜が明けると、おそるおそる旦那の家へ出かけて行った。 「お早うござい……」 「あ、なんだ新吉じゃねえか、どうしたい? たいそう早えじゃないか」 「お早うございます」 「まあ、上がったらいいだろう。そんなところにぼんやり立ってねえで……おい、新吉が来たんだ、お茶を入れてくれっ、まあ、お茶でも飲んでけよ。朝茶はその日の災難をさけるなんてえことをいうじゃねえか……上がれ」 「ありがとう存じます」 「なんだか、おまえ、けさは顔色がよくねえようだが、なにかあったのか?」 「さあ、あったんでございましょうか?」 「おい、しっかりしなよ。こっちで聞いてるんじゃないか。どうしたんだ? 心配ごとか?」 「へっ、……じつは……その、ちょっと、世間に顔むけのできねえようなことをしちまったんで、人の噂も七十五日と申しますから、ほとぼりのさめるまで、どっかへ旅に行こうとおもうんですが……」 「旅へ出る? おかしいじゃねえか……おい、新吉のやつが旅へ出るんだとよ」 「あら、どうしたの? 新さん、急に旅へ出るなんて……旦那、どうしてなの?」 「いや、世間に顔むけができねえようなことってのは? 借金か? 金のことだったら相談にのろうじゃないか」 「いいえ、金ですむことならいいんですが……それが……」 「ふっ、すると、女だな? そうだろう?」 「……はい」 「いいじゃねえか、おめえなんざ、年齢《とし》は若いし、男っぷりもいいし。いつまでもひとりでいられるわけではなし、まとまるもんなら、おれがひと肌脱ごうじゃあねえか。女に惚れるぐれえ、かまわねえ。しかし、なにをしてもかまわねえが、新吉、主《ぬし》ある身だけはよしなよ」 「へえ……じつは……それなんで……」 「え? そりゃまずいぜ、おまえ」 「はい、まずいんでございます。じつはその……旦那がいろいろ目をかけてくださいまして、ご厄介になり、ちょくちょくお出入りをしておりますんで……」 「うん、それで?」 「で、また、その……おかみさんがあたくしに親切にしてくださいまして……つい……その……」 「ああ、よくあるやつだ。……で、なにか? このことが旦那に知れたのか?」 「へっ?」 「いやさ、その旦那に見つかったのかって聞いてるんだよ」 「さあ、どうなんでございましょう……?」 「まだわからない? ふーん。それで逃げて旅へ出ようってえのか……またおっそろしい気の早いやつだ、知れたから逃げるてえのはあるが、なにか知られるようなへま[#「へま」に傍点]でもやったのか?」 「へえ……その……旦那がよそへお泊まりになるってんで、その留守にうかがいまして、さあ、これからってえときに、急に旦那がお帰りになって……」 「やれやれ、天罰だ。……で、見つかったのか?」 「いいえ、うまく裏口から逃げたんですが、そのとき、つい、忘れ物をしてまいりましたんで……」 「ばかだなあ、おまえってえやつは、内緒事をするんなら、抜け目のないようにしな。なにを忘れてきたんだ」 「へえ……じつは、紙入れを忘れてまいりました」 「えっ? 紙入れ、あのおれがおまえにやったやつか。じゃ、その旦那は知っているのか、紙入れを?」 「へえ……その中に、おかみさんからの手紙も入っているんで……」 「そりゃ、なおまずいな。そういうものは、すぐにやぶいてしまうもんだ。うかつだな、どうも……そうか、そりゃあ心配だなあ……おい、新吉のやつは向こうへ、紙入れを忘れてきたんだとよ」 「ふふふふ、いやだよ、新さん……ほんとうに、青い顔なんかしてさ。しっかりおしよ。そりゃ、おまえ、旦那の留守に、若い男でも引き入れて、内緒事でもしようというおかみさんじゃないか、おまえ、そこに抜け目があるもんかね、紙入れなんか、ちゃあんと……こっちへしまって……ありまさあ、ねえ、そうでしょ、旦那?」 「うん、そうとも。たとえ紙入れがそのへんにあったって、自分の女房をとられるようなやつだから、そこまでは気がつくめえ」 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 〈艶笑落語会〉などの番組《プログラム》には必ず出される代表格、おなじみの間男の顛末《てんまつ》。犯行現場? での三人の会話《やりとり》は、一言一言《ひとことひとこと》にシーソーな応酬があり、一言一言ゆるがせにできないスリリングな逆転を孕《はら》んでいる——安堵と破滅のふた筋道。性《セツクス》のことは、それ自体|可笑《おか》しいものだが、そこに人間性が持ち込まれると、さらに面白くなる。こうした間男、姦通を扱ったものはフランスのコント、中国の小咄などに多量にあるが、これは世界各国共通の尽きせぬ話題、関心事であろう。日本においても、東大落語会編の『落語事典』が集録した落語、約千二百編の半数以上が艶笑、バレ噺といわれているものであることをもってしても、十二分に証明できるであろう。「返し馬」[#「「返し馬」」はゴシック体]参照。ほかに艶笑落語としてよく演じられる噺に「風呂敷」「蛙茶番」「疝気の虫」「なめる」「鈴ふり」「姫かたり」などがある。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   千両みかん  日本橋のさる大家《たいけ》の若旦那が、ふとしたことから病《やまい》の床についた。両親の心配はひと通りではない、医者よ薬よと、手のとどく限りつくしたが、病は日一日と重くなるばかり。ところが、ある医者が、 「病のもとは、なにかおもいこんでいることがあるとおもうので、それをかなえてあげたら、治るだろう」  と、見立てた。そこで、両親は、番頭を呼んで、 「なあ、番頭さん、お医者さまああ言ったが、伜《せがれ》の胸のうちを聞くにも、わたしが聞いても、恥ずかしがって言わないだろうし、他の者でもぐわいが悪いが、おまえさんなら伜とは、幼い時分から仲よしだから、ひとつ聞いてくれないか?」 「ええ、よろしゅうございます。さっそく聞いてみましょう」 「頼みます」 「へえ、若旦那、お暑いことで……きょうは、ご気分はいかがでございます?」 「ああ、番頭さんか、いつも親切にしてくれて、ありがとう。そのおこころざしは、死んでも忘れない……」 「あ、いやですよ。そんな縁起の悪いことを言うもんじゃありませんよ。そんなことより、若旦那、いま先生のお話だと、なにかおもいつめていらっしゃることがあるとのことですが、若旦那の病は、それじゃありませんか?」 「ああ、先生はそう言ったかい。さすが名医といわれる先生だ。恐れ入った。じつはなあ、番頭さん……おまえ、笑っちゃあいやだよ」 「いえ、めったに笑いません、へえ……」 「いやあ、やっぱりよそう。それが言えるくらいなら、なんにもこんな苦しいおもいをするこたあない……言ってもかなわぬことだ……言うも不孝、言わぬも不孝、おなじ不幸なら、このまま言わずに死んでいきたい……どうか、聞かずにおいてくれないか?」 「ああ、そんなにおもいつめていらっしゃるなら、無理にとは申しません。しかし、この番頭だけに聞かしてくださいませんか? ね、こうしましょう。わたしが聞いてこりゃあかないそうもないとおもったら、けっして旦那さまには申しません。わたしの胸にしまっておいて、口外するようなことは誓っていたしません。それならいいでしょう?」 「それなら、言ってもいいが、じつはな……」 「へえ」 「ああ、恥ずかしい……笑っちゃあいけないよ」 「笑いません、こわい顔してますから……」 「別にこわい顔しなくてもいいが……じつはな……艶《つや》のいい、ふっくらとした……」 「へえ、わかりました。みなまでおっしゃるな、けっして口外はいたしません。わたしにおまかせなさいまし。どこの娘です?」 「ちがうよ」 「じゃあ、芸者?……名前とところを教えてください。これから、わたしが話をつけに行きます」 「番頭さん、おまえ、勘ちがいしちゃあいけない。わたしのほしいものは、女じゃあないよ」 「へえ?」 「みかん」 「え? みかん?」 「みかんが食べたいんだ」 「へえー、だって若旦那、艶のいい、ふっくらとした……ってえから、あたしはてっきり……」 「そういうみかんを食べたくて、じつは、病気になっているんだよ」 「へーえ、みかんに恋わずらい? そいつは医者や薬じゃあ治らないわけだ。なんです。みかんぐらいお安いことです。これから、すぐ買ってきて、召しあがっていただきます」 「そうかかなえてくれるか……ありがたい、じゃ頼んだよ」 「よろしゅうございます。どうぞ、ご心配なく、待っててください……いま、旦那さまに申し上げてきますから」 「ああ、番頭さん、ご苦労さん、伜《せがれ》のおもいを聞き出してくれましたか?」 「へえ、それが……じつは……」 「なんと言った?」 「へえ、艶のいい、ふっくらとした……」 「やっぱりそうか。親というものは、いつまでも子供だ子供だとおもっているが……して、相手の娘は?」 「旦那もそうおおもいで……じつは、若旦那、みかんに恋わずらい」 「なに? みかん?」 「へえ、みかんが食べたい」 「あのみかんが……?」 「へえ、このおもいがかなえば、病は治る、とそういうわけでございます」 「しかし、そいつは困ったな。で、おまえ、伜になんと言った?」 「へえ、『みかんぐらいお安いことです、これから、すぐ買ってきて、召しあがっていただきます』と……」 「いやあ、番頭さん、そんな安請け合いしたって、きょうはいったい何日だとおもう? 土用の最中《さなか》に、どこを捜したって、みかんなんぞ、あるわけがない」 「あっ、そうで……冬場のみかんの出さかりならいざ知らず、こりゃあ、とんだことを請け合いました」 「みかんの出さかりまで、とても伜の命はもちますまい……かといって、いちど請け合ったものを、ないと言ったのでは、一時にがっかりして死んでしまうにちがいない。そうなれば、おまえが手をくださないでも、主《しゆう》殺しになる。おまえは、主殺し、ということで、町内ひきまわしの上、逆《さかさ》はりつけだ」 「へへへへへえ……べつに悪気があって請け合ったわけではございません。なにぶん、ご了見《りようけん》を願います……」 「そりゃ、わたしが了見しても、お上が了見しない……さあ、早《はよ》う出かけていって、みかんを捜してきておくれ。でないと、主殺しのかど[#「かど」に傍点]で……」 「へえへえ、若旦那の命にゃあ代えられません。捜してまいります。捜してまいります……さっそくこれでおいとまをして、みかんを捜しに行ってまいります……こんちはっ、八百屋さん」 「やあ、番頭さん、ご用はなんで?」 「おまえの店に、みかんはないか?」 「冗談じゃあねえ、この土用の最中《さなか》、暑いさかりに、みかんのみの字もあるわけはねえでしょ」 「そうだろうなあ……ああ、困ったことになったなあ、若旦那も悪い時季に患ったもんだなあ、人の気も知らないで、えらいことになった……へえ、こんにちは」 「へい、いらっしゃい、なにを?」 「お宅に、みかん、ありますか?」 「なに?」 「みかん」 「みかん? この暑いのに、どこにみかんがあるかよ」 「へへへえ……ああ、情けない、若旦那、一人でなく、主殺しのかど[#「かど」に傍点]であたしまで、二人の命なくなっちゃう。……へえ、ちょっと、うかがいます」 「え、らっしゃい」 「ありませんか?」 「なにを?」 「へえ、みかん、ありませんか?」 「冗談言っちゃあいけねえ、うちは魚屋だよ」 「魚屋に、みかんないんですか?」 「ふざけるねえ……ははあ、気の毒になあ、この暑さで、頭がおかしくなったんだな……おい、そこへ座りこんじゃあ、だめだ。え? どうしたんだ?」 「へ……へえ、じつは、お店の若旦那が、みかんが食べたい、と病の床につきまして、それがかなえられなければ死ぬと申します。もし、みかんがなければ、若旦那の命はもちろん、あたしは主殺しの罪で、町内ひきまわしのうえ、逆はりつけに……」 「へえー、たいへんだねえ。お気の毒なことだ。そーね、みかん、この広い江戸だ……そうだ、神田の多町《たちよう》(市場)へ行ってみねえ。あそこに、万亀というみかん問屋がある。そこへ行けば、ことによったらみかんの囲いが、一箱や二箱はあるかもしれねえよ。行ってみねえ」 「へえ、神田の多町……万亀という、みかん問屋……なるほど、そこに気がつきませんでした。ありがとうございます……ああ、これで、主殺し……町内ひきまわしの上、逆はりつけは、まぬがれる。……ああ、ありがてえ、ああー、ここが神田の多町だ……ああ、万亀、あそこだ……へえ、こちらでございますか? 万亀は?」 「へえ、そうですよ」 「お宅にみかんございますか?」 「ええ、みかん? みかんならありますよ」 「えっ、あるッ、ありがたいっ」 「痛っ、なにするんです、この人は? 人の胸ぐらァつかまえて……ああ、苦しい、とにかく手をはなしてくださいなっ」 「うわーん、うわーん」 「もし、お客さん、いい年齢《とし》をしてなにを泣いてるんですか? よくよくみかんのいる人らしい……一つでよろしゅうございますね。一つぐらいはなんとかあるでしょうから、いま、捜させますからね、ちょっとお待ちください……おーいっ、みかんのご用だよーォ」  店の奥から若い者が七、八人出てきた。長さが一尺もある札のついた蔵の鍵を裏の蔵の錠前《じようまい》へさしこんで、ピーンと錠をはずし、大戸へ手をかけて、ガラガラガラと開くと、若い者が飛びこんで、山のように積んであるみかんの箱を表へほうり出した。 「ほいきたっ」  若い者が受けると、一人が縄を切り、一人が金づちでポン、ポーンッ、ポン、ポーンッ、と箱の蓋《ふた》を開《あ》けて土間へみかんをあける。 「あ、これもだめ」 「あ、これもだめ」 「これもだめだ」  見るまに、万亀の蔵の前の土間は、みかんのくず[#「くず」に傍点]で山のよう……。 「あっ、あった、あった」 「あったか?」 「ああ、あったよ、どうだい。葉はついてるし、いい型をしている……旦那、ありましたよ」 「おお、あったか、ご苦労ご苦労……お客さま、一つですが、いい型をしたのがありました」 「あ、あ……ありがとうございました。で、おいくらでございましょう?」 「値段ですか? ちょっとお高くなりますが……」 「そりゃあ、季節《しゆん》はずれのみかん、高いのは承知しております。おいくらで?」 「千両」 「えっ、千両? ふわーっ」 「どうしました?」 「へえへえ、腰……腰がぬけました」 「しょうがないな、だれか起こしてやれ……ねえ、お客さま、このみかん、千両でもけっして高くはありませんよ……あたしどもみかん問屋、万亀という看板を出している以上、お客さまから、いつ買いに来られても、ないと断わるわけにはいきません。お城やご大家の隠居さまから真夏、『みかんが食べたい』というご注文がありますので、あたしどもはみかんの出さかりに、腐るのは承知で、二戸前の蔵につぶ選《え》りの上物ばかりぎっしり囲っております。その中から、いい型をしたのが、一つか二つあれば儲けもの、これだけの仕入れをした中から、一つのみかん、千両でお高いはずはありません。お気に召さなければ、どうぞおやめください」 「ま、ま、待ってください。このみかん、一つが千両……わたし一存にはまいりません、これから店へ帰りまして、主人ともよく相談の上で、きめてまいりますので、どうぞ、しばらくお待ちを……へえ、行ってまいりました。旦那さま」 「おお、番頭さん、この暑いのにご苦労だったなあ。で、みかんはありましたか?」 「へえ、一つだけありました」 「へーえ、あった、ありましたか、ありがとう。よく捜してきてくれました。で、みかんはどこに? 早く伜に食べさせてやってくれ」 「それがいけませんので……」 「なに? どうしてだ?」 「そのみかんは、一つ千両なんでございます」 「ああ、そうだろうな。千両、季節はずれのみかんだ、そのくらいはするだろうな……伜の命には代えられない。千両で伜の命が買えれば、安い。じゃあ、さっそく、ご苦労だが、番頭さん、もういっぺん、千両箱をもって、そのみかんを買ってきておくれ」  目の前へ千両箱をドンと出されて、番頭さん、また、腰をぬかした。  大八車に千両箱と相乗りで、多町の万亀に行き、みかんを一つ、持って帰ってきた。 「へえ、これでございます、旦那さま」 「よし、早く伜に食べさせてやってくれ」 「かしこまりました……へえ、若旦那さま、みかんがございましたよ。さあ、おのぞみのみかんですよ。さあ、どうぞ、召しあがりください」 「あーあ、あったか……番頭さん、ありがとう。無理を言ってすまなかった……あーあ、ほんとうにいい型をしたみかんだ、艶といい、ふっくらとした型といい……」 「おうれしゅうございますか? 若旦那さま、大旦那さまのご慈悲をお忘れになっちゃあいけませんよ。このみかん、一ついくらだとおもいます。これ、一つ、千両でございますよ。あたしは、値を聞いたとたんに腰をぬかしてしまいました。ところが、大旦那さまは、『伜の命には代えられない』と、千両箱をドンと目の前へほうり出しました。あたしはそこでまた、腰がぬけましたが……まあ、親なればこそでございますよ」 「ああ、ありがたいことだ……番頭さん、むいておくれ」 「ああ、もったいない。これが千両……皮だけでも何十両についてるかもしれません。ああ、房《ふくろ》が、ひい、ふっ、みい、よう……十房《とふくろ》ございます。すると、ひと房《ふくろ》が、百両ッ?」 「おとっつぁん、おっかさん、ちょうだいします……ああ、おいしい、ああ、おいしい」 「あっ、百両、あっ、二百両……三百両、あっ、四百両……五百両っ……」 「ああ、おいしかった。たいしたもんだ、急に体に元気がついてきた。ところで、番頭さん、ここに三|房《ふくろ》残っているから、これをおとっつぁんとおっかさんにひと房《ふくろ》ずつ、あげておくれ。それから、番頭さん、おまえさんにもたいへんご苦労をかけました。これをひと房《ふくろ》、おまえにあげるから、食べておくれ」 「えっ、あたくしに? あたくしにまで、ありがとうございます……へっ、ちょうだいいたします」  盆の上に、捧げるように三|房《ふくろ》のみかんをのせて、番頭さん、梯子段《はしごだん》を降りて、茶の間のほうへ行かずに、蔵の廂間《ひあわい》へ入った。 「へへえ、ねえ、ご大家の若旦那というものはちがったもんだね。千両のみかんを見るまに七百両、食べちゃって、あとの三|房《ふくろ》をおとっつぁんとおっかさん、それに番頭にやるよって……どうだい、ひと房《ふくろ》が百両……百両、二百両、三百両。ああ、ねえ、九歳のときからこの店へ奉公しているが、この先、百歳《ひやく》まで奉公したって、三百両なんて大金は手に入ることはない……これだけあれば、大旦那さまには悪いが……」  と番頭さん、みかんを三房持って、そのまま逃げ出した。 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 土台無理な噺の設定を押しすすめていくところに、この逸話の面白さがあり、特異《ユニーク》さがある。とくに番頭の忠実さ、一心さが第三者の笑いを誘うわけだが、じつはこの笑いがことごとく番頭を追いつめていく結果になる。笑いが気づかぬところで、人を陥れる……とはいえ、救われるのは、番頭が損得ぬきで、これっぽっちも邪心がなく、ひたすら蜜柑《みかん》捜しをし、若旦那からのお裾分けを持って、ほんの出来心[#「ほんの出来心」に傍点]で、逃亡するからである。それは、番頭にとって三百両にも値いする解放感だったかもしれない。  元来は上方噺で、原話は『鹿子餅《かのこもち》』(明和九年刊)所収の「蜜柑」で、落語の作者は笑福亭派の祖、松富久亭松竹と伝えられている。今日、大阪で演じられているサゲの部分で、番頭が、「ああ、金持というもんはえらいもんやなア。蜜柑一つに千両の金を投《ほ》り出す……。しかし、親心とはいいながら、考えてみれば勝手なもんや。息子のためなら、千両の蜜柑を買う人も、わしが来年別家するのに、くれる金が、たかだか五十両。めったに百両くれる気づかいはない……。が、待てよ。ええいッ、あとは、野となれ山となれ」と、いう演出をとっている。それでは番頭が自分自身を取り戻しているし、救いがないのではないか? それにしても、現代は冷凍|蜜柑《みかん》が四季を通じて出まわる世の中、こうした悲喜劇を主題《テーマ》にした落語が成立する余地はもうなくなった。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   麻のれん 「どうも、ひどい降りでござんしたな」 「そうだね、まあ、夏の雨は降るがいいや。でも雷がよく鳴ったね」 「さいでございます。雷ってえやつが、あたしは見えませんもんで、もうなによりも怖《こわ》ござんす」 「いやあ、雷の怖くないものはいないよ。杢一《もくいち》っつぁん、おかげでとても楽んなったよ、うーん、やっぱりおまえさんでないと按摩《あんま》はだめだね、おまえさん、急所を知ってんだね」 「そりゃどうも、へへ、旦那にそう言われるてえと、わたしは、いちばんうれしゅうございます」 「杢一っつぁん、今夜はもうおそいよ、うちへ泊まっておいきよ」 「ええ、いや、そんなにご厄介になっちゃあ……」 「泊まってもらったって、なんのおかまいもできないが、おまえさん一人ぐらい寝る部屋はある。それともなにかい、だれか待っている人でもあるのかい?」 「いいえ。そんなものはいやあしません、ええ。待ってるのは、天井裏の鼠ぐらいのもんで……」 「それならいいじゃないか。え、泊まっておいき」 「ええ」 「おいおい、……おきよ。今夜、杢一っつぁんが泊まる。ああ、離れの八畳をね、あそこへ布団を敷いてあげとくれ。ああ、布団はね、なるたけやわらかいのを敷いておあげ。それからね、枕もとへ、土瓶《どびん》に番茶のさましたのをいれておいとくれ、あ、それから麻の蚊帳《かや》があったろう。あれを吊《つ》んなさい、いいかい。うん……いま、支度ができるから、杢一っつぁん、目が不自由だと、困ることも多いだろう?」 「いいえ、困りませんとも。あたしに言わせれば、目あきの方のほうが気の毒だとおもいますねえ」 「ほう、どういうわけで?」 「どういうわけったって、旦那、目があいてりゃあ、なんか見えましょ。見えりゃあ欲しくなってくるでしょ。どんなもの見ても欲しいから、買いたくなります。買えればようがすよ、買えないとなると、自分のおもったことが通らねえで、情けないじゃありませんか。目が見えなきゃあ、欲しいものがなにも見えませんからね。ですから、これがいちばんいいんですよ。あははは、目あきは気の毒だ」 「なるほどなあ」 「それにね、旦那の前でございますがね、どうも目あきくらい、そそっかしいものはありませんな」 「そうかい」 「そうですとも、うちのなかで柱にぶつかり、往来で人にぶつかったりするのは、みんな目あきですよ、盲人《めくら》のほうはめったにないですからな」 「なるほど、そう言やあ、目あきは油断があるからなあ」 「あたしなんぞ、療治の帰りにね、よく暗闇で突きあたられるが、みんな目あきですよ。どうも目あきに突きあたられてしょうがないんで、こないだ、目あきよけの提灯《ちようちん》を持って歩きました」 「ほほう、按摩さんが提灯を持って? そんならみんなよけてくだろう」 「ところがそれがまた、おかしい……そそっかしいのがドーンと突きあたりましたから、あたしゃ言ってやったんですよ。『なんだって突きあたるんだっ』すると『しょうがねえ、お互いさまだ』ってえから『なにがお互いだいっ、あたしゃ、目が見えないんだ』『ああ按摩さんか、そりゃ気の毒だったなあ』『気の毒じゃあねえや、こっちはね、おまえさんみたいな、そそっかしい目あきに突きあたられんのがいやだから、こうやって提灯持ってるんだ、この提灯が目にはいんねえか』って言ったら、『按摩さん、灯《あか》りが消えてるよ』って……えへへっへ……」 「なんだ、消えてちゃあ、なんにもならないじゃないか」 「へっへっへ、やっぱり盲人《めくら》はだめですね、あっははは、どうもね」 「ああ、そうか、うん……うん。じゃあ、杢一っつあん、支度ができたそうだ。……あー、手を引いて連れてってもらいな」 「いいえ、手なんぞ引かなくても結構、いりませんよ」 「いや、それがいけないんだよ。おきよ、手を引いてっておあげ」 「いいえ、いいえ、結構、わかります、わかります。……いえ、わたしは、この家はもうなんどもうかがってますから、よくわかっておりますから。結構、結構……こう廊下へ出て、お隣がお嬢さんのお部屋……こっちに厠所《はばかり》があって……ここが階段……ここがずーっと縁側になっていて、こっち、こっちがお庭で……ね、わかっておりますから……おやすみなさい……と、ねえ、おきよさんに手を引いてもらえば、ありがたいけど、ね。杢一っつぁんが泊まると手数がかかる、なんて嫌《きら》われちゃあつまらねえ……いいんですよ……おっと、このつきあたりが離れ、さあーと、これが蚊帳……えっ? なんだいこりゃ、蚊帳が吊ってあるのに、布団が敷いてねえじゃあねえか。いったい、どこへ寝るんだい? 枕もとだってなんにもありゃあしねえ。……なんだい、こりゃ、また、ずいぶんせまい蚊帳だね、こうやって両方へ手がとどくよ。どうでもいいけど、蚊が入ってきたよ。しょうがねえ、どうも、あっ、また入ってきた、畜生めっ、う、うーん、うわッ、えらい蚊だ。う、うーん……」  一晩じゅう、ピシャピシャ蚊にくわれながら夜が明けた。 「え、お早うございます」 「あ、お早う、早いね」 「え、お早うございます」 「あたしも朝早いほうだけどもね、おまえさんも早いな。なにかい、床が変わったんで寝られなかったのかい?」 「いえ、寝られないってわけじゃないんですけどもね……。ちょっと旦那にうかがいますけどね、あのゥ、お宅の蚊帳は天井がないんですか」 「天井のない蚊帳ってのはありませんよ」 「そうですか。いやもうひどい蚊でござんしてね、へえ、こんなにくわれました」 「おやっ、なんだい、頭が金平糖《こんぺえとう》みたくなっちゃった、しょうがないなあ、きよ[#「きよ」に傍点]は?」 「ええ、そいで布団もなにも敷いてないんですよ」 「しょうがないな、奉公人てえものは……おきよ、おまえかい、離れの八畳の蚊帳を吊ったのは? えー、見てごらん、気の毒に……杢一っつぁんの頭が、こんな、金平糖みたいになっちゃったじゃないか。ほんとうに、しょうがない、蚊帳というものは、吊ったからいいってえもんじゃない。よく、ほうぼうに気をつけて……あのね、この人は、目が不自由なんだから……おいっ、なにがおかしいんだ。笑う人がありますか」 「ほほほ……だって、旦那、今朝早く、見に行ったら、杢一っつぁんは、麻のれんと蚊帳のあいだに寝ているんですよ」 「うぷっ……おい、杢一っつぁん、おまえさんは、ゆうべ、麻のれんと蚊帳のあいだにいたんだって、もうひとつまくらなきゃ、蚊帳の中入れないよ」 「さようでございますか、どうりでひどい蚊だとおもいました。いやあ、あっははは、これはめんぼくない」  と、帰って……それからまた後日、旦那の療治にやってきて、夜おそくなった。 「杢一っつぁん、泊まっといで」 「いやあ、泊まれっと言われると、そこいらが、かゆくなってきます、旦那、よします」 「そりゃ、こないだはおまえさんが悪いんだよ。だから、手を引いて連れてってもらいなって言っただろう? そうすりゃあ、あんな目にあわずにすんだんだから、おまえさんは少し強情だから……今夜はそういうことのないように」 「いや、おいとまをします」  と言っているうちに、雷がゴロゴロはじめて、ザーッという雨……。 「ほら、帰れやあしないっ、雷が鳴り出したよ、泊まっていきなさい」 「へえ……あたくしは、この雷が大嫌いで、じゃあ旦那、やすましていただきます」 「そうしなさい、そうしなさい……ああ、支度はできてる? そうか……支度はできてるそうだ。こないだのところだ。手を引いてってもらいなさい」 「いや、もう大丈夫でございます」 「またはじまった、それがいけないんだよ、おまえさんは」 「いや、いや、大丈夫ですよ、……ええ、こんどはまちがいっこありません、ええ大丈夫、旦那、おやすみなさい。……ええーお隣がお嬢さんの部屋、こちらが厠所《はばかり》……ここが階段……ここが、ずーっと縁側で、こっちがお庭……」  女中が、離れの入口の麻のれんを、按摩さんが蚊帳とまちがえないようにと、その晩は気をきかしてはずしておいた。 「おっと、このつきあたりが離れ、さあー、これが、麻のれん、……これじゃあ蚊帳とだれだってまちがえるよ、……これが、麻のれんで、(と、まくり)、これが蚊帳だ」  こんどは、蚊帳の向こうがわに出た。 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 夏の生活詩、蚊帳《かや》と雷《かみなり》を効果的に使った短篇。杢一の頑固さ、主人、女中の思いやりの行きちがいを〈笑い〉に包み、盲人の手つき表情を見せる噺だが、最近、歪《ゆが》んだ人権意識が、盲人[#「盲人」に傍点]を扱ったということで、タブー視する傾向がある。それは思い違いもはなはだしい。落語は、盲人[#「盲人」に傍点]という存在に目をむけ、そしてこの世に生きる一個の存在として取り入れ、平等に参加させているのである。万人が娯《たの》しむ落語にである。逆にタブー視し、ふれさせまいとして、抹殺してしまうことのほうが、どれだけ盲人[#「盲人」に傍点]を差別することになるか。人間の存在を無視されることほど、人間にとって耐えがたいことはない。盲人という存在は否定することはできない、ただその扱い方に気を配る必要があるのだ。  寄席の楽屋には黒板があって、そこに「客席に目の悪いお客さまがいます」と書き入れてある。その日には「按摩の炬燵」[#「「按摩の炬燵」」はゴシック体]「心眼」「景清」「柳の馬場」「三味線栗毛」など、盲人の出る噺は絶対に高座でやらない慣例になっている。それは眼の不自由なことを忘れている盲人のために、芸人が気を配る、暖かい心遣いのためである。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   三年目  昔から、幽霊はあるとかないとか、いろいろいわれているが、幽霊とは、幽《かす》かな霊《みたま》と書く……つまり、はっきりしない、うすぼんやりしたものとでも表現しておくのが、いちばん、幽霊らしいようで……。人間の気というものは、なにかしら残る。ただうらめしいというだけでなく、あの人に会いたいとか、恋しいとかいう気が残って、これが幽霊になる。万物の霊長である人間のおもいが、残らないはずはないようで……。  相思相愛の若夫婦が、あまり仲がよすぎたせいか、おかみさんのほうが、ちょっと具合いが悪いといって床についた。亭主はもう、昼も夜も枕もとをはなれずの看病、ほうぼうの医者にもみせたが、病《やまい》は悪くなるばかりで、もう枕もあがらないという大病になった。 「おい、おまえ、加減はどうだい? 薬を持ってきたよ」 「はい、ありがとう存じます」 「おあがりよ。先生がね、飲みいいように調合したとおっしゃったから……ああ、それから、口直しも枕もとにあるからね……もう少しさすろうか?」 「いいえ、もったいない」 「なにも、もったいないなんて言うことはない。なんでも遠慮なくお言い。そんなに遠慮をすると、病気にさわるよ。それよりは、薬をどんどん飲んで、一日も早くよくなっておくれよ」 「恐れ入ります。あとでいただきます」 「あとでと言わずに、わたしの見ている前でおあがり……いいえ、いけない。わたしが見ていないと、飲んだふりをして捨ててしまうじゃあないか。薬を飲まなくては治らないよ」 「わたしは、お薬をいただいてもむだでございますから……」 「おまえそんな、自棄《やけ》なことを言っちゃいけないよ。病人が薬を飲んでむだてえことはないよ。病《やまい》は気からというんだから、気持ちをしっかり持って、岩へかじりついても治ろうという気にならなくちゃあいけない。おまえは若いんだから、その気になりさえすりゃあ……」 「そんなことをおっしゃっても、わたしは存じております」 「存じてる? なにを?」 「あなた隠していらっしゃいます」 「おまえになにを隠したんだ。どんなことでも相談をするでしょう、なにごとによらず。食べるものだって、一つきゃあないものは、二人で半分ずつ仲よく食べる。半分のものは四半分ずつ食べて、無いものは食わないが……なんでもおまえに打ち明けているじゃあないか」 「このあいだ、お医者さまがお帰りになると、あなたを屏風《びようぶ》の陰へ呼んで、なにかひそひそ話をなすっていらっしゃいました。わたしが寝たふりをして耳をすましておりますと、『この病人はもう、とても見込みがないが、ほかに医者がいるならば見せてもよろしいが、薬だけは置いて帰る』と、おっしゃいましたが、あの先生で、もう六人目、あれだけたくさんのお医者さまに見はなされるようでは、しょせん助からない命とおもいます。でございますから、一日も早くあなたのご苦労を除き、わたしも早く楽になりたいとおもっておりますが、ただ一つ気にかかって臨終できないことがございます」 「そんな、なんという、死ぬなんて縁起でもないことを言うもんじゃあないよ。まあ、おまえが聞いてしまったのなら、隠すわけにはいかないが、あれは、病人の耳になるべく入れないほうがいいと言うから、それで黙っていたんだ。しかし、あの方ばかりが医者というわけではないし、ほかにいくらでもいい名医はいるから、どんな手をつくしてでもおまえの病気をかならず治すよ……ところで、なんだ、いまおまえ、気になることを言ったねえ。臨終ができない?……なにかおもうことがあるんだろう。それを話してごらん。おまえの言うことなら、あたしはなんでも、できることならしますから、え? おまえのは、気病みというやつなんだから、それをおっしゃいよ」 「でもきまりが悪いから……」 「冗談言っちゃいけない。夫婦のなかできまりの悪いてえことはない。だれもほかに聞いているものはいないから、さあ、遠慮なく、おっしゃい」 「だめでございますよ」 「そんなことはないよ。なんでもそうお言いよ、かなえてあげるから……」 「じゃあ、ほんとうに?」 「ああ、きっとかなえてあげますよ……だから、その気がかりなことてえのを言いなさい、なんだい?」 「ほかではありませんけれども、気がかりというのは……おほほほ、あなた、お笑いになるから……」 「なにを言ってるんだ。笑ってるのはおまえのほうじゃあないか」 「それでは、おもいきって申します。わたくしがご当家へまいりまして、まだ二年|経《た》つか経たないうちに、この病気でございます」 「うん」 「わたしのようなふつつかな者でも、あなたは、ふだんからかわいがって、やさしくしてくださいます。病気になってからは、片時もはなれず、こうして看病をしていただき、もったいないとおもっております」 「うん、それがどうした?」 「で、わたしにもしものことがございましたとき、あなたもお若いことでございますから、あとへまたお嫁さんをおもらい遊ばして、その方を、わたしのようにこうして大事にしてあげるだろうとおもうと、それが気になって、どうしても死ねません」 「変なことを考えるもんだな。わたしのほうでは、いっこうおもいもよらないことだ。なにを言うかとおもったら、そんなことか? それならば、おまえ、安心なさい。そんなことはけっしてないよ。おまえにもしものことがあった場合には、あたしは後妻《のちぞえ》を持たない、生涯独身で通すから、それならよかろう」 「いいえ、いまはそんなことをおっしゃっていらっしゃいますが、それはだめでございます」 「いくらどんなことがあっても、わたしは後妻を持たないよ」 「あなたがそうおっしゃっても、ご両親やご親戚がかならずおすすめになります」 「いいじゃあないか、いくらすすめても、あたしが嫌《いや》だてえものを無理にてえわけにいかない、大丈夫だよ。おまえが死ねば、あたしは女なんてえものはもう振りむいても見ないから……」 「そんなことをおっしゃっても、半年や一年はともかく、だんだん日が経てば……それでなくとも、なかなかお一人で、ご辛抱のできない方なんですもの……」 「変なことを言っちゃあいけませんよ。じゃあ、こうしようじゃあないか。ま、そんなことはないが、万一おまえにまちがいがあったときに、両親や親戚がいろいろすすめて嫁をとれと言っても、わたしは、どうしても持たないつもりだが、断わりきれなければ、一応承知をする……」 「まあ、ご承知なさるので?」 「まあ、お聞きなさい。おまえがそれほどにあたしのことをおもってくれるんなら、いよいよ婚礼という晩に、幽霊になって出ておいで。いいえ、おそろしいことなんぞあるもんか。わたしは、おまえが出てくれればうれしいくらいなんだから……たいていの嫁なら、それを見てきっと目をまわすよ。目をまわさないまでも、翌《あく》る日は、実家へ逃げて帰る。そういうことが度重なれば、あそこの家には、先妻の幽霊が出るという噂が立って、だれも嫁のきてがなくなる。そうすれば、わたしは生涯ひとり身でいなければならなくなる。だから、もしもまちがいがあったときには、幽霊になっておまえ、出ておいで」 「それでは、わたしが幽霊になって……」 「ああ、ああ、かならず出ておいで。八つの鐘を合図に……」 「あなた、きっとですよ」  夫婦で約束をかわした。それで安心したものとみえて、おかみさんは急に容態が変わって、とうとう亡くなってしまった。  泣く泣く野辺の送りもすませ、初七日を過ぎ、三十五日、四十九日と経ち、まだ百か日も経たないうちに、若い者をいつまでも抜き身で置いてはあぶないから、いい鞘《さや》があったら納めたらよかろうと、そろそろ親戚の者が言い出したが、はじめは、わけあって、わたしは後妻《のちぞえ》はもう持たないと断わったが、そうそうは断わりきれない。そのうち、町内でも、あそこのおかみさんが死んでいい塩梅《あんばい》だ、あたしが後妻に入《はい》ってひと苦労してみたいという、内々|岡惚《おかぼ》れをしていた娘もあって、これならばという話がまとまった。  いよいよ婚礼の当日、三三九度の盃、お床盃もすんで、仲人は宵の口、早くおひらきになって、寝間へ入り、布団の上に座ったが、亭主は寝るどころではない。嫁さんのほうも、ご亭主が寝ないのに、先へ寝るわけにはいかない、もじもじしている。嫁に行った晩というぐらいで、遠慮がある。 「さ、早くおやすみなさい」 「あなた、おやすみに……」 「いや、あたしはあとでいいから、おまえさん早くおやすみ……」 「でも、あなたがおやすみなさらないでは……」 「いま、何刻《なんどき》だ?」 「ただいま四つでございます」 「四つか……九つ、八つと……まだだいぶ間《ま》があるな」 「なんでございます?」 「なに、よろしいから、わたしにかまわずおやすみなさい」 「でも、わたしだけが……」 「いいんだから……何刻だい?」 「ただいま四つ半でございます」 「四つ半? 寝ておくれ、あたしはだめなんだから……」 「なにがだめで……?」 「いや、なんでもいいから……いま何刻だ?」 「あなた、時刻《とき》ばかり聞いていらっしゃいます、ただいま九つでございます」 「九つか……そろそろおいでなさるな」 「なにがまいりますの?」 「いや、まだ来やあしないが、つまらない約束があるから……」 「えっ、なにかお約束を」 「いやべつに……こっちのことだから……いま何刻になる?」  時刻ばかり聞いている。しかし、そうそう起きていては嫁がかわいそうだとおもい、横になって枕についたが、目はぱっちりと開《あ》いている。いまか、いまかと待っているうちに、とうとう夜が明けてしまった。 「とうとう出なかったなあ。約束を忘れたわけじゃああるまいが、もっとも幽霊も十万億土から来るんだから、初日には、間にあわなかったのかもしれない」  では二日目には出るだろうと待ったが、やはり、幽霊は出ない。 「なんだい二晩もすっぽかして、ずいぶんいいかげんだなあ」  いくらなんでも三日目には出るだろうとおもっていたが、三日待っても、七日待ってもとうとう出ない。 「ばかにしている。これじゃあ、うらめしいの、取り殺すのというが、息のあるうちで、死んでみればそんなばかなことはない」  と、亭主は悟って、二度目に来た嫁もまんざらいやで一緒になったわけではないから、しだいに仲もむつまじくなって、間もなく、妊娠をして、月満ちて男の子が生まれた。  その年は過ぎ、翌年も過ぎて三年目、先妻の三回忌の法事をしようと、当日は後妻も、死の跡を承知で来たので、気兼ねすることもなく夫婦で近所へ配り物をして、子供を連れて墓詣りをすませ、昼間の疲れでぐっすり寝こんだが、真夜中に、亭主がひょいと目をさまして、 「おいおい、坊やが這《は》い出してるよ……しょうがないなあ、女も子供ができちゃあ。おやおや、子供のほうがしっかりしてるよ。もぐりこんでいって、おふくろの乳をくわえてる……またすやすやと眠って、まあ……あーあ、きょう墓詣りをして、墓の前で手を合わして拝んでいたときに、妙なことを考えたなあ、この女には聞かされないが、あれがいままで達者でいて、こんな子供ができたらどんなによろこぶことだろう。あの時分には、まだ親父も案じて、ここへ店を出したからといってものになれないで、ずいぶん苦労させた。それで早死にをさせて、よく死ぬ者貧乏というが、おもえばかわいそうなことをした」  と、どこで打ちだすか、八つの鐘が、ボォーン。  枕もとの行灯《あんどん》がぼんやり暗くなると、縁側《えんがわ》の戸を開け放して寝たとみえ、生《なま》ぐさいような風が、すーっと吹きこんでくる。障子へ髪の毛がサラサラサラサラとあたるような音がする。襟《えり》もとから水を浴びせられたように、ぞォッとして、 「おや、今夜はなんだか変だぞ」  腹ばいになって、煙管《きせる》の雁首を枕屏風のふちへかけてずっと引き寄せてみると、先妻の幽霊が、緑の黒髪をおどろ[#「おどろ」に傍点]に乱して、さもうらめしそうに、枕もとへぴたっと座って……、 「南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……きょうの法事の礼になんぞ来るにはおよばない。なんだっていま時分出てきたんだ……幽霊のもの堅いのは困るよ。早く引っこんどくれ。南無阿弥陀仏……」 「(手を七三に構えて)あなたはまあ、うらめしいお方です。わたしが死んでまだ百か日経たないうちに、こんなにうつくしい後妻をお持ちになって、赤さんまでもこしらえて、仲よくお暮らしなさるとは……それではあなたお約束がちがいます」 「おいおい、おかしな言いがかりをつけちゃあいけないよ、おまえは、生きていたころは、たいへんもののわかった女だったが、死んでしまうと、そうもものわかりが悪くなるのかねえ。なるほど、そりゃあ、おまえの言うとおり約束はしたよ。約束はしたけれども、ほどなく親戚からすすめられ、どうにも断わりきれないので、この女を後妻に持つということにしたんだ。ところが、おまえが婚礼の晩に出るてえから待っていたが、出やあしないじゃないか。十万億土という遠いところじゃ、初日は間にあわないだろう、じゃあ、二日目は出るか、三日目はと、あたしゃ、蝙蝠《こうもり》じゃあないが、昼間寝ちゃあ夜起きて待っていたんだ。それで、いく日経っても出てこないで、おまえ、それがいま時分、子供までできたあとで、いきなり出てきて、そういう恨みを言われては困るじゃあないか。気のきいた化け物は引っこむ時分だ。なにしてんだ、いくら幽霊だって、いつ後妻を持ったとか、子供ができたぐらいのことは知ってそうなもんじゃあないか」 「ええ、そりゃあ、死んでも気は残っておりますから、この世のことがわからないということではございません。どなたのお世話で後妻をもらい、いつ子供ができたぐらいは存じております」 「そんなにわかっているなら、なぜもっと早く出ない」 「それは、あなた、無理でございます」 「無理? なにが無理なんだ?」 「だって、あなた、わたしが死んだときに、ご親戚はじめみなさんで、わたしを坊主になすったでしょう?」 「そりゃあ、おまえ、葬式の習慣《ならわし》だからね。親戚じゅうの連中が、ひと剃刀《かみそり》ずつ当てて、おまえを棺に納めた」 「それだから、坊主あたまで出たら、愛想をつかされるとおもいまして、毛の伸びるまで待っておりました」 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 古来、夫婦仲がよすぎると、「短命」(別名「長命」)と相場はきまっているが、この噺は異例中の異例というべきであろう。この亭主よほどの精力の持ち主とみえ、「いつまでも抜き身で置いてはあぶないから、いい鞘があったら納めたらよかろう」などという、落語表現の名文句を生みだした。  夏の季題として、幽霊の噺を選んでみたものの、「野ざらし」[#「「野ざらし」」はゴシック体]はじめ、「へっつい幽霊」「皿屋敷」「反魂香」「質屋蔵」「不動坊」「菊江の仏壇」(別名「白ざつま」)など、どれ一つ取り上げても真夏、堂々と出没して人の肝玉《きも》を震えあがらせる幽霊は一人? としていない。みなどこか愛嬌があって遠慮がちで、少々季節はずれの感がある。この「三年目」の幽霊にしても、旧盆を過ぎて初秋の気配、その姿態もいじらしく、あわれで、しのびない。  原話は桜川慈悲成作『遊子《ゆうし》珍学問』(享和三年刊)。名人橘家円喬が得意にして、最近では、六代目三遊亭円生の持種《レパートリー》になっていた。大阪では「茶漬幽霊」として演じられる。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   唐茄子屋《とうなすや》 「おっとっと、待ちな、おい、待ちな」 「死ななければならんものでございます。どうかお見逃しなすって……」 「これさ待ちなったら、待ちな、おい、欄干から手をはなさねえか」 「どうぞ、助けるとおもっておはなしください」 「なにを言いやがるんだ、助けたり殺したり、そんな器用なことができるかい、ばかっ」 「痛いっ、痛いじゃございませんか。怪我《けが》でもしたらどうなさる」 「ばかなことを言え、怪我ぐらいですめば結構だ、死んでしまったらどうする、まあ待ちね……やっ、てめえは徳じゃねえか」 「おや、おじさんでございますか」 「なんだ、おめえか、おめえなら助けるんじゃねえんだ。身を投げねえ、まあ死んじまえ」 「助けてください」 「なにを言いやがるんだい、いま死ぬ、死ぬと言いやがったじゃねえか」 「もう三日間もなんにも食べない、きょう一日こうやってれば、じりじり死んじまいます。そのくらいならひとおもいに死んじまおうとおもったんですが、ほんとうは死にたくないので助けてください」 「袖につかまるんじゃねえ、目がさめたか」 「へえ、面目次第もございません」 「なんだ、だらしがねえ……親類じゅう寄ってたかって意見したときなんと言った。たいそうな啖呵《たんか》を切って出て行ったな。米のめしとお天道様はついてまわりますと言った。どうだ、ついてまわったか?」 「へえ、お天道様はついてまわりますが、米のめしははなれました」 「あたりめえだ。おめえみたいな怠け者にだれが米のめしがつくもんか、男のくせに、だらしのねえやつだ……親のありがたいのがわかったか。うん? 貴様のようなきいたふうなやつはない。親父のすねをかじってる時分には、生意気なことも言ってられるが、親の手をはなれてしまえば、だれもかまやあしない。果ては身でも投げて死ぬようなことになる。あきれかえったやつだ、後悔したか」 「へえ」 「そうか、じゃ助けてはやろう、助けてはやるが、しかし徳、いまおれがここを通らなけりゃあ、貴様はこの橋から飛びこんで死んじまったんだ」 「へえ」 「そうすりゃあ貴様は土左衛門と名前が変わるんだ、それをおれが助けてやる代わりにゃあ石町《こくちよう》の山崎屋の若旦那じゃあ置かねえよ、いいか」 「へえ」 「してみれば、いままでのような意気地なしじゃ世間は渡れねえ、いいか。世の中の人というものはな、金のあるうちはちやほやするが、金がなくなればそっぽをむく、それが人情だ、だが、人のすることはどうでもかまわねえ、これからはほんとうに死んだ気になって、了見を入れかえるならば、世話もしてやるが、それができるか」 「へえ、おじさんのおっしゃることなら、どんなことでもいたします、へえ、どうか、助けてください、お願いします」 「よし、まあまあいい、おれといっしょに来ねえ」 「婆さん、いま帰った」 「おや、お爺さん、お帰りかい。たいへんおそかったじゃないかい、どっかへまわってたのかい?」 「うん、吾妻橋のところまでくると、拾いものをしちゃったんだ」 「おや、なにを拾ったんだい?」 「人間一匹拾っちまった」 「おや、だれが落っことしたんだろう?」 「だれも落っことすもんか。どうしようもねえ人間を拾っちまったんだ」 「人間を……おやまあ、女か男かえ」 「まあ見たところは男だが、了見は女の腐ったような野郎で、役に立つやつじゃねえよ」 「せっかく助けてやったのに、そんな悪く言うもんじゃないよ」 「悪く言ったっていいんだよ、おめえの知ってるやつだよ……おい、こっちへ入《へえ》れ。おばさんにあいさつしろい」 「おばさん、どうも、ごぶさたをいたしまして……」 「おやまあ、徳じゃあないか。どうしたんだね。おまえは? おまえ、おとっつぁんがああいう堅い人で、おまえを勘当したというが、それっきり姿を見せず、あたしも陰でどれほど心配していたか……あきれましたね」 「なにを言ってやがんでえ、婆さん、おめえはいまごろあきれてんのか。よけいなことを言うなよ。おめえは、それがいけねえんだ。さあ、まあ、いいや、話は明日にして、徳は、腹がへってるんだ。三日も食わずに歩いてたんだから、早くめしを食わしてやんな」 「あいよ。なにもおかずがないんだが、鰻《うなぎ》でもとってやろうか」 「なにをばかなこと言ってるんだ。こんなやつに、鰻なんぞ食わせることがあるもんか。こいつぁな、吾妻橋から身を投げて、鰻に食われようとしたやつなんだ。土左衛門が鰻を食うか。沢庵《たくあん》のしっぽでも切ってやれ。腹のへったときにまずいものなし、てんだ。さあさあ、早く向こうへ行ってめしを食え」 「へえ、ありがとうございます」 「おめえ、お鉢をあてがってなあ、お給仕なんぞするこたあねえ。うっちゃっておけ、うっちゃっておけ」 「……どうもごちそうさまでした」 「食ったのか……いやあ、いくら腹がへっているたあ言いながら、よく食やがったな。……この野郎なんだい、いままで死ぬの、生きるのと情けねえこと言いやがって、ははあ、腹の皮が突っぱりゃア、安心して、こんどは目の皮がたるんで、こっくり、こっくり居眠りをしやがって……よしよし、眠かったら、早く二階へ上がって寝ろ、布団のあるところはわかるだろう」 「へえ」 「あしたの朝早えんだ、いいか?」 「じゃあ、おやすみなさいまし」 「……おい、お婆さんちょっと来な、おまえは子供に甘くていけない。あいつをここで嬌《た》め直さなきゃあ、人間を直すときゃあねえんだから、余計な、いたわったりなんかすると、かえって当人のためにならねえから、おれのすることァけっして口出しをしちゃあならねえ、いいか」 「あいよ」  翌朝になると、おじさんは早起きして、どこかへ出かけて行き、若いものに、天秤《てんびん》に唐茄子《とうなす》を籠いっぱい担がせて帰ってきた。 「お婆さん、いま、帰った」 「お帰りかい」 「暑いな、片陰《かたかげ》のうちとおもったんだが、汗びっしょりになっちゃった。お婆さん、冷《つめ》てえ水をくれないか、体をふくんだから、どうした、徳は起きてるのか」 「まあくたびれたとみえてよく寝てますよ」 「なんだ、よく寝てるって、よろこんでるやつがあるか、赤ん坊じゃあねえんだ。今日からは働かせるんだ。もう起こさなくちゃいけねえ……おい、徳や、徳、起きろゥ、起きるんだ。早く起きてこいッ」 「へっ、ただいま……へ、お早うございます」 「なに言ってんだ。ちっとも早くなんぞあるもんか。おれはもう買い出しから帰《けえ》ってきてるじゃねえか。他人《ひと》のうちへ厄介になって、起こされなきゃあ起きねえようなこっちゃしょうがねえ。なにをまごまごしてるんだ。早く顔を洗っちまえ。なにをぐずぐずしてるんだ。そんなところで顔を洗うんじゃねえよ。手桶をもったら井戸端へ行くんだ。面《つら》を洗ったら手桶へ新しい水を一杯汲みこんでもってくるんだ。居候《いそうろう》になれないやつはしょうがないよ、おれなんか自慢じゃねえが、若《わけ》えうちに居候しても、あしたからはほかへ移って行くと言ったら、もう少しうちにいてくれと頼まれたもんでえ、そのくらい気を利かさなきゃあ居候はだめだ。なにをくるくるまわってるんだ」 「あのう、おばさん、楊子《ようじ》がございませんが……」 「楊子? どうするんだ?」 「いえ、楊子で歯をみがくんで……」 「この野郎まだ寝ぼけてやがる。ばか野郎、そこに笊《ざる》が吊《つ》るしてある。そのなかに塩が入《へえ》ってるから、そいつをひとつまみつまんで、指へつけてぐいぐいとやりゃあ、それでいいんだ」 「へえ、うちの小僧がよくそういうことをしていました」 「なにを言やあがる。小僧でなくったってそれで十分だ。『親の臑《すね》かじる息子の歯の白さ』という川柳がある。まったくだ。てめえは土左衛門だ。吾妻橋の上から飛びこんで、もういったん死んじまったんじゃあねえか」 「へえ、わかりました。わかりました」 「……ああ、顔を洗ったか。おい、婆さん、めしを食わしてやんな、それから支度してくんな。あのう、婆さん、なにか着るものを出してやんな。え?印半纏《しるしばんてん》? ああ、なんでもいいや。それからな、股引があったな。どんなんだってかまやぁしねえや」 「あの、膝《ひざ》が抜けてますよ」 「そのほうが風通しがよくっていいや。あとは足袋《たび》だが、古いやつがあるかい?」 「ありますよ、白足袋と紺足袋と片っぽずつ……」 「まあいいや、色どりがよくって、そいつを出しといてやんな。それから、紐《ひも》のついた財布があったな、あれを出して……それから草鞋《わらじ》と、おれが大山詣りに行ったときの笠があったな。浅いのと深いのと。そうだなあ、浅《あせ》えほうがいいだろう。……それだ、それだ。うん、青っ葉を二、三枚入れといてやんなよ。炎天歩いて、暑さにやられるといけねえからな。あ、それから、弁当を詰めて、おかずなんざぁ入れなくてもいい。弁当が腐るといけねえから、なかへ梅干を入れりゃあいい……さあ、徳や、めしはすんだか?」 「いただきました」 「じゃこっちへ来な、いいか、そのぞろぞろした着物は脱いで、その印半纏を着るんだ。そんな帯はとってしまえ、猫のしゃくひろ[#「しゃくひろ」に傍点]みてえじゃねえか、おれの算盤《そろばん》玉の三尺があるだろう、それを締めるんだ。なんだ、気取って尻のほうへ締めてやがら。それからその財布は、紐を首に掛けて、そこに出ている草鞋を履け」 「へえ、どこかへ旅に行くんで?」 「旅をするんじゃあねえ、今日から商《あきな》いをするんだ。おめえに売らせようとおもって、いま唐茄子を仕入れておいたんだ」 「えっ、唐茄子を?」 「そうだ、あれを担いで売って歩くんだ」 「えっ、あの荷を担いで……おじさん、それはよしてください、勘弁してくださいよ。……どうせ売るんなら、もっと気のきいたものを売らしてくださいな。外聞が悪いじゃありませんか、いい若いものが……」 「じゃあ、いやだってえのかッ、いやならよせ。おれが頼んでやってもらうんじゃねえ、よせ、そのかわり、いま着たものを脱いで、もとの着物を着て、とっとと出ていけッ、吾妻橋からでもどっからでも飛びこんじまえッ」 「おじさん、やります、やりますから、勘弁してください」 「この野郎、まだ目がさめねえのか。唐茄子売るのは外聞が悪《わり》いたあ、なんてえことをぬかしゃがるんだ。肩へ天秤あてて、汗水たらして売り歩くのが、どこが外聞が悪《わり》いんだ。りっぱな商人《あきんど》じゃあねえか。ばかッ、貴様こそ、昨夜《ゆうべ》吾妻橋から身を投げようとしたんじゃあねえか。そのほうがよっぽど外聞が悪《わり》いや。てめえは死んだ気になって、なんでもすると言ったじゃあねえか。てめえに唐茄子売らして、なにもおれが、いくらもうけをしようとか、楽をしようてえんじゃねえや。おめえのために売らしてやるんだ、いいかい。おめえがその姿で、唐茄子を売って歩くてめえの姿が世間の人の目にとまって、どっかからか、きっとおめえの親父の耳に入る。そうすりゃあ、あ、徳も、そんな了見になったのかと、我《が》の折れたところを抱きこんで、詫びをいれてやろうてえもんだ。ひとの心も知りゃあがらねえで……なにも永代《えいたい》唐茄子屋をするんじゃあねえや。よしんばまた、するにしても、おらあ、おめえの親父みてえなわからねえこたあ言わねえ。遊ぶのもいい……てめえで稼いで、てめえで遣《つか》え。てめえのように、親の銭を盗み出して遣おうなんて、そんなしみったれた了見だから親父に文句言われるんだ。自分の腕からもみ出して、おじさん、今日はこれだけ稼ぎました、遊んでまいります、と言やぁ、りっぱに遊びに出してやる、どうもこれじゃあ金が足りませんから、おじさん、今日は足してくださいまし、いいとも。たまには、一人で遊びに行くのもさびしいから、おじさんつき合ってくれませんか、ううん、いいとも、ひと晩やふた晩なら、おれァまたつき合ってやる」 「おじさんはほんとうに苦労していらっしゃいますから、そういうわかったことを言ってくださいますから、ありがたいとおもうんですが、うちの親父は、ただ頑固一点ばりで、遊びだの、遣えということは、これっぽっちも言いません」 「あたりめえだよ、親が伜《せがれ》にそんなことを言うやつがあるか」 「いいえ、ほめるわけじゃありませんが、花魁《おいらん》がよく言うんです。『こんなに遊んで若旦那、お宅の首尾は悪くァないの』って言いますから、『また、しくじったら、本所の達磨《だるま》横町のおじさんに詫びをしてもらえばいい、おじさんは親戚じゅうで、若いうちにずいぶん道楽もした人だけあって、粋なおじさんだ』って、そう言いましたら、『そういう人にあたしいっぺん会いたいわ』と言うんですよ。『じゃあこんどいっしょにおじさんも連れてこよう』って、それっきりになっているんですが……今晩いっしょに行ってくれますか?」 「ばか野郎っ、てめえと今晩、女郎買いに行ってみろ、こんどはおれのほうが、うちの婆さんに追い出されちまわ。ひとが、ちょいと白い歯をみせりゃあ、すぐにそれだ。それは稼いだあとの話だよ」 「おやおや」 「なにがおやおやだ……唐茄子を売るんだ、唐茄子を……早く支度をしろ。いいか、担いでみろ、土間へ下りて。で、売るのは表通りはいけねえ、裏通りを売って歩くんだ。いくらでもいいからみんな売って来い、おめえだって商人《あきんど》の伜だ。元はわかってるだろう、いくらかでも上見て売れよ。いくらか残ってもさ、元は上がったとおもったらタダでもいいから置いてこい。それから弁当は、茶店に入って食えば、いくらかでも茶代を置かなくちゃあならねえ。だからな、商いをした家の台所かなんかで、水でも湯でももらって、そこで使うんだぞ……さあ、肩を天秤にあてて、荷を担いでみな、荷を……」 「へえ……」 「へえじゃあねえ、担ぐんだよ」 「まだ、担いだことがございません」 「担いだことがねえったって、生きてるんじゃあねえか。意気地のねえやつだな……天秤は、肩で担ぐんじゃあねえ。腰で担ぐんだ。……あれっ、腰へ天秤をあててやがる。天秤を腰にあててどうなるものか。不器用な男だなあ。どきな、どきな、おれがやって見せてやる。こうやって天秤を肩に担いだら、こうやって腰を切るんだ。腰を切って、ううん……笑ってやがらあ、おれだって、年をとってらあ、そう短兵急に行くか、見な、じわりじわり上がるんだ。どうだ……うしろだけ上がったろう?」 「うしろは、おばさんが持ちあげてるんで……」 「ばばあ、余計なことをするな。うーん、よせ、しかたがねえ、二つ三つ下ろせ。ああ、年はとりたくねえな、二、三年前までは、こんなものはなんでもなかったが、どうもいけねえ。……うん、もうそのくらいでいいだろう。さ、担いでみろ。うめえ、うめえ。そうだ、そうだ。横っぷりをするとひと足も歩けないよ、天秤がしなうようにいったら、その調子で歩けるもんさ。そのまんま……すぐに、婆さん、手桶をどかしてやんな、どぶ板を踏むと向こうがぽォーんと上がるよ、よけて歩けよ。……あ、ちょっと、おかみさん、その張物板をこっちへどかしてやってくれ、ぶっ倒すといけねえから、おいおい、納豆屋さん、いま、入《へえ》ってきちゃいけねえ、いま、野郎が出ていくから。……大丈夫かい、怪我《けが》するなよ。ほらほら、もう少し右へ寄れ、右へ……あーあ、どうもあぶなっかしいなあ、しっかり売ってこいよ」 「へいっ」  若旦那、身から出た銹《さび》とはいえ、箸《はし》より重いものを持ったことのない人、重い荷を我慢して担ぎ出したが、路地の出口のところで看板に頭をぶっつけ、笠があみだ[#「あみだ」に傍点]になってしまったが、これを自分で直すこともできない。そのまんまの格好で、ひょろひょろひょろひょろ……本所の達磨横町を出て、吾妻橋を渡って、浅草の広小路へ来た時分には、もうま昼の、カンカン照り、汗はだらだら出る、肩は腫《は》れあがり、暑さは暑し、目はぐらぐらくらんでくる……そのうちにつるッと、足がすべった、腰が浮いてるから、とっとっとっとっ、のめってくる、往来へ唐茄子をほうり出して、どたりっと倒れこんだ。 「うー、痛てっ。……人殺しッ」 「おやっ、たいへんだ、人殺し?」 「へえ……」 「おっ、どうかしたのか、どうした?」 「人殺しッ……あれでございます」 「あれ? あれは唐茄子じゃあないか……ああ、荷をおっ放《ぽ》り出しちまったなあ。おめえ、新米だな。うーん、こりゃあ、おまえさんにゃあ、ちょいと無理だ。え? はじめてかい? そうだろうなあ。かわいそうに、いいところの息子だな……それにちげえねえ。道楽かなんかして、こらしめ[#「こらしめ」に傍点]のために、こんなものを売らされてるんだろう。しかたがねえ。若《わけ》えうちはありがちのことだ。あーあ、肩ァこんなに腫れあがっちゃって、よしよし、じゃあ、荷が軽くなるように、おれが買ってやる、いくらだい?」 「へえ、ありがとうございます。どうか、タダでよろしゅうございますから、みんな持ってってください」 「冗談言っちゃあいけねえ。タダってわけにはいかねえや。じゃあ、唐茄子の値段なんて、まあ、こんなもんだろう。これでいいかい、銭は? 遠慮せずにいいなよ。足りなきゃあ出すから……おあしはここへ置くよ。じゃ三つもらうよ」 「へえ、ありがとうございます」 「おれはこの町内で顔が広いんだ。いまね、ここへ知ってるやつが通ったら、売りつけてやるから、待ってろよ……おい、金ちゃん」 「なんだい?」 「ちょいと頼みてえことがあるんだ」 「なんだい、頼みてえなあ?」 「唐茄子買っとくれよ」 「おめえ、八百屋はじめたのか?」 「おれじゃねえんだよ、この若《わけ》えのがよ。はじめて唐茄子売るんだとよ。道楽のせいってやつさ。若え時分にゃあ、よくあるやつだ。お互いにばかをしたおぼえがあるじゃねえか。銭はいくらでもいいんだ。荷が軽くなるように。……そうか、二つ買ってくれる? そいつぁ、ありがてえ。じゃあ、銭をここへ置いてってくれ……お竹さん、唐茄子買っとくれよ、なに? きのう買ったっていいじゃないか。おめえんとこは子供が大勢いるんだ。唐茄子の安倍川にして食わしてやんな、子供がよろこぶからさ。いくらでもいいからどっさり持って行ってやっとくれよ。銭の足《た》らねえところはおれがあとで足してやるからさ。そうかい、五つも? ありがとうよ……すまねえ、すまねえ……おう、半ちゃん」 「おッ?」 「ちょっと、唐茄子一つ買ってやってくれ」 「おら、唐茄子|嫌《きれ》えだよ」 「おっそろしくはっきり断わりゃがったな、嫌えだろうけれども買ってってやってくんねえか、この若い人が気の毒なんだ」 「やだよ、ばかにするない。いい若《わけ》えもんが、日中《ひなか》、唐茄子なんぞ持って歩けやしねえや」 「そんなこと言わないで、せっかく頼んでいるんじゃあねえか、おれがよ。義理にでも一つぐれえ買っていけよ」 「おりゃ、唐茄子に義理なんぞねえや……おらあ、唐茄子|大嫌《でえきれ》えなんだから……」 「ふーん、嫌えか?」 「ああ、嫌えだ」 「この野郎、よくてめえ、そんなことが言えたもんだなあ、三年前、おれのところの二階に居候したことを忘れたか?」 「おいおい、なにも三年前のことを……」 「言ったっていいじゃあねえか……うちのかかあが唐茄子を煮たときに『半さん、どう? ご宗旨ちがいだけども、食べる?』って言ったら、てめえ、二階から駆け降りてきて、『うめえ、うめえッ』って、安倍川を三十八切れくらったろ、よだれたらして……」 「いいよ、わかった、わかった。買うよ、買うよ」 「こん畜生っ、とっとと買ってけッ」 「ふん、まぬけな唐茄子屋じゃあねえか。てめえが、こんなところにぶっ倒れているから、三年前の居候のときのことまで言われちまったじゃあねえか。ほらっ、銭はやるよ。唐茄子はいらねえや」 「おうおう、なんでえ。この人はな、銭がほしくってやってんじゃねえんだぞ。荷が軽くなるように、一つでも買ってやってくれってんだ。銭だけ置くやつがあるか。持ってけッ」 「持ってくよ、持ってきゃいいんだろう」 「あれっ、この野郎、いざ持ってくとなったら、大きいのを選《よ》ってやがらあ……おまけに三つも抱えやがって、この泥棒は……ざまあみやがれっ……さ、銭はこれだけ集まった。大丈夫かい? 財布に入れてな、盗られなさんなよ、いいかい、もう二つ残ってるが……」 「へえ、二つぐらい担げます」 「あたりまえだ。このくれえならもういいだろう。よくわけを話して、もう、家へ帰《けえ》んな」 「へ、ありがとうございます。おかげで助かりました。へえ、どちらのお方さまでございましょう、お名前をどうぞうかがいとうございます」 「冗談じゃあねえやな。唐茄子を買ったぐらいで、なにも名前を名乗るほどのこたあねえやな。おらあ、この町内のもんだ。こっちへ来たときにゃあ、また買ってやるからな」 「へえ、ありがとうございます。これをご縁に、あしたのいま時分も、ここに倒れてます」 「そう毎日倒れちゃあいけねえや……気をつけて行きなよ」 「へえ、ありがとうございます……ああ、渡る世間に鬼はないてえことをいうが、いい気っぷだなあ、あの人は……ほんとうの江戸っ子だあ、お友だちと喧嘩《けんか》してまで売ってくださった。ありがてえなあ。もう二っつしきゃあ残ってない。残して帰るより、二つくらい自分で売りたいな、みんな売って帰りゃあ、おじさんもよろこんでくれるだろう……でも、黙って歩いていたんじゃあ、売れやしねえや。なんとか言わなくっちゃあいけねえんだ……唐茄子……唐茄子……売り声てえものは、むずかしいな」 「(売り声)ところてんやァ……てんや……」 「うまいもんだ。『ところてんやァ、てんやァ』ってやがる。ああいう声を出さなきゃ売れねえんだな。慣れだねえ……唐茄……唐茄子や……あ、や[#「や」に傍点]をつけるといいんだなあ。唐茄子や唐茄子……唐茄子や唐茄子……うん、これならいいや……唐茄子や唐茄子……なんだい、子供が大勢ついてきやがった、なにがおもしろいんだい。見世物じゃあねえんだから、あっちへおいで。……唐茄子や唐茄子……唐茄子やッ」 「うわッ、びっくりした。おい、よせやい、いきなり大きな声出しゃあがって……」 「どうもすみません……すぐに人が来るなあ。どうも人がぎょろぎょろ見てしょうがないから、どこかあまり人の通らないところへ行って稽古しよう。……エエ、唐茄子や唐茄子……はあ、さびしいとおもったら田んぼへ出ちゃった、ここは吉原田んぼだ。は、はあ、向こうに見えるのは、吉原だなあ。『菜の花や、むこうに廓《ちよう》の屋根が見え』花魁《おいらん》はさぞ案じているだろうなあ。あれっきり行かねえんだから。ことしの正月まで、あの二階の部屋で、芸者、幇間に取り巻かれて、『あら、若旦那、よくってよ』なんか言われたのが、こんな身装《なり》をして唐茄子売りになっちゃった。『玉の輿《こし》、乗りそこのうてもくよくよするな、まさか味噌こしゃさげさせぬ』って都々逸を唄ったが……味噌こしじゃねえ、こんな大きな籠を担いじゃって……碁石の足袋を履いちゃって、情けねえ姿になっちゃったな。忘れもしない正月の、三日の日だったな、ちらちら粉雪が降り出した日だ。帰ろうとおもうと花魁が出てきて、『若旦那、七草まで流して行くと言ったじゃないの』『急に帰りたくなったから帰るんだよ』『お正月から縁起でもない、ふた言目には帰る、帰る、と言って、そんなにいやなら帰りゃがれ』『帰らなくってよ』ぷうい、と飛び出すと、隣の部屋の花山《かざん》という女だ、粋な女だった。年増《としま》だったけど『あら、若旦那、いいかげんにしておくれよ、また痴話喧嘩かい、隣には独りものがいるんだよ、あたしが仲人《ちゆうにん》になるから、仲直りをしとくれよ』『おめえが仲人になるんなら仲直りしようか』『じゃあ、うちへ来ておくんな』自分の部屋へ連れてきゃがって、『なにか取ろうじゃないか』『寄せ鍋?』『あら、寒いからうれしいわね』『若旦那、シラタキが舌の先で結べたわよ』チュウチュウチュウなんて、鼠《ねずみ》泣きをしやがった。『一杯、飲みなよ』あんまりお酒の飲めない女だったな、猪口《ちよこ》に二、三杯飲むと、真っ赤になって、『あら若旦那、あたし酔ったわ』『おれも酔ったよ、三味線持ってこいよ』『ああら、なにか聴かしてくれるの、うれしいわね、なにを聴かしてくれるの』『小簾《こす》の戸《と》を唄《や》ろうか』『あら上方唄、まあいいこと、ぜひ聴かしてくださいまし』三味線に合わせて※[#歌記号、unicode303d]浮草や……と唄い出して、※[#歌記号、unicode303d]癪《しやく》にうれしき男の力、じっと手に手を、なんにも言わず、二人して吊《つ》る蚊帳の紐《ひも》……までくると、花魁がおれの顔を、孔《あな》のあくほどじいッと見ていたが、くわえていた黒もじ[#「黒もじ」に傍点]をばりっと奥歯でかみつぶして『若旦那、ほんとうに粋ねえ、わちきは命も要《い》りませんわ』……えへっ、花魁がおれの頬っぺたに食いつきゃがった……えへん、エェー、唐茄子や唐茄子……」  それから誓願寺店《せいがんじだな》までくると、路地の奥から、身装《なり》は粗末だが、三十二、三の品のいいおかみさんが、子供をおぶって、一所懸命手まねきをしている。そのあとをついて、裏へ行くと、 「あのう、お唐茄子を一ついただきたいのですが……」 「もう二つしきゃあございませんで、どうぞこれも……」 「いいえ、お鳥目《ちようもく》(銭)が、これだけしかございませんので、一つでよろしゅうございます」 「いいえ、よろしゅうございます。一つはおまけしておきますから……」 「それでは、まことに恐れ入ります」 「いいえ、かまやあしません。そのかわり、すみませんが、弁当を食《つか》いたいのですが、ちょっと、お白湯《さゆ》でも結構ですから一杯いただきたいので……」 「はあ、なんにもございませんが、お茶もなまぬるいのですが、よろしかったら、じゃあこっちへ来て……」 「腰をかけさせていただきます」 「さあどうぞ。こちらへ……」  おかみさんは、奥から薬|土瓶《どびん》のようなものへお茶を入れて持ってきてくれた。 「へえ、ありがとう存じます」  弁当箱の蓋《ふた》をあけ、箸をとって食べようとすると、二枚折りの屏風の陰から、がさがさと這《は》い出してきた、年ごろは四、五歳の男の子が、若旦那の食べている弁当を指をくわえてじーっと見ている。 「これっ、なんです、そんなことをして……あっちへ行ってらっしゃい」 「おっかさん、おまんま、おまんま……」 「なんだね、この子は……いま、唐茄子を煮てあげますよ」 「唐茄子なんかいやだい、おまんまが食べたい」 「そんなことを言うもんじゃあありません……あのう、あなた、すみませんが、その土瓶を持って、お隣へ行って食《つか》ってくださいまし」 「ええ、ご新造さん、この坊やがおいた[#「おいた」に傍点]でもなすったんで、お仕置きなすってるんですか? いくらなんでも、おいたぐらいで、そんなことをなさらないで、食べるものだけは、おあげなすったほうがよろしいんじゃあございませんか?」 「いいえ、お恥ずかしい話でございますが、亭主《やど》が永《なが》の浪人で、暮らし向きに困りますので、ひと月ばかり前、知り合いへ金の工面に行くと、出てまいりましたが、それぎり帰りませんで、もう売るものも売りつくしてしまい、子供二人抱えて、すすぎ、洗濯をしておりましたが、体を悪くしまして、その内職もできませんので、お恥ずかしい話ですが、三日ばかりは、食事もろくにさしておりませんので、こんな意地のきたないことを申しまして……」 「へえーそりゃどうもお気の毒でございますな。お腹のへったのはつらいもので、わたしも腹がへって身を投げようと……いえ、なに……こんな弁当でよかったら、どうぞ坊やに差しあげますから、どうぞあげてくださいまし」 「それをいただいてはすみません」 「あたくしは、まだお腹もすきませんので、そんなことはかまいませんから、さあ、坊っちゃん、これをおあがんなさい」  弁当を出すと、子供は、もう夢中で、弁当にむしゃぶりつく……。 「これっ、行儀の悪い……まことに面目次第もございません」 「とんでもないことで……これは、唐茄子を売った、きょうの売り溜《だ》めでございますが、これだけしかありませんが、これでなにか坊っちゃんに買って差しあげて……あたしの心ばかりですから……」 「いえまあ、そんなものをいただきましては……これは、お返し申します」 「いいえ、どうぞ取っておいてください……へえ、ごめんください」  辞退するのを、無理に押しつけると、若旦那は空《から》っ籠《かご》を担いで、路地から飛び出して行く……。 「もし、八百屋さーん」  後からおかみさんが、前掛けに財布を包んで追っかけて、路地から出ようとすると、出会い頭に、この長屋の家主が、 「どうしたってんだよ、やあ、おかみさん、どこへ行くんだ?」 「あの、ただいま、ちょっと……」 「なんだい。どこへ行くんだか知らねえが、きのうも言ったとおりね、家賃をこう溜《た》められちゃあ、置いとくわけにいかねえから、きょう限り、家を空けてくれなくちゃあ困るよ。それとも家賃をおさめるか?……あっ、なんだい、そりゃあ、おまえ、その前掛けに包んだものは? 財布じゃあないか……」 「いいえ、これはいま八百屋さんが置いていきましたもので、これから返しに……」 「ばかなこと言いなさんな、いいじゃあねえか、なにも置いていったものなら、もらっておくがいい。そんな了見だから貧乏すんだ。まあ、とにかく店賃の内金に、その財布をこっちへよこしな」 「あれっ、これはお返しするもので、これだけは……」 「返《けえ》すぐれえなら、あたしがもらっておく、こっちへ出せ」  手をかけて無理やり、前掛けごとびりびりッと破いて持って行ってしまった。おぶっている背中の子供が、火のつくように、ぎゃっと泣き出し、おかみさんは、ただもう、うろうろするばかり、どうすることもできない。 「おじさん、ただいま」 「おお帰ってきたか、ごくろう、ごくろう。お婆さん、徳が帰ってきたよ。見なよ、あれでも感心なものだ。はじめて天秤を肩にあてるのだから、三、四町も行ったら、担げねえといって帰ってくるだろうとおもったら、それでも、一所懸命というものはおそろしいものだ。みんな売ったとみえて、空籠《からかご》を担いで帰ってきた。あはははは、よくやった、よくやった。暑かったろう? うん、広小路のところで倒れちまったら……うん、そうか、まあまあ、よしよし……うん、渡る世間に鬼はねえとはよく言ったもんだ。どうだ、風呂へ行くか? なに? 腹がへった? そうか、婆さんや、腹がへったというから、鰺《あじ》があったろう? 二匹ある? 大きいほうを焼いてやれ、小《ちい》せえほうは、おれが食うから……じゃあ、おまんま食いな。とにかく、先へ売り溜めを見せな、もうかるもうからねえはどうでもいい、売ればいいんだ、いくら……出しな、なにをしてんだ」 「は、売り溜めは……ないんです」 「なにっ?」 「まるっきりないんです」 「なんだい、まるっきりねえ?……婆さん、鰺は焼かなくてもいい、おろしな、おろしな。なに? 片っ側《かわ》焼いた? 片っ側《かわ》焼いたら、焼いちまいなよ……どうしたんだ、おれはなあ、てめえの親父たァわけがちがう、ごまかそうたってごまかされやしねえ。商いをして銭がねえてえわけはねえ、どうしたんだ?」 「誓願寺店で、弁当を食《つか》おうとしますと、四つ五つの男の子が、三日前からおまんまを食べていないというので、あまりかわいそうなので、弁当を食わしてやり、家が困っているらしいので、売り溜めも、みんなあげてしまいました」 「徳、そりゃあほんとうだろうな?」 「嘘じゃあありません」 「そうか……じゃあ、おれといっしょに行け、これから、そこへ行ってたしかめるから……」 「腹がへって……ちょっとご飯を……」 「なに、めしなんどあとでいいんだ。腹がへったもなにもねえ。さあ、早く、来いっ」  言いだしたらきかないおじさんで、これから、提灯《ちようちん》をつけてやってくる。 「どこだ?」 「へえ、たしかにこの裏なんですけど、灯《あか》りが消えているので、隣で聞いてみますから……あの、こんばんは」 「はい……」 「お隣は戸がしまってるようですが、どちらかへお出かけでございますか」 「はい、どなた?」 「へえ、あたしは、昼間来た八百屋なんですが」 「そりゃあいいところへ来てくれた。おまえさんのために、この長屋はひっくり返るような騒ぎなんだよ」 「それはまた、どういうことで……」 「ああ、吉兵衛さん、吉兵衛さん、ちょいと来ておくれ、いいあんばいに昼間の八百屋さんが来たから、おまえさん話しておくれ」 「え、おまえさんかい、そうかい、じつはいいことをしてくれたけれどもね、おめえさんの財布を、おかみさんが返そうというので路地口まで出るってえと、因業《いんごう》家主が現われやがって、溜まった店賃の代わりとその財布をふんだくられてしまってね。面目ねえというので、おまえさん、赤ん坊をおぶったまま、おかみさんが梁《はり》へ首をくくって死のうとしたんだ。そのまあ首をくくった下で、男の子がおまんまを欲しいから、おっかさんそこからおりてくれと泣いてるんだよ、びっくりして長屋の者が飛びこんで縄を切って、すぐ医者へ子供二人を連れて運びこんだところだ。おまえさんがどこの人だかわからねえので、いま捜そうと相談していたんだ。よく来てくれたよ」 「はい、こんばんは、ええ、わたしは、この男のおじでございまして……いえ、なにもこれに唐茄子なんぞ売らせなくてもいいんですが、道楽がすぎたもんですから、こらしめ[#「こらしめ」に傍点]のためにな……しかし、なあ、その家主さんもあまりひどい……家主の家はどこですか?」 「表へ出ると三軒目で荒格子のはまった家だから……」  話を半分聞くと若旦那、若いだけにカッとして、顔色を変えて駆け出していく。家主はいま、お膳を出して、沢庵にお茶漬で夕飯を食おうとして、やかんの湯をついで、箸と茶碗を持ったところ……いきなり格子がガラッと開《あ》くと、若旦那が草鞋《わらじ》のまんまで上がってきた。 「なんだ、なんだ? てめえは……ひとの家へ土足のままでずかずか上がってきやあがって……」 「かまうもんか」 「なんだとッ、やいっ、いったい、てめえはなにものだ?」 「や、や、八百屋だっ」 「八百屋がどうした?」 「こん畜生めっ、落ち着いてやがる……やいっ、太《ふて》え家主だ。おれがあのおかみさんにやった売り溜めを、てめえが取りあげてしまったじゃねえか。そのためにな、おかみさんは、面目ねえってんで……首を、首をく……」  そばにあるやかんを取って、家主の頭めがけてたたきつけた。やかんとやかんと鉢合わせしたから大変で……。 「この野郎っ……」  長屋じゅうのものがこれを見ていて、 「おいおい、見たかい、見たか?」 「ああー、いい心持ちだなあ。ふだんからあの家主はしゃくにさわってたんだ。相手が家主だからしょうがねえから我慢していたんだが、若いだけにどうも、威勢がいいや。やかんでもって、やかんをぽかッときたんで、えへッ、おりゃ、溜飲がさがったぜ」 「さあ、こういうときだ、だれか家主の頭をなぐってやれ」 「うん、おれも三つ四つぽかぽかとなぐってやりてえが、店賃が五つ溜まってるから……」 「よせやい……おうおう、ちょいと見ろよ。裏口から源六のやつが入《へえ》ってきて、家主の頭のこぶに薬かなんかぬってやがる。いやな野郎だね、あんな畜生っ、おべっか[#「おべっか」に傍点]野郎め、店賃の借りをふみ倒すつもりだな、ああいうやつたあ、生涯《しようげえ》つきあわねえや」 「へへ、どうも、みなさん……」 「なに言ってやんでえ。てめえ、いやにおべっか[#「おべっか」に傍点]しやがって、家主の頭へ薬なんぞぬってやるんだ」 「ふふふ、ありゃあ薬じゃあないよ。いまいましい家主だから、傷口へ七色唐辛子をぶっかけてやったんだ」 「そりゃあ、いいことをした」  そのうちに、役人が来て取り調べ、家主は不届きというのでお叱りをうけ、若旦那は、人を助けたというので、ときの奉行からごほうびをいただき、めでたく勘当が許された……。 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 夏の主任《とり》は大真打噺の人情噺である。導入部の吾妻橋の身投げは、同じ人情噺「文七元結」と展開を同じくしている。唐茄子を担ぎ出した若旦那が地べたへ叩《たた》きつけられ、思わず、「……人殺しっ!」と喘《あえ》ぐひと言に、灼熱の炎天下の情景が閃光のように焼きつく……夏の落語のハイライトである。そこで若旦那が町内の人びとの人情に出会うわけだが、気の毒な人を助けるというのは、その時代では、ごくあたりまえのことだった。誓願寺|店《だな》で困った母子を助けることも「文七元結」[#「「文七元結」」はゴシック体]の長兵衛のような物々しさはない。「情けは人のためならず」式の善行応報、勤労勧誘を強調するのは、戦前の速記本に多い。また三遊派に伝わる定本は、おかみさんが首っ吊りをしてこときれてしまう結末になっている。三日飲まず食わずの若旦那が救われたと同じように、首っ吊りのおかみさんが救われないのはあまりに無残であり、後味が悪いのではないか。その点、三代目三遊亭金馬は、ここに収録したようにおかみさんを医者に運んで、生命《いのち》を取りとめた型をとっている、編者も賛成である。別名「唐茄子屋政談」とも題するが、裁きの部分は最初からない。また人情噺なのでサゲもない。 [#ここで字下げ終わり] 麻生芳伸(あそう・よしのぶ) 一九三八年、東京に生まれる。京華高校卒業。映画、ジャズ、落語、本が大好きな芸能プロデューサー。林家正蔵、岡本文弥、高橋竹山、山田千里、エルビン・ジョーンズらのステージ、衣笠貞之助の映画の上映、津軽三味線や瞽女《ごぜ》唄などのレコードをプロデュース。編著書に『林家正蔵随談』『噺の運び』『こころやさしく一所懸命な人びとの国』『林檎の實』『往復書簡・冷蔵庫』(共著)などがある。 本作品は一九七六年二月に三省堂から刊行され、一九八〇年六月、社会思想社の現代教養文庫に収録、一九九九年二月、ちくま文庫に収録された。